改訂新版 世界大百科事典 「ゴールドウィン」の意味・わかりやすい解説
ゴールドウィン
Samuel Goldwyn
生没年:1882-1974
ハリウッド最大のプロデューサーの一人。1920年代半ばから50年代末(1959年の黒人ミュージカル《ポーギーとベス》の製作を最後に引退)まで約35年間,〈もっともポピュラーで,もっとも技術的に完成度が高く,もっとも興行価値のある〉アメリカ映画を製作した。ポーランド生れ(ワルシャワのユダヤ人地区出身,本名はサミュエル・ゴールドフィッシュ)。少年時代にイギリスを経てアメリカに渡り,手袋商から身を起こし,ニューヨークでボードビルの興行主ジェシー・ラスキーと知り合い,その妹と結婚。1913年,ラスキー・フィーチャー・プレーズ社の設立に参加,ハリウッドの草分け的な作品となるセシル・B.デミル監督の処女作《スコー・マン》を製作。その後,さまざまな曲折を経て(パラマウント,MGMなどハリウッドのメジャー会社の設立にもかかわる),23年には姓をゴールドウィンに改め,サミュエル・ゴールドウィン・プロを設立して独立製作者となる。自前の撮影所,自前のスター,自前の製作費によって映画をつくる完全独立のプロデューサーであった。ロナルド・コールマン,デビッド・ニーブン,ダニー・ケイを育てたスターづくりの名人で,ミュージカル(映画およびレビュー)のための〈ゴールドウィン・ガールズ〉もかかえていた。映画製作における脚本の重要性を強調し,ロバート・シャーウッド,リリアン・ヘルマンといった有能な作家や脚本家の起用を心がけたことも注目される。ウィリアム・ワイラー監督と組んだ時代(1936-48)が彼のキャリアの絶頂期とされ,《孔雀夫人》(1936),《嵐が丘》(1939),《偽りの花園》(1941),《我等の生涯の最良の年》(1946)等々の名作を生み出している。アメリカ市民権を得る必要からアメリカ史を読むために,英語を〈自前で〉学んだというゴールドウィンの文法的まちがいや誤用だらけの名言名句や映画的アイデアは,〈ゴールドウィニズム〉と呼ばれ,いまなおハリウッドではひと口話やエピソードの形で伝えられており,〈学はないが真の映画的教養を備えた優れた映画人〉として評価されている。
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報