コミッショナー(読み)こみっしょなー(英語表記)commissioner

翻訳|commissioner

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コミッショナー」の意味・わかりやすい解説

コミッショナー
こみっしょなー
commissioner

おもにプロスポーツの組織で最高責任者をさすことば。英語のコミッションcommissionには「委員会」という意味があり、そこから派生して当該スポーツの運営委員会の代表がコミッショナーとよばれる。プロ野球、プロボクシング、プロバスケットボールなどに例がみられる。英語本来の用法では、スポーツだけでなく官庁などの長官や委員、植民地の弁務官など、幅広い用例がある。

 歴史的には、アメリカプロ野球の大リーグMLB)で1919年に起きた「ブラックソックス事件」(大規模な八百長(やおちょう)試合事件)のあと、謹厳で知られた判事のK・M・ランディスを初代コミッショナーとしてMLBに迎え入れたのが、スポーツ界におけるコミッショナー制度の始まりである。1920年に就任したランディスは、ブラックソックス事件の裁判で無罪となった8人の選手を含む15人の関係選手全員を永久追放とすることで絶対的な権威と権限を確立し、1920年から1944年までの長きにわたり球界を牽引(けんいん)した。その後、歴代のコミッショナーが続き、現在のロブ・マンフレッドRobert D. Manfred, Jr.(1958― 。在任2015~ )が第10代である。1992年9月から1998年7月までは空位であったが、バド・セリグA. H. "Bud" Selig(1934― 。同1998~2015)が代行を務め、そのまま第9代に就任した。

 MLBコミッショナーは成立の経緯もあって強い権能を有し、選手や関係者に対して強い処分を下した例も多い。第2代のハッピー・チャンドラーA. B. "Happy" Chandler(1898―1991。在任1945~1951)が多くの反対を押し切って初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンを支持したり、第7代のバート・ジアマッティA. Bartlett Giamatti(1938―1989。同1988~1989)が野球賭博(とばく)に関係したかつてのスター選手ピート・ローズを永久追放にしたりしたことは、球界にインパクトを与えた。また、労使交渉の調停者としての役割も担い、選手契約に関する大きな決定を下すこともある一方、労使対立の激化によるストライキやロックアウトといった実力行使を防げなかったこともある。オーナーから独立した存在として公平な立場にたつというのが大原則であったが、出自や思想によって選手寄りといわれたり、オーナー寄りといわれたり、その評価はさまざまである。第8代のフェイ・ビンセントFrancis T. Vincent, Jr.(1938― 。同1989~1992)は経営者側に不利な政策の多いことを不満とするオーナー会議の採択によって辞任させられ、ミルウォーキー・ブリュワーズのオーナーだったバド・セリグが経営者側を代表する形でコミッショナー代行を務めた。

 日本プロ野球(NPB)では、1949年(昭和24)にGHQ(連合国最高司令部)の少将ウィリアム・マーカットWilliam F. Marquat(1894―1960)が日本プロ野球にもコミッショナーを置くべきであると指導し、日本野球連盟からの要請で正力松太郎(しょうりきまつたろう)が就任した。このとき、内部的にはコミッショナーとよばれていたが、役職名としては「総裁」とされた。正力は第二次世界大戦前の職業野球を指導する立場にあったのでコミッショナー就任は自然な流れであったものの、公職追放処分を受けていた正力の就任を批判する声もあって、半年ほどで正力はコミッショナー職を辞した。同年末に発足した新体制の日本野球機構では、当初コミッショナーが空位だったが、1951年4月に元検事総長の福井盛太(ふくいもりた)(1885―1965)が就任して初代となった。福井は1954年まで務めて退任し、その後は歴代のコミッショナーを経て、現在の榊原定征(さかきばらさだゆき))(1943― 。在任2023~ )が第15代である。後任の選定が難航した等の理由で空位の時期が何年か存在するが、第三者委員会やコミッショナー代行職を置いて対応している。また、第4代の宮沢俊義のときは三人合議制の「コミッショナー委員会」であり、宮沢が委員長であった。

 NPBではMLBほどにはコミッショナーの権限が強くないと評され、大きな問題が起きたときの事態収拾能力の低さが難点とされている。とくに1978年10月22日の日本シリーズ第7戦で、判定が本塁打ファウルかをめぐり1時間19分という史上最長の中断を招いた事件(金子鋭(かねことし)(1900―1982。同1976~1979)コミッショナーがグラウンドまで下りて説得にあたったが功を奏さなかった)や、同年11月21日のいわゆる「江川事件」(巨人軍が野球協約の盲点をついて強引に投手江川卓(えがわすぐる)(1955― )を獲得しようとした事件)をまったく解決できなかったことは、世論の強い批判を招いた。また、2004年(平成16)の球界再編問題でも指導力のなさを指摘する声が相次ぎ、コミッショナーの権限を強化する目的で2008年に定款が変更され、セ・パ両リーグ会長職を廃し、両リーグ事務局もコミッショナー事務局に統合する改革が2009年から実施された。一方でこの改革はオーナー会議を最高議決機関と位置づけるものであり、各球団オーナーの意向が重視される点でコミッショナーに絶対的な権限が付与されているとはいいがたい。

 日本においては、プロ野球以外には、プロボクシング、プロバスケットボール、プロレスリングなどにコミッショナーを置いた例があるが、いずれも一時的なものであったり、のちに廃止されたりと、プロ野球ほど明確には最高権威者としての地位が確立されていない。

 プロボクシングでは「一国一コミッション制」の原則に基づき、日本では「日本ボクシングコミッション(JBC)」が日本国内で行われる試合を管轄しており、コミッショナーが試合を認定するとされている。1952年に就任した初代の田邊宗英(たなべむねひで)(1881―1957)以降、代々「後楽園スタヂアム(のち東京ドーム)」の社長が就任することが慣例になっていたが、2022年(令和4)にJBCが新体制に移行したのに伴い、東京ドーム顧問の萩原実(1955― )がJCB理事長となり、翌2023年8代目コミッショナーに就任した。

 プロバスケットボールでは、アメリカプロバスケットボール協会(NBA)で当初「プレジデント(会長)」とされていた役職名を1967年からコミッショナーに変更している。日本では2005年から2016年まで存続した日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)にコミッショナーが置かれていたものの、2016年に組織替えして発足したジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(B.LEAGUE)では最高責任者を「チェアマン」としている。

 プロレス界でも、かつては「日本プロレスリングコミッショナー」という職が置かれ、ライセンス発行や試合認定を行うとされていたが、政治家に依頼して就任してもらう名誉職の色合いが強く、早い段階で形骸化していたとされる。その後、老舗(しにせ)団体であった日本プロレスの分裂等により混乱を生じ、自然消滅した。

[粟村哲志 2023年3月17日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例