ケリー(読み)けりー(英語表記)Mike Kelley

デジタル大辞泉 「ケリー」の意味・読み・例文・類語

ケリー(Gene Kelly)

[1912~1996]米国のダンサー・映画俳優。ダンサーとしてブロードウエーで活動、のち映画界に転身。ダイナミックなダンスで人気を博し、脚本や監督にも進出した。出演作「雨にうたえば」「巴里パリのアメリカ人」など。

ケリー(Grace Kelly)

[1928~1982]米国の映画女優。知的で格調の高い演技と美貌で人気を博した。1956年にモナコ国王と結婚。自動車事故で死亡。「喝采かっさい」「泥棒成金」「上流社会」などに出演。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケリー」の意味・わかりやすい解説

ケリー(Mike Kelley)
けりー
Mike Kelley
(1954―2012)

アメリカの美術家。デトロイト生まれ。1976年ミシガン大学芸術学科を卒業後、カリフォルニア芸術学院(カル・アーツ)の修士課程に学び1978年卒業。ミシガン大在籍中から前衛演劇やウィーン・アクショニズム(1960年代初頭にウィーンで結成された過激なパフォーマンスを特徴としたグループ)に関心を寄せ、友人のジム・ショーJim Shaw(1952― )とともに、バンド「デストロイ・オール・モンスターズ」を結成し、電子音やテレビ映像などをまじえて演奏活動を行う。カル・アーツでは、同校教授のマイケル・アッシャーMichael Asher(1943―2012)、ジョン・バルデッサーリJohn Baldessari(1931―2019)らによる、アカデミックな芸術制度批判に反発しつつも、イメージをコンセプチュアルな言語として扱い、物を現代のコミュニケーションの構造のなかでとらえる記号学的姿勢を学んだ。

 ポップ・アートやパンク音楽の影響を媒介に、美術のコミュニケーション領域を広げ、その内容を同時代の生活に関わるものにつくり替えるのが、ケリーの初期の目的だった。『ポルターガイスト』(1979)に始まる平面作品では、文字をイメージとして扱うコンセプチュアル・アートの方法を踏襲しながら、手書き文字とアンダーグラウンド・コミック風のドローイングを組み合わせた「偽説明図」や、合成写真のいたずら的要素をとりいれたフォト・テクストがつくられた。一方でヨーゼフ・ボイスの影響を受け、学生時代のバンド活動をより前衛的に発展させたミクスト・メディア・パフォーマンスを行った。それは、『猿の島』(1982~1983)、『崇高』(1983~1984)、『海辺のゴジラ』(1984)、『プラトンの洞窟、ロスコのチャペル、リンカーンの横顔』(1986)と題されたパフォーマンスで、哲学的、詩的テーマにもとづいて、行為、会話、朗読、演奏、オブジェや説明図を組み合わせた作品だった。また、ドラッグ・クイーン(誇張された女装をする男性)やロック・グループ、ソニック・ユースら美術分野外の人々とのコラボレーションによって、ボイスのパフォーマンスに顕著な、アーティストのカリスマ性は稀薄になった。パフォーマンスの内容も、哲学的であると同時に滑稽で暴力的であり、文化人類学とマンガ、ハプニングを取り入れ、さらにビト・アコンチ、ブルース・ナウマンらから影響を受けたパフォーマンスとポスト・パンクのコンサートを組み合わせるというカーニバル的なものだった。

 1980年代を通してケリーは、大衆の欲望を伝える物やイメージを素材に、時代や地域の生活行動に根拠をもつ、新しいコンセプチュアル・アートの確立を試みていた。その試みは、1980年代終わりから1990年代初めにかけ、三つの表現方法によって実現された。その方法とは、(1)スーパーマーケットや学食の掲示板にみられるようなポスターや募集ビラの文字をフェルトで切り抜いて布に張り付けた大判の平面作品、(2)テキスト付きのイメージや物を演劇の装置のように組み合わせたインスタレーション(『快楽の代償』(1988)など)、(3)擦り切れたアフガン織の敷物や古いぬいぐるみを使ったインスタレーション、である。とくに、ぬいぐるみをアフガン織の絨毯に縫い付けた作品や、ぬいぐるみの顔を縫い合わせてつくったモビールは、贈り物として手づくりされる不細工なぬいぐるみが地域の人間関係に与える影響や嫌悪感、罪の意識に眼を向けさせた。

 こうした冒涜的な表現の傾向は、パフォーマンス・アーティスト、ポール・マッカーシーとのパフォーマンス、ビデオ作品『ハイジ』(1992~1993)にもうかがうことができ、そこでは幼児退行的、糞尿愛好的な冗談をちりばめ、文化的市民生活のなかで抑圧される人間の破壊衝動や幼児的欲望などの「おぞましいもの」への妄執の芸術表現とみなされた。そして、1990年代初めに台頭したさまざまな「おぞましさ」を表現した美術家たち(キキ・スミス、ロバート・ゴーバーRobert Gober(1954― )、カレン・キリムニクKaren Kilimnik(1955― ))と並列して論じられた。しかし、『クラフト形態学フローチャート』(1991)を最後にぬいぐるみを使った作品をつくらなくなり、その後はマッカーシーとのコラボレーション『ソッドとソディーの靴下宿舎』(1999)にみられるように、建築的空間と演劇的装置とパフォーマンスを組み合わせ、自伝的要素をもちながらも、教育や軍隊などの制度が人間の行動や関心や趣味などに与える影響を考察させるインスタレーションを試みた。

 1989~1997年ホイットニー・バイエニアル(ニューヨーク)に毎回参加、1991年カーネギー国際美術展(ピッツバーグ)、1992年ドクメンタ9(ドイツ、カッセル)、1997年ドクメンタ10など重要な国内展、国際展に参加。また、1992年ロサンゼルス現代美術館の「ヘルター・スケルター――1990年代のL. A. アート」展、1993年のホイットニー・アメリカ美術館「おぞましい芸術――アメリカ芸術における嫌悪と欲望」展、1996年のパリ、ポンピドー・センターにおける「不定形なもの――さかしまのモダニズム」展に参加。1993年ホイットニー・アメリカ美術館によって組織された個展がアメリカとヨーロッパ3か所を巡回。1987年よりカリフォルニア州パサディナのアート・センター・カレッジ・オブ・デザインの大学院で教鞭をとった。

[松井みどり]

『Mike Kelley, John Welchman et al.Mike Kelley (1999, Phaidon Press, London/New York)』『Rosalind KraussInform Without Conclusion (in October, Fall 1996, MIT Press, Cambridge)』『Hal FosterObscene, Abject, Traumatic (in October, Fall 1996, MIT Press, Cambridge)』


ケリー(Wynton Kelly)
けりー
Wynton Kelly
(1931―1971)

アメリカのジャズ・ピアニスト。西インド諸島ジャマイカに生まれ、4歳のとき両親とともにアメリカに移住し、ニューヨーク、ブルックリンで育つ。わずか12歳でプロ・ミュージシャンとして活動し、15歳でリズム・アンド・ブルース・バンドの一員としてカリブ海地方を演奏旅行する。その後数年はリズム・アンド・ブルース・バンドで経験を積むが、テナー・サックス奏者エディ・ロックジョー・デービスEddie Lockjaw Davis(1922―1986)、歌手でもあるアルト・サックス奏者エディ・クリーンヘッド・ビンソンEddie Cleanhead Vinson(1917―1988)らとの付き合いから、ジャズも演奏するようになる。

 1951年、19歳でブルーノート・レーベルに初リーダー作を吹き込み、続いてテナー・サックス奏者レスター・ヤング、トランペット奏者ディジー・ガレスピーと共演する。1952年から1954年まで兵役につき、除隊後再びガレスピーのサイドマンや、歌手のダイナ・ワシントンDinah Washington(1924―1963)の伴奏者を務める。また短期間だが、ベース奏者チャールズ・ミンガスのバンドに在籍し、1957年以降は自分の率いるピアノ・トリオで活動する。またこの時期はサイドマンとしてもブルーノート・レーベルをはじめ、サボイ、リバーサイドコンテンポラリーマーキュリー、ビー・ジェイなど、多くのジャズ・レーベルに録音を残している。1959年、トランペット奏者マイルス・デービスのセクステットにビル・エバンズの後任として入団し、マイルスの歴史的アルバム『カインド・オブ・ブルー』のセッションに参加する。1963年までマイルス・デービス・バンドに在籍し名サイドマンぶりを見せるが、その後は同バンドにおけるリズム・セクションである、ベース奏者のポール・チェンバーズPaul Chambers(1935―1969)、ドラム奏者のジミー・コブJimmy Cobb(1929―2020)とトリオを結成し、1964年(昭和39)来日した。

 彼のピアノ・スタイルはバド・パウエルの影響を受けたものだが、早い時期にオリジナリティを確立させ、心地よいスウィング感覚と歯切れの良いリズムでピアニストとしての評価を定着させた。またサイドマンとしての能力もずば抜けており、1950年代から1960年代にかけての名盤といわれるアルバムには、彼の名前がクレジットされていることが多い。例をあげれば、1959年にマイルス・バンドのサイドマンたちで制作した『キャノンボール・アダレイクインテット・イン・シカゴ』、1962年に録音されたギター奏者ウェス・モンゴメリーのアルバム『フル・ハウス』などがある。本人のリーダー作は思いのほか少ないが、これは当時ピアノ・トリオ・アルバムに対する需要が少なかったことと関係がある。なかでは1960年に録音されたトリオ作品『ケリー・アット・ミッドナイト』が優れている。1971年カナダのトロントにて病死。

[後藤雅洋]


ケリー(Ellsworth Kelly)
けりー
Ellsworth Kelly
(1923―2015)

アメリカの画家、彫刻家。プラット美術学校、ボストン美術館付属美術学校、パリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に学ぶ。ブランクーシやアルプに感化され、1950年代まで、対象物を単純化したり、感情を交えずに再現する作品を制作する。ついで明快なハード・エッジの色面抽象に向かったが、そこには自然を連想させるものがある。1960年代、色名表のような色彩とシェープド・カンバス(変形カンバス)、パネルによる物体的な絵画、色面を三次元的に組み合わせた立体をつくる。その後は逆に、白と黒の絵画、ほとんど単色の金属板を用いたレリーフ状の作品へと変化している。

[藤枝晃雄]


ケリー(Grace Kelly)
けりー
Grace Kelly
(1928―1982)

アメリカの映画女優、モナコ公妃。フィラデルフィアの名家に生まれる。ニューヨークの舞台から映画界に進出。5年間に『真昼の決闘』(1952)、『ダイヤルMを廻(まわ)せ!』(1954)、『裏窓』(1954)、『喝采(かっさい)』(1954。アカデミー主演女優賞受賞)、『泥棒成金』(1955)、『上流社会』(1956)など11本に出演。1956年モナコ公国のレーニエ国王と結婚、1男2女をもうけたが、自動車事故死した。

[日野康一]


ケリー(Ned Kelly)
けりー
Ned Kelly
(1855―1880)

19世紀オーストラリアの強盗団のリーダー。「もっとも有名なオーストラリア人」といわれる。アイルランド系流刑囚を父としてビクトリア州に生まれる。7歳で父に死なれ、貧困のゆえに大牧場主の羊や牛を盗み、少年時代にしばしば投獄された。1878年ビクトリア州北東部の未開地に逃れ、弟ら3人とともに銀行襲撃、警官射殺などの犯行を重ねた。80年6月、同州グレンローワンのホテルを占拠しているところを警官隊に包囲されて銃撃戦となり、他の3人は死亡したが、ネッドは鋤(すき)の刃でつくった防弾甲冑(かっちゅう)を着用して抵抗、負傷して逮捕された。同年11月メルボルンで絞首刑に処された。権威に対する抵抗の、また立憲君主制に反対する共和制派の象徴として民衆のヒーローとなっている。

[越智道雄]


ケリー(Florence Kelley)
けりー
Florence Kelley
(1859―1932)

アメリカの社会改良運動家。奴隷制反対に活動した父の影響を受け、早くから社会問題に関心を示し、弁護士を目ざしたが、女性のため入学を認められず、スイスへ留学した。すでに婦人、児童の地位改善運動に参加していた彼女は、ヨーロッパのマルクス主義者と知り合い、のちエンゲルスの著作を英訳した。帰国後の1891年、シカゴのハル・ハウスに加わり、イリノイ州の工場改善法成立に力を尽くし、その検査官となった。さらにニューヨークで消費者の圧力で労働条件の改善を目ざす全国消費者連盟に参加し(99年より没年まで書記長)、社会主義者の観点をもちつつ、婦人、児童の労働問題のために活動した。

[長沼秀世]

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改訂新版 世界大百科事典 「ケリー」の意味・わかりやすい解説

ケリー
Grace Kelly
生没年:1928-82

アメリカの映画女優。モナコ王妃。ペンシルベニア州フィラデルフィア生れ。〈クール・ビューティー〉といわれた清楚(せいそ)な美貌で1950年代のハリウッドを代表するブロンドの美人女優として一世をふうびした。とくに〈ブロンドには女の神秘がある〉というアルフレッド・ヒッチコック監督の理想的ヒロインとして《ダイヤルMを廻せ!》《裏窓》(ともに1954),《泥棒成金》(1955)で,ヒッチコックが〈セクシュアル・エレガンス〉と呼び,また〈雪をかむった噴火山〉にたとえた,内に秘めたセックスアピールを発揮した。モデル,舞台女優をへて1951年映画界に入る。フレッド・ジンネマン監督,ゲーリー・クーパー主演の《真昼の決闘》(1952),ジョン・フォード監督,クラーク・ゲーブル主演の《モガンボ》(1953),アカデミー主演女優賞を受賞したジョージ・シートン監督《喝采》(1954),サイレント時代の大女優リリアン・ギッシュのヒロイン像をリメークした《白鳥》(1956),トーキー時代の最初の大女優キャサリン・ヘプバーン主演のロマンチック・コメディー《フィラデルフィア物語》(1940)のリメーク《上流社会》(1956)など,11本の映画に出演したが,人気の絶頂のまま,56年,モナコ公国のレーニエ大公と結婚して引退。〈現代のシンデレラ物語〉のヒロインになった。その後,ヒッチコックは《鳥》(1963)と《マーニー》(1964)に彼女の出演を要請したが,実現しなかった。82年,自動車事故で死亡。
執筆者:


ケリー
Ned Kelly
生没年:1855-80

19世紀のオーストラリアに続出したブッシュレンジャー(追剝)の一人。本名はエドワードEdward。ネッドはエドワードの愛称。アイルランド人流刑囚の息子だったため最初から色眼鏡で見られていたうえ,オーストラリア開拓史特有の大牧場主(スクオッター)と貧しい小農場主(セレクター),移動労働者との対立にまきこまれ,家族ともども家畜泥棒として頻繁に逮捕された。1878年母親まで逮捕されるに及んでビクトリア州北東のウォンバット山中にこもり,いわゆる〈ケリー・ギャング〉を結成,警官殺害,銀行襲撃など一連の犯行を重ねたが,80年6月,警官隊と銃撃戦の末,負傷して逮捕され,11月メルボルンで絞首刑にされた。対英独立戦争を戦わなかったオーストラリアでは,大英帝国への反抗の象徴のひとつに見たてられ,多くの小説,戯曲,映画に描かれてきた民衆ヒーローである。
執筆者:


ケリー
Florence Kelley
生没年:1859-1932

アメリカの社会改革家。社会主義運動を経て,ジェーン・アダムズのハル・ハウスでセツルメント活動に身を投じ,その後1899-1932年,全国消費者同盟書記長として消費者運動を指導した。特に若年労働の廃止,女性労働者保護などの社会立法のために尽力したが,人種差別撤廃,婦人参政権,世界平和などの運動においても活躍。完全な男女の平等を保障する平等権修正(ERA)には,女性労働者の保護を損なうとして反対した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ケリー」の意味・わかりやすい解説

ケリー
Kelly, Gene

[生]1912.8.23. ペンシルバニア,ピッツバーグ
[没]1996.2.2. カルフォルニア,ビバリーヒルズ
アメリカ合衆国の舞踊家,映画俳優,振付家。本名 Eugene Curran Kelly。ピッツバーグ大学で経済学を学ぶ。1938年ニューヨークに行き,ブロードウェーのミュージカル『パル・ジョーイ』Pal Joey (1940) に出演したのを皮切りに『カバーガール』Cover Girl (1944) などのミュージカル映画に出演,振り付けも手がけるようになる。『踊る海賊』The Pirate (1948) ,『巴里のアメリカ人』American in Paris (1951,アカデミー作品賞) などを経て,『踊る大紐育』On the Town (1949) ,『雨に唄えば』Singin'in the Rain (1952) などでは監督,振り付け,主役として活躍し,ミュージカル映画に不動の地位を築いた。そのほか,ミュージカル『フラワー・ドラム・ソング』FLOWER DRUM SONG (1958) を演出し,パリ・オペラ座バレエ団のためにジョージ・ガーシュイン作曲『神々の踊り』Pas de Deux (1960) の振り付けをした。1951年アカデミー賞名誉賞受賞。1960年レジオン・ドヌール勲章を受けた。

ケリー
Kelly, Grace

[生]1929.11.12. ペンシルバニア,フィラデルフィア
[没]1982.9.14. モナコ
アメリカの映画女優。フィラデルフィアの名門に生れる。モデル,ブロードウェーの舞台女優を経て,1951年映画界に入る。アメリカのスターにはまれな優雅さで,一世を風靡し,ヒッチコック監督が「セクシャル・エレガンス」と呼んで,好んで自分の作品に寵用した。引退するまで,都合 11本の映画に出演し,人気絶頂の 56年,モナコ公国のレーニエ大公 (→レーニエ3世 ) と結婚し引退,モナコ王妃となる。 82年自動車事故で死亡。おもな出演作品に『真昼の決闘』 (1952) ,『ダイヤルMを廻せ!』 (53) ,『モガンボ』 (53) ,『裏窓』 (54) ,『喝采』 (54,アカデミー主演女優賞) ,『泥棒貴族』 (55) ,『上流社会』 (56) ,『白鳥』 (56) などがある。

ケリー
Kelly, Howard Atwood

[生]1858.2.20. ニュージャージー,カムデン
[没]1943.1.12. ボルティモア
アメリカの産婦人科医。数々の有用な診断器具の改良,考案で知られている。 1889~1919年ジョンズ・ホプキンズ大学の初代産婦人科教授として活躍し,同大学の世界的名声を高めた。また,フィラデルフィアにケンシントン婦人病院,ボルティモアにケリー病院を創立。アメリカで最初に癌治療にラジウムを,局所麻酔にコカインを使った。子宮を腹壁に固定して後屈を治療する手術を考案したほか,彼によって改良された膀胱鏡,直腸鏡はケリー鏡,動脈鉗子はケリー鉗子と呼ばれている。『婦人科手術』 Operative Gynecology (2巻,1898,1906) ほか多くの著書がある。

ケリー
Kelly, Ned

[生]1855.6. ビクトリア,ビバリッジ
[没]1880.11.11. メルボルン
19世紀のオーストラリアで最も著名な無法者。本名 Edward Kelly。 1877年ビクトリア植民地で馬を盗んだために追われ,ニューサウスウェールズ植民地に逃れたが,翌年同じく逃亡犯人だった兄と他の2名を率いてギャング団をつくり,78~80年ビクトリアとニューサウスウェールズで次々と強盗を働いた。 80年6月グレンローワンの町を乗取ったが,警察に包囲されて逮捕され,メルボルンの刑務所で絞首刑となった。その後なかば伝説化され,大土地所有者に対する労働者の戦いの化身とされた。

ケリー
Kelly, Ellsworth

[生]1923.5.31. ニューヨーク,ニューバーグ
アメリカの画家,彫刻家。ボストン美術館付属美術学校,パリの美術アカデミーに学ぶ。フィラデルフィアの交通館 (1957) ,1964~65年のニューヨーク世界見本市のニューヨーク州パビリオンの彫刻を手がける。三原色などによる単純な形態の作品を特徴とする。

ケリー
Kelly, George

[生]1887.1.16. フィラデルフィア
[没]1974.6.18.
アメリカの劇作家。ほら吹き男を主人公にした『見栄坊』 The Show-Off (1924) ,体面だけを重んじる妻が夫に捨てられる話を書いた『クレイグの妻』 Craig's Wife (25,ピュリッツァー賞) が代表作。

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百科事典マイペディア 「ケリー」の意味・わかりやすい解説

ケリー

米国の俳優,映画監督。ペンシルベニア州生れ。大学で法律を学んだ後,1938年ミュージカルの舞台を踏む。1942年J.ガーランドの相手役で映画デビュー。《カバーガール》(1944年),《三銃士》(1948年),ガーシュウィンの曲をモティーフにした《巴里のアメリカ人》(1951年)などに出演し,ミュージカル映画のトップ俳優となる。S.ドーネンとの共同監督による《踊る大紐育》(1949年)以降は監督も手がけ,サイレントからトーキーへの転換期を舞台にした代表作《雨に唄えば》(1952年,S.ドーネンとの共同監督),全編台詞なしのミュージカル《舞踏への招待》(1954年),《いつも上天気》(1955年),B.ストライザンド主演の《ハロー,ドーリー》(1969年)などを発表。ミュージカル以外の作品にJ.スチュアート主演の西部劇《テキサス魂》(1970年)がある。
→関連項目ミネリ

ケリー

米国の俳優。ペンシルベニア州生れ。モデル,舞台俳優をへて1951年映画界入り。ブロンドの髪,〈クール・ビューティ〉と称された気品溢れる容貌で,1950年代のハリウッドを代表した。とりわけ《裏窓》(1954年),《ダイヤルMを廻せ!》(1954年),《泥棒成金》(1955年)などのA.ヒッチコック作品には欠かせない存在となった。ほかにF.ジンネマン監督《真昼の決闘》(1952年),C.ウォーターズ監督《上流社会》(1956年)などに出演。G.シートン監督《喝采》(1954年)でアカデミー主演女優賞を受賞。1956年モナコ公国レーニエ大公の妃となり,引退。1982年に自動車事故で死去。
→関連項目エルメスレーニエ[3世]

ケリー

米国の美術家。ミシガン州生れ。1970年代からパフォーマンスなどの活動を展開していたが,1980年代に入って漫画のイメージや,縫いぐるみという日常的な可愛らしいイメージの存在を消費社会の不気味さを暴き出す他者へと変貌させてしまう《ハーフ・ア・マン》シリーズで知られるようになる。このシリーズは,ヨーロッパや日本の若い世代のアーティストに多大な影響を与えた。ケリー自身は縫いぐるみを巡る〈美術的〉な解釈に嫌悪を覚え,1991年以降は別の形での制作に向かっている。むしろ彼の眼差しは,常に社会の周辺から立ち上ってくる〈他者〉に対する人間の根源的な不安や恐怖,またそれを自らの規範に取り込もうとする心理的・社会的な欺瞞を見つめているようである。→シミュレーショニズム

ケリー

米国の画家。ニューヨーク州生れ。植物や人工物の抽象化から出発し,1951年には格子状の絵画を制作,また1952年にはモノクロームの絵画を制作しており,ミニマル・アートの先駆者とも言われている。1960年代の長方形や楕円などの単純な形態から,色彩の対比を展開した色の矩形を並列した作品,そして大胆な形態のシェイプド・キャンバスによる半立体的な作品へと移行してきている。純色による鮮やかな色面とシェイプド・キャンバスが作り出す空間性は,単なる視覚的な効果を超えて,鑑賞者の知覚全体に働きかける力強さをもっている。→ハード・エッジ

ケリー

アメリカの政治家。アメリカ合衆国国務長官(第68代)。コロラド州オーロラ生まれ。先祖はチェコのカソリックに改宗したユダヤ人。イェール大学で政治学を学び,1966年卒業。ベトナム戦争に従軍し負傷,帰還後ベトナム反戦運動に参加し逮捕された経験がある。1984年マサチューセッツ州選出上院議員に当選。2004年民主党大統領候補選を勝ち抜き,指名候補となるが,現職の共和党ジョージ・ブッシュ大統領に敗れる。2008年の民主党大統領候補選の早い段階でバラク・オバマを支持した。2012年12月,再選を果たしたオバマ大統領から国務長官に指名された。政治的には一貫して中道リベラル派とされている。

ケリー

米国の法律家,社会改革家。チューリヒで法学を学び,亡命中の社会主義者たちから多大な影響を受ける。米国に戻って,ジェーン・アダムズのハル・ハウスで働く。労働条件の改善に尽力,とくに女性と子どもの保護法制定を推進した。1905年に〈全米婦選協会〉の副会長を務め,1919年にはチューリヒにおける〈恒久平和のための国際女性会議〉に参加した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ケリー」の解説

ケリー Cary, Otis

1851-1932 アメリカの宣教師。
1851年4月20日生まれ。アメリカン-ボードから派遣され,明治11年(1878)来日,岡山で伝道。25年京都にうつり,同志社神学校教授。神戸女学院初代理事長もつとめた。大正7年帰国。著書「A History of Christianity in Japan」は日本キリスト教史の貴重な資料とされる。1932年7月23日死去。81歳。アンドーバー神学校卒。

ケリー Kelly, Harry Charles

1908-1976 アメリカの物理学者。
1908年9月3日生まれ。昭和21年連合国最高司令官マッカーサーの科学顧問として来日。GHQ科学技術課次長となって日本の科学技術行政の改革をすすめ,24年日本学術会議を発足させる。25年アメリカから放射性同位元素を輸入,仁科芳雄の研究を支援した。1976年2月2日死去。67歳。ペンシルベニア州出身。リーハイ大卒。

ケリー Cary, Otis

1921-2006 アメリカの日本文化研究者。
明治11年来日したO.ケリーの孫。大正10年10月20日父が宣教師をしていた北海道小樽市に生まれる。アメリカにもどり1942年太平洋戦争に従軍,日本人捕虜収容所長となる。昭和22年同志社大教授。平成8年帰国。平成18年4月14日死去。84歳。アマースト大卒。著作に「日本の若い者」「ジープ奥の細道」など。

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世界大百科事典(旧版)内のケリーの言及

【モナコ】より

…1911年アルベール1世(在位1889‐1922)はこれまでの絶対君主制を改め,憲法を制定し選挙制議会を導入した。現君主レーニエ3世は1949年,嫡男のなかった祖父ルイ2世(在位1922‐1949)の後を継承,56年にハリウッド女優グレース・ケリーと結婚して話題を投げた(王妃は1982年自動車事故で死亡)。59年レーニエは1911年の憲法を停止,議会を解散して国政改革に着手,62年に5年を任期とする18名の議員よりなる議会を新たに発足させ,より民主的な憲法を制定した。…

【オーストラリア】より

…すべての土地が台帳に登録された結果,対立も終息に向かったのである。しかしそれまでは,開拓初期から官憲に抵抗してきた伝統的な無法者ブッシュレンジャーbushrangerが後者のグループから輩出し,ネッド・ケリーの逮捕・処刑(1880)によって対立はクライマックスを迎えた。1891,94年の毛刈職人組合の大争議もスクオッターへの抵抗であり(以後スクオッターの斜陽化が始まる),争議の場にはユリーカ砦の反乱の南十字星旗がひるがえった。…

※「ケリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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