日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガーランド」の意味・わかりやすい解説
ガーランド(Red Garland)
がーらんど
Red Garland
(1923―1984)
アメリカのジャズ・ピアノ奏者。本名ウィリアム・M・ガーランドWilliam M. Garland。テキサス州ダラスに生まれ、10代のころはプロ・ボクサーとして30回におよぶ対戦経験がある。そのためジャズ・プレイヤーとなったのは遅く20歳を過ぎてからである。音学歴は初めクラリネットを習い、次いでチャーリー・パーカーに影響を与えたといわれるアルト・サックス奏者バスター・スミスBuster Smith(1904―91)からアルト・サックスを習うが、後にピアノに転向する。
1944年軍を除隊し、45年同郷のトランペット奏者ホット・リップス・ペイジHot Rips Page(1908―54)に見いだされ、プロ・ミュージシャンとなる。当初はフィラデルフィア、ボストンなどで演奏するローカル・ミュージシャンであったが、当時の一流ミュージシャンとの共演を体験している。そのなかにはパーカーをはじめ、ファッツ・ナバロFats Navarro(1923―50、トランペット)、コールマン・ホーキンズ、ベン・ウェブスター、ロイ・エルドリッジRoy Eldridge(1911―89、トランペット)といったそうそうたるミュージシャンたちが含まれている。47年から48年にかけては、テナー・サックス奏者エディ・ロックジョー・デービスEddie Lockjaw Davis(1922―86)のバンドに加わりツアーを行う。
彼にとって最大の転機は、1955年当代一の人気トランペット奏者マイルス・デービスの新しいクインテットに、テナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンとともに参加したことだ。これにより彼の名前は一躍ジャズ・シーンに知れわたることになる。マイルス・バンドにおけるベース奏者ポール・チェンバーズPaul Chambers(1935―69)、ドラム奏者フィリー・ジョー・ジョーンズPhilly Joe Jones(1923―85)と形成するリズム・セクションは、「ザ・リズム・セクション」と呼ばれるほど見事なチームワークをみせ活躍する。アルト・サックス奏者アート・ペッパーのサイドマンとなった1957年の作品『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』はその代表例。この時期プレスティッジ・レーベルと契約し、自分がリーダーとなったピアノ・トリオ・アルバム、コルトレーンを加えた作品、そしてコルトレーンのリーダー作のサイドマンなど、多くの録音を行う。
1962年引退し故郷のダラスに戻るが、71年再びニューヨークに出て、ドイツのレーベルMPSに2枚のアルバムを録音する。これらの作品は、プレスティッジ・レーベルとのピアノの音色の録音法の大きな違いもあって、ガーランド再生をファンに印象づけた。だが演奏活動はそれだけで再度引退状態となり、1977年新興レーベル、ギャラクシーに録音するまで活動休止。1977年以降、心臓病で亡くなる84年までギャラクシー・レーベルを中心にコンスタントな演奏活動を行う。そのほかの代表作は1956年の『ア・ガーランド・オブ・レッド』『グルーヴィー』、71年の『ザ・クォータ』など。彼のピアノ奏法の大枠は「モダン・ジャズ・ピアノの開祖」と呼ばれたバド・パウエルの系列に属するが、独特のマイルドでかつ輝かしいピアノのタッチを生かした温厚なスタイルは、典型的な「ハード・バップ・ピアニスト」として多くのファンから親しまれた。
[後藤雅洋]
ガーランド(Judy Garland)
がーらんど
Judy Garland
(1922―1969)
アメリカのポピュラー歌手、女優。本名フランセス・エセル・ガム。ミネソタ州生まれ。両親はボードビル芸人。少女時代に芸能界入りし、1936年から映画に出演。映画『オズの魔法使い』(1939)でアカデミー特別賞を受賞。この映画で彼女が歌ってヒットした主題歌『虹(にじ)の彼方(かなた)に』は彼女のテーマソングになった。『若草の頃(ころ)』(1944)、『踊る海賊』(1948)、『イースター・パレード』(1948)、そして入神の名演をみせた映画『スター誕生』(1954)以後は主として舞台で活躍、体当たりの熱演で人気を高め、ミス・ショービジネスと称されたが、ロンドンでのショーの直後、睡眠薬を誤って飲みすぎて急死した。結婚歴3回、二度目の夫、映画監督ビンセント・ミネリとの間に生まれたのが女優ライザ・ミネリである。
[青木 啓]
ガーランド(Hamlin Garland)
がーらんど
Hamlin Garland
(1860―1940)
アメリカの小説家。ウィスコンシン州の開拓農民の子に生まれ、中部地方を転々としたのちボストンで苦学のすえ教員となったが、ハウェルズの影響下、彼自らベリティズムとよぶリアリズム文学の必要性を主張する一方、H・ジョージの単一課税論に共鳴し農民運動にも参加した。中西部の農村を描いた短編集『本街道』(1891)など数多くの作品があり、『中部辺境の娘』(1921)でピュリッツァー賞を受賞した。
[井上謙治]