カナダ、トロント生まれのアメリカの建築家。1947年ロサンゼルスに移住。54年、南カリフォルニア大学卒業。55年から56年までアメリカで軍務につく。56年から57年までハーバード大学GSD(大学院大学デザイン・コース)に学び、ル・コルビュジエに影響を受ける。ビクター・グルーエンVictor Gruen(1903―80)、ヒデオ・ササキHideo Sasaki(1920―2000)などの建築設計事務所で働く。61年、パリのアンドレ・ルモンデ事務所に勤める。62年、ロサンゼルスにフランク・ゲーリー・アンド・アソシエーツを開設。
ゲーリーは過激な彫刻的デザインを行うことで知られている。60年代と70年代の作品では、ロサンゼルスの劣悪な都市環境を意識しつつ、ベニヤやトタンなど廉価な工業素材を活用した。例えばサンタ・モニカ・プレイスのショッピングセンター(1976)は金網を重要な素材として使い、くねくねと曲がる段ボールの家具なども手がける。出世作は、サンタ・モニカの古い住宅をバリケードで包むように増改築した自邸(1978)である。金網と波形鉄板に囲まれたファサード、斜めに飛びだすガラスのフレーム、アスファルトの床など異形のデザインは、しばしばディコンストラクション(脱構築)の建築として解釈された。もっとも、警察の倉庫を美術館に変えたテンポラリー・コンテンポラリー(1983、ロサンゼルス)が示すように、堅実な改築も巧みである。
80年代は、オブジェが飛び散ったようなデザインを展開する。ロヨラ大学法学部のキャンパス(1982、90、サンフランシスコ)は、各棟の形態に素材や色彩を振り分け、敷地にばらまき、建築自体が小さな都市を形づくっていた。またゲーリーは具象的なデザインを建築に組み込むことも多く、神戸のレストラン「フィッシュダンス」(1987)では高さ22メートルに及ぶ鯉のオブジェを使っている。魚のモチーフを好み、他の作品にも頻出する。またアーティストとの交流も多く、チャット・デイ・オフィス(1992、カリフォルニア州)では、スウェーデン生まれのアメリカのアーティスト、クレス・オルデンバーグの協力により、巨大な双眼鏡をエントランス・ホールに置いている。
90年代は、オブジェが激しくぶつかり合うデザインに移行した。その契機となったドイツのビトラ家具博物館(1989)は、各要素が融合し、全体が一つの不整形な白いオブジェである。色彩や素材の扱いも断片的ではなく、均質性を表現し、視覚的な統一感を生む。トレド大学美術学部(1992、オハイオ州)やパリのアメリカン・センター(1994)なども、乱舞するオブジェの集合体である。アメリカン・センターやプラハのビル「ジンジャー・アンド・フレッド」(2000)のデザインでは、動く人間のイメージを参照している。
大規模なスペインのビルバオ・グッゲンハイム美術館(1997)は、90年代の代表作であると同時に、ゲーリーの手法の集大成として位置づけられる。これは都市の文脈を意識しつつ、炸裂したオブジェ風の造形をチタンの皮膜に包み、全体は魚の群れのように見える。もはや巨大彫刻であり、実現にあたっては最新のコンピュータ技術が大きな役割を果たした。三次元モデルの活用のほか、模型をスキャンしてデータに変換することにより、切削(せっさく)機の制御に直接使われている。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員教授、エール大学教授、ハーバード大学教授を歴任。プリツカー賞(1989)、AIA(アメリカ建築家協会)名誉賞(1999)受賞。そのほかの主な建築作品にダンツィガー・スタジオ(1964、カリフォルニア州)、ロン・デービスのスタジオ(1972、カリフォルニア州)、ハリウッドの図書館(1986)、ピーターソン邸(1988)、フレデリック・ワイズマン美術館(1993、ミネソタ州)などがある。
[五十嵐太郎]
『二川幸夫編『GA アーキテクト10:フランク・O・ゲーリー』(1993・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『Henry N. CobbThe Architecture of Frank Gehry (1986, Rizzoli, New York)』▽『Charles Jencks et. al.Frank O. Gehry ; Individual Imagination and Cultural Conservatism (1995, Academy Editions, London)』▽『El Croquis 74/75 ; Frank Gehry 1991- 1995 (1995, El Croquis, Madrid)』▽『Francesco Dal Co, et. al.Frank O. Gehry ; The Complete Works (1998, Monacelli Press, New York)』
アメリカ合衆国、インディアナ州北西部、ミシガン湖南岸の工業都市。人口10万2746(2000)。歴史は新しいが、合衆国の大工業地帯カルメット地区の中枢部を占める重要な都市で、鉄鉱石、石炭の産地に近く、世界有数の鉄鋼の町として有名である。何本もの鉄道、ハイウェーが入り組み、USスチール社とその傍系工場、ゲーリー製鋼所、ユニバーサル・アトラス・セメントなど20以上の主要工場が集中している。鋼鉄、ブリキ、レール、車輪、建築鋼材などを中心に、ボルト、ナットや衣料、プラスチック製品がつくられる。1905年USスチール社がこの地域の地の利を見込んで町を創設した。国内はもとより遠く外国からも多くの労働者を迎えて大鉄鋼都市に発展させ、19年の全米鉄鋼労働者のストライキでは中心的存在であった。一方、文化・教育施設も整い、町並み、道路整備も十分になされ、市民のための公園も多い。
[作野和世]
アメリカ最大の鉄鋼企業USスチール社の第2代社長。イリノイ州に生まれ,大学で法律を修めたのち,イリノイ州の郡判事やシカゴ弁護士会会長などを務め,1890年代にはイリノイ法曹界の中心的存在となる。法律の専門家としてフェデラル製鋼社などの設立に関与,98年にはその社長に就任し,以後は実業家として活躍する。大金融家モルガンJ.P.Morganの右腕として,一大鉄鋼トラストであるUSスチールの設立(1901)に尽力し,初代社長シュワッブの後を受け,1903年から27年まで社長を務めた。この間彼は,鉄鋼価格固定化のためピッツバーグ・プライス制を定め,〈ゲーリーの晩餐会〉と呼ばれる不定期の社長会でその徹底をはかった。こうした努力によりUSスチールは価格先導者としての地位を固めたが,やがて,独占の力や価格戦略に固執するあまり,需要構造や技術の変化への対応に遅れをとり,産業界における相対的地位を低下させていった。なお,USスチールの大工場がある鉄鋼業都市ゲーリーは彼の名にちなむ。
執筆者:日高 千景
アメリカ合衆国インディアナ州北西部の工業都市。人口10万2746(2000)。もともとはミシガン湖南岸の砂丘と湿地帯であったが,1905年に,USスチール社が6000エーカー(約2500ha)の土地を購入して,製鉄所とそれに付属する工場町をつくった。ゲーリーという名は同社の社長であったE.H.ゲーリーにちなんだもの。シカゴの南東約40kmに位置し,原料,製品の運送にも便利であるという地の利を買われて建設された町であるが,工場の発展にともなって人口も増大し,インディアナ州第2,20世紀にアメリカで生まれた最大の都市となった。工場で働く黒人が人口の半数以上を占め,1967年には黒人市長を選んだ。
執筆者:岡田 泰男
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