翻訳|Copt
コプト教会に所属するエジプトのキリスト教徒。アラビア語でキブトQibṭ,クブトQubṭ。現在ではエジプト全体で10%余りの人口を占める少数派にすぎないが,彼ら自身は古代エジプト以来の伝統を受け継ぐとともに,正統なキリスト教信者としての自負心をもっている。
コプトの呼称はアラビア語のQibṭに由来するが,それはギリシア人が古代エジプト語をなまってつけたエジプトを表す〈アイギュプトスAigyptos〉を語源とする。したがってコプト人というのは,元来は〈エジプト人〉のことで,その彼らが,アレクサンドロス大王による征服以来,ギリシア・ヘレニズム文明に接し,ついでローマ支配時代にキリスト教を受容した。伝説では紀元40年代に福音書記者のマルコがアレクサンドリアで布教したのが最初だとなっているが,実際にエジプトのキリスト教化が進むのは,だいたい2~3世紀で,その間に聖書のコプト語訳もなされた。
ローマ帝国は最初キリスト教に対して迫害を加えたが,エジプトも例外でなく,ディオクレティアヌス帝(在位284-305)のとき,激しい迫害が行われ,のちこれを記念して,この皇帝が即位した284年を元年とするコプト暦を定めた。これはエジプトの農業に有用な古代以来の太陽暦を受け継ぐものであった。313年のミラノ勅令によってキリスト教が公認され,さらに380年にローマ帝国の国教になると,エジプトのキリスト教化は決定的となり,熱烈なキリスト教徒となったコプト人たちは,それまでの古代エジプトの信仰やギリシア哲学を攻撃,411年には,ヘレニズム文化の結晶であったアレクサンドリアの図書館も破壊された。しかしその一方で,キリスト教内部に教義上の対立が起こり,これに皇帝権力が介入して政治的な対立にまで発展すると,エジプトでは皇帝派に属さない独自の教会,いわゆるコプト教会が成立した。それは5世紀半ばのことで,6世紀にユスティニアヌス帝がアレクサンドリア総主教を皇帝の任命制とし,しかも行政権も付与すると,コプト人の離反と抵抗はいっそう強まり,その結果エジプト固有のキリスト教文化を発展させた。
イスラム教徒となったアラブ軍が640年にエジプトに侵入し,642年にはビザンティン軍を完全に駆逐,エジプトはアラブの支配下に入ったが,アラブは皇帝派のキリスト教徒を一掃する一方,これまでの被支配民族であるコプト人に対しては保護を与えた。コプト人の大半は農民であり,アラブの侵入以前,農村は教会を中心にした村落共同体を形成していた。村には村内の有力者たちおよび彼らのうちから互選された村長,それに書記をまじえた村会議があって,村の政治は自主的に行われ,ビザンティン政府が支配権を直接行使することはなかった。エジプトの農業は毎年起こるナイル川の洪水に依存しており,そのための水利灌漑工事,耕作,播種,収穫が長い間の慣行・伝統にもとづいて行われ,村内の耕地の配分,共同負担となる教会,公衆浴場,物資運搬船などの維持は村会議の重要な業務であった。しかしビザンティン皇帝にとってエジプトは一大穀倉地帯で,コプト農民の役割は支配者である本国に対し,穀物その他の租税を供給することであった。そこで,ビザンティン政府がコプト人の村落共同体に割り当てる租税を,村民に配分課税し徴収するための行政機構がととのえられていたが,侵入者のアラブ当局は最初そうした機構をそのまま温存し,しかもコプト人のキリスト教信仰を容認する代償として要求した租税も,それほど過重なものでなかった。ところが,アラブの支配が始まって半世紀ほども経つと,アラブ当局は歳出の増大を賄うために,コプト農民に過酷な納税を強い,そこで,やがてコプト農民による反乱が頻発した。それは以後1世紀間にわたって続いたが,その間コプト人たちは過重な税負担から逃れる意味からも,漸次イスラムに改宗していった。
ファーティマ朝時代(909-1171)はカリフ,ハーキム(在位996-1021)の治世を除いて,コプト人は比較的優遇されたが,アイユーブ朝を経てマムルーク朝(1250-1517)になると,彼らはムスリム大衆の反感と迫害を受けるようになり,各地の多くの教会がその襲撃によって倒壊した。オスマン帝国時代にはコプト人はまったくの少数派に転落したが,エジプト民衆全体もまたオスマン帝国とマムルーク軍人の過酷な支配を受け,しだいに無気力になっていった。そうしたなかで,1798年ナポレオンに率いられたフランス軍がエジプトを占領した。これに対してムスリム大衆が報復的にコプト教徒の家々を襲撃したために,彼らは自己防衛の必要からフランス軍に協力し,なかには2000人のコプト人連隊を組織してエジプト独立の構想まで描く者も出てきたが,フランス軍が敗退すると,代りにオスマン帝国軍士官出身のムハンマド・アリーが独立を達成した。彼の王朝はコプト人とムスリムとを区別する政策はあまりとらず,1855年には差別的租税も廃止した。一方コプト教会でも,教育と文化に重点をおいた改革運動が推進され,エジプト最初の女学校を含む公立学校の創設や印刷所の設立を行った。20世紀に入ると近代化への気運がいっそう高まり,1911年にはコプト人による国民会議がアシュートに開かれ,22年に発布された憲法では,人種や宗教に関係なく,全エジプト人は平等であるとの条文が盛り込まれた。しかし,彼らに対するさまざまな制約はその後も続いている。
執筆者:森本 公誠
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
エジプトの土着キリスト教徒。この用語は古代エジプト語からの数次にわたる変化から生まれた。古代エジプトの都である下(しも)エジプトのメンフィスは「ヒクプタハ」(プタハ神の館)ともよばれていた。紀元前7世紀からエジプトに入植したギリシア人は、これを「アイギプトス」とギリシア化し、この呼称で全エジプトをさすことにした(今日のエジプトの呼称はこれに由来する)。ついで、この名詞の形容詞として「アイギプティオス」が生まれ、これは「エジプト人」をさすことばとなった。紀元後640年にエジプトを征服したアラブ人はこれをアラブ化して「キブト」とした。やがて、エジプト人のイスラム化が進むにつれて、イスラム化しないエジプト人、すなわち、土着キリスト教を信じ続けるエジプト人のほうだけをキブトとよぶようになった。ついで、この呼称はヨーロッパ人の用語に入り、こんどはコプトということばに変わり、これが世界に流布していった。
エジプトのキリスト教(コプト教会)の歴史は古く、1世紀中葉の聖マルコのエジプト布教に始まるとされている。前30年にエジプト王国が滅びてローマ領となったとき以来、古代の多神教は衰えていたが、古代宗教のなかのオシリス、イシス、ホルスの三神信仰は、キリスト教への接近を容易にする役割を果たした。しかし、やがてコプト教会は独自の教義(単性論という)を発展させ、451年のカルケドン公会議で異端とされ、そのときから孤立の道を歩んだ。もっとも、ナイル川流域では勢力を伸ばし、エジプトの南の地ヌビアは6世紀にキリスト教化された。その遺跡は1960年代のヌビア遺跡救済運動の発掘の際に華やかによみがえった。隠遁(いんとん)修行の修道院、コプト教会の建築・装飾、コプト織をはじめとする工芸、学芸文書(コプト・パピルス)などはコプト教会の貢献である。
コプト教徒は民族的に古代エジプト人の直系であるが、その言語もまた古代エジプト語の直系である。古代エジプト語は子音のみを文字表記していたので、コプト教徒はすべての音を文字表記するという考えから独自のアルファベットをつくり、いくつかの文字はギリシア文字から借用した。こうして3世紀にコプト語、コプト文字が成立し、『旧約聖書』と福音(ふくいん)書がコプト語に訳された。アラブの征服とともにコプト語は衰え、16世紀に日常生活からまったく消えた。19世紀にフランスのシャンポリオンは、コプト語の研究からヒエログリフを解読した。
[酒井傳六]
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古代エジプト人の子孫で,キリスト教の信者。16世紀以降エジプトの単性論派キリスト教徒の呼称。古代エジプト語をギリシア文字で記し,3世紀に旧約聖書のコプト語訳を行った。ムスリム諸王朝の圧迫もあって,多くはイスラームに改宗し,コプト語も現在は典礼に用いられるのみとなっている。今日エジプト総人口の約10%を占めるが,植民地期にしばしばイギリス当局に協力した経緯などから,イスラーム運動との間に軋轢(あつれき)があり,ときに衝突もみられる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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