日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウェブスター」の意味・わかりやすい解説
ウェブスター(Ben Webster)
うぇぶすたー
Ben Webster
(1909―1973)
アメリカのジャズ・サックス奏者。本名ベンジャミン・フランシス・ウェブスターBenjamin Francis Webster。ミズーリ州カンザス・シティに生まれ、バイオリン、クラリネットなどを経験した後、ピアニストとして演奏活動を始める。レスター・ヤングの父ウィリス・ハンディ・ヤングWillis Handy Youngの家族バンドに参加した時に、アルト・サックスの奏法を学び、後にテナー・サックスに転向する。
ウィルバーフォース大学卒業後、1932年にカウント・ベイシー楽団の前身である、同郷のベニー・モーテンBennie Moten(1894―1935)の楽団に参加。1933年ニューヨークに出て、1934年フレッチャー・ヘンダーソンFletcher Henderson(1897―1952)、ベニー・カーターBenny Carter(1907―2003)の楽団に参加する。1936年から1937年にかけては、キャブ・キャロウェイCab Calloway(1907―1994)、スタッフ・スミスStuff Smith(1907―1967)の楽団、1939年にはテディ・ウィルソンTeddy Wilson(1912―1986)の楽団に加わる。
このように彼は1930年代の有力な「スウィング・バンド」のテナー・サックス奏者を歴任するが、もっとも注目すべきは、1940年から1943年まで参加したデューク・エリントン楽団での経歴である。エリントンはウェブスターの個性的な音色に魅了され、彼がバンドに参加してからは、ほとんどの曲目でウェブスターにソロをとらせている。また彼が参加した時期は、ベース奏者のジミー・ブラントンJimmy Blanton(1918―1942)をはじめ、エリントン楽団がもっとも充実したメンバーをそろえていた時代でもあり、エリントンの楽団であるにもかかわらず「ブラントン・ウェブスター・バンド」と通称されている。この時期の演奏は、3枚組のCD『ブラントン・ウェブスター・バンド』 Never No Lament; The Blanton-Webster Bandに収められており、これはエリントンの代表作でもある。
1943年にはソロ・プレイヤーとして独立し、ニューヨークのジャズの中心であった52丁目のジャズ・クラブに出演、1948年には再びエリントン楽団に短期間参加する。その後、有能なジャズ・プロデューサー、ノーマン・グランツNorman Granz(1918―2001)の率いる興行ジャズ・バンド、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックJazz At The Philharmonic(J. A. T. P.)に加わりワールド・ツアーに参加する。1950年代には故郷に戻り、時折演奏活動を行うという状況であったが、1962年ジャズ・クラブ「ハーフノート」に出演し話題を呼んだ。
1964年にはヨーロッパに渡り、オランダに居住してヨーロッパ各地で演奏した。1960年代末にコペンハーゲンに移り住み、1973年オランダのアムステルダムで亡くなるまで演奏活動を続けた。代表作には1956年にピアノ奏者のアート・テータムと共演した、『アート・テイタム~ベン・ウェブスター・クァルテット』、1957年の『ソウルヴィル』がある。彼のテナー奏法は、ジャズ・テナー・サックスの父といわれたコールマン・ホーキンズの影響を受けているが、エリントンが重用したように独特の音色とフレージングを持っている。特に、サックスの音に呼気を巧みに融合させ、かすれたようにも聞こえる「サブ・トーン」と呼ばれる技法を使っての表現力は、右に出るものはない。
[後藤雅洋]
ウェブスター(Daniel Webster)
うぇぶすたー
Daniel Webster
(1782―1852)
アメリカの政治家。1月18日ニュー・ハンプシャー生まれ。連邦下院議員、上院議員、国務長官の要職を歴任し、南北対立の緊張が深まるなかにあって、南部の理論に対抗して北東部の雄弁な代弁者の役割を務め、また、連邦の統一を主張した。ニュー・イングランドを中心とした製造業の発展とともに、保護関税論に転じ、1828年の関税法に対する南部の反対とその後の「無効宣言」論争のなかで、これに対抗する論陣を張り、30年のR・V・ヘーンとの論争のなかで、連邦の統一と一体性を強く主張した。しかし、第二合衆国銀行の特許更新問題や財政政策をめぐってジャクソン大統領との対立を深め、やがてホイッグ党の結成にあたって指導的役割を果たした。42年にタイラー治下の国務長官としてウェブスター‐アシュバートン条約を締結し、アメリカ・カナダ国境を画定した。「一八五〇年の妥協」を連邦分裂の回避という点から支持し、反奴隷制派の反発を招くところとなった。52年10月24日没。
[中谷義和]
ウェブスター(John Webster)
うぇぶすたー
John Webster
(1580ころ―1634以前)
イギリスの劇作家。後期エリザベス朝演劇を代表する悲劇作家だが、正確な生没年代をも含めて、その伝記的事実はきわめてわずかしか知られてはいない。作品から判断する限り、学識もかなりなものだが、学歴もまったく不明。劇作家としての出発は、興行師ヘンズローPhilip Henslowe(1550―1616)の依頼による合作者としてらしく、1602年に他の3人とともに合作した記録が残っているが、これが信頼に足る最初の資料である。その後の一時期、少年劇団のためにも執筆したが、最盛期は1610年ごろであり、このころ彼の名を不朽にした『白魔』(1611/1612)、『モルフィ公爵夫人』(1613/1614)の二大傑作悲劇を、アン女王一座、国王一座という成人劇団のために書いている。これらはともに残忍な復讐(ふくしゅう)悲劇だが、毒殺、絞殺、狂人の舞踏などはでな道具立てと、その間に瞥見(べっけん)する鋭い人間観察を示すアフォリズムにより、当時の退廃気分に過不足なき演劇的表現を与えたところにその特色がある。また従来の復讐悲劇とは異なり、復讐者より被害者に重点が置かれているのも注目に価する。ほかに、悲喜劇『悪魔の訴訟』(1617)などがある。
[玉泉八州男]
『関本まや子訳『モルフィ公爵夫人』(『エリザベス朝演劇集』所収・1974・筑摩書房)』▽『I・スコット・キルヴァート著、尾崎寄春訳『ウェブスター』(1971・研究社出版)』
ウェブスター(Noah Webster)
うぇぶすたー
Noah Webster
(1758―1843)
アメリカの辞典学者、教育家、政治家。コネティカット州に生まれ、エール大学卒業。1823年、法学博士。学校教師時代に国語教科書革新を企て著した『綴字(つづりじ)読本』(1783)は全国に歓迎された。次に辞典に力を入れ、1806年『簡約英語辞典』を編集、1800年ころからは語源の研究に熱中し、20か国語対照表を作成した。それを生かして大辞典を企て、1824~1825年イギリスの国語の実体研究のためケンブリッジ大学に滞在。ついに1828年に全2巻の『アメリカの英語辞典』An American Dictionary of the English Languageを発行した。これは7万語の大辞典で、今日なお盛んに利用されている。とくに日本の英語辞典の基礎ともなった。
[彌吉光長 2018年6月19日]
ウェブスター(Jean Webster)
うぇぶすたー
Jean Webster
(1876―1916)
アメリカの女流作家。本名Alice Jane Chandler Webster。ニューヨーク州に生まれる。バッサー大学卒業後、『パッティ、大学へ行く』(1903)、『あしながおじさん』(1912)、『続あしながおじさん』(1915)などで文名を確立した。軽妙でユーモアに満ちた文体と、作品を流れるアメリカ本来の理想主義が、現在も若い読者をひきつけている。文豪マーク・トウェーンは母方の叔父にあたる。1915年、弁護士と結婚したが、翌年、女子を生んでまもなく死亡した。
[神宮輝夫]
『内田庶訳『パティ、カレッジへ行く』(1967・講談社)』