アイユーブ朝(読み)あいゆーぶちょう(英語表記)Ayyūbids

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アイユーブ朝」の意味・わかりやすい解説

アイユーブ朝
あいゆーぶちょう
Ayyūbids

ザンギー朝の部将であったクルド人のサラーフ・アッディーンサラディン)が、1169年にエジプトのイスマーイール派ファーティマ朝を倒して建てた王朝。その領域はエジプトから始まり、シリアジャジーライラクの北西部とシリアの北東部を含むステップ地帯)、そしてイエメン(1229年まで支配)にまで広がっていた。サラディンはエジプトを王朝の本拠地として、他の地域は分割して一族に与えて支配させた。アイユーブ朝スンニー派イスラムの旗手として、アッバース朝カリフの宗主権を認め、スンニー派ウラマーの育成・登用などを通じて、またモスクマドラサハーンカースーフィーの修道場)などの建設を通じて、積極的にスンニー派の振興に努めた。また十字軍に対しても、イスラム側の反撃の先頭にたち、その勢力を大きく後退させた。しかし13世紀になると、複雑な政治情勢もあって和戦両面の政策に転換した。同朝の安定も第5代スルタン、カーミル(在位1218~1238)の時代までで、その後は内部分裂が激しくなり、1250年に自らの軍隊内のトルコ系マムルーク将校たちのクーデターによって倒された。アイユーブ朝の一派は15世紀までジャジーラの一地方勢力として残った。

湯川 武]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アイユーブ朝」の意味・わかりやすい解説

アイユーブ朝
アイユーブちょう
Ayyūb

エジプト,シリア,パレスチナ,上メソポタミア,イエメンを支配したスンニー (正統) 派のイスラム王朝 (1171~1250) 。首都はカイロ。 1169年,シリアのザンギー朝の将であったクルド族のアイユーブ家のサラディンは,エジプトの宰相として事実上その支配者となり,さらに 71年にはシーア派であるファーティマ朝のカリフ制を廃止し,アッバース朝カリフの権威を復活して分裂したイスラム世界の再統一をはかった。イクター制を施行し,トルコ人,クルド人を中心に軍隊制度を整備すると対十字軍戦争に乗出し,87年にはハッティンの戦いで十字軍を破って,エルサレムを 88年ぶりにイスラム教徒の手に取戻した。サラディンの死後,帝国はアイユーブ一族の間で分割されたが,スルタン,カーミル (在位 18~38) の時代まではアイユーブ家の統一は比較的よく保たれていた。その後一族の内紛によって衰退に向い,1250年,スルタン,サーリフ (在位 40~49) が雇い入れたマムルーク軍人の蜂起によって王朝は崩壊した。

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