デジタル大辞泉
「正力松太郎」の意味・読み・例文・類語
しょうりき‐まつたろう〔シヤウリキまつタラウ〕【正力松太郎】
[1885~1969]実業家・政治家。富山の生まれ。大正13年(1924)虎ノ門事件の責任を取って警視庁警務部長を辞任。同年読売新聞の社長となる。昭和9年(1934)プロ野球球団巨人軍の前身に当たる大日本東京野球倶楽部を発足。同27年日本テレビを設立。政界にも進出し、科学技術庁長官などを務めた。
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しょうりき‐まつたろう【正力松太郎】
- 新聞・放送経営者、政治家。富山県出身。東京帝国大学卒。大正一二年(一九二三)警視庁警務部長のとき、虎の門事件の責を負って退職、読売新聞社長となる。のち、社主。貴族院議員。衆議院議員。鳩山・岸内閣の国務大臣。また日本最初の民間テレビ「日本テレビ放送網」を創設したほか、プロ野球の発展にも寄与した。明治一八~昭和四四年(一八八五‐一九六九)
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正力 松太郎
ショウリキ マツタロウ
- 肩書
- 衆院議員,科学技術庁長官,読売新聞社主,日本テレビ社長,日本野球連盟会長
- 生年月日
- 明治18年4月11日
- 出生地
- 富山県大門町
- 学歴
- 東京帝大法科大学独法科〔明治44年〕卒
- 経歴
- 内閣統計局から警視庁に入り、米騒動、東京市電争議などに辣腕をふるう。大正12年虎の門事件で責任を負い警視庁を退き、後藤新平の融資を受けて新聞経営に乗り出す。13年読売新聞社長に就任。以後、徹底的な大衆化を図り経営不振を克服。昭和9年大日本東京野球倶楽部(のち読売巨人軍)を創設、ベーブ・ルース等を招くなどプロ野球の振興に尽力した。15年大政翼賛会総務、19年貴院議員。敗戦後、A級戦犯容疑となったが、22年釈放。また21年公職追放、26年追放解除。24年初のプロ野球コミッショナー、日本野球連盟会長。27年日本テレビ放送網を創立、社長となる。29年読売新聞社主。30年以来衆院議員に5回当選。その間、北海道開発庁長官、原子力委員会委員長、科学技術庁長官、国家公安委員長などを歴任、東海村原子力研究所創設に尽力。34年野球殿堂入り。また、仏教の信仰に厚く、全日本仏教会顧問なども兼務。“大衆とともに歩んだ人”といわれる。酒も煙草もやらず、生涯を仕事の鬼として通した。著書に「私の悲劇」がある。
- 受賞
- 駒沢大学名誉文学博士〔昭和37年〕 レジオン・ド・ヌール勲章〔昭和39年〕 勲一等旭日大綬章〔昭和39年〕
- 没年月日
- 昭和44年10月9日
- 家族
- 息子=正力 亨(読売新聞社主)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
正力松太郎
しょうりきまつたろう
(1885―1969)
新聞・放送経営者。明治18年4月11日富山県射水(いみず)郡枇杷首(びわくび)(現、射水市)に生まれる。1911年(明治44)東京帝国大学卒業後、官界に入るが、1923年(大正12)12月警視庁警務部長のとき起こった虎の門事件の責任を負って退官。1924年2月、後藤新平の助力で『読売新聞』の経営にあたる。以後、独創的な企画を次々と打ち出し、『読売新聞』を『朝日新聞』『毎日新聞』と並ぶ全国紙に育て上げた。1941年(昭和16)秋、戦時新聞統合を企図する政府の全国新聞一元会社案に反対、撤回させたのは有名。第二次世界大戦後は、日本初の民放テレビ局「日本テレビ放送網」を創立したほか、マイクロウェーブの敷設に尽力、放送界に貢献するとともに、プロ野球の発展に努めた。鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣、岸信介(きしのぶすけ)内閣の国務大臣として入閣、原子力平和利用の基礎を固めた。昭和44年10月9日没。
[春原昭彦]
『御手洗辰雄著『伝記正力松太郎』(1955・大日本雄弁会講談社)』▽『片柳忠男著『創意の人 正力松太郎』(1961・オリオン社出版部)』
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正力 松太郎
ショウリキ マツタロウ
大正・昭和期の実業家,政治家 読売新聞社主;日本テレビ社長;衆院議員;科学技術庁長官;日本野球連盟会長。
- 生年
- 明治18(1885)年4月11日
- 没年
- 昭和44(1969)年10月9日
- 出生地
- 富山県大門町
- 学歴〔年〕
- 東京帝大法科大学独法科〔明治44年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 駒沢大学名誉文学博士〔昭和37年〕,レジオン・ド・ヌール勲章〔昭和39年〕,勲一等旭日大綬章〔昭和39年〕
- 経歴
- 内閣統計局から警視庁に入り、米騒動、東京市電争議などに辣腕をふるう。大正12年虎の門事件で責任を負い警視庁を退き、後藤新平の融資を受けて新聞経営に乗り出す。13年読売新聞社長に就任。以後、徹底的な大衆化を図り経営不振を克服。昭和9年大日本東京野球倶楽部(のち読売巨人軍)を創設、ベーブ・ルース等を招くなどプロ野球の振興に尽力した。15年大政翼賛会総務、19年貴院議員。敗戦後、A級戦犯容疑となったが、22年釈放。また21年公職追放、26年追放解除。24年初のプロ野球コミッショナー、日本野球連盟会長。27年日本テレビ放送網を創立、社長となる。29年読売新聞社主。30年以来衆院議員に5回当選。その間、北海道開発庁長官、原子力委員会委員長、科学技術庁長官、国家公安委員長などを歴任、東海村原子力研究所創設に尽力。34年野球殿堂入り。また、仏教の信仰に厚く、全日本仏教会顧問なども兼務。“大衆とともに歩んだ人”といわれる。酒も煙草もやらず、生涯を仕事の鬼として通した。著書に「私の悲劇」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
正力松太郎【しょうりきまつたろう】
新聞・放送経営者。富山県生れ。東大卒業後警視庁に入り,米騒動の鎮圧,第1次共産党検挙など,治安対策に敏腕を振るったが,1923年の虎ノ門事件の責任をとって辞職。1924年,読売新聞社社長に就任し,以後,徹底的な大衆化路線によって同社を再建,拡大。とくに満州事変以後,戦争ムードをかきたてるセンセーショナリズムで爆発的に部数をのばし,3大紙の一つに育てあげた。プロ野球の発展にも貢献。1952年日本テレビ放送網[株]を創立して社長に就任,1954年読売新聞社社主となった。
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正力松太郎
しょうりきまつたろう
[生]1885.4.11. 富山
[没]1969.10.9. 東京
読売新聞社や日本テレビ放送網などの経営者,政治家。東京大学法学部卒業後,1913年警視庁に入った。 18年夏の米騒動の鎮圧に手腕を発揮し,以後普選運動,労働運動など公安事件を取締った。なかでも 23年6月の第1次共産党事件は有名。同年 12月 27日の虎ノ門事件の責任で懲戒免官になり,『読売新聞』の経営を引受け,24年社長に就任,同社の再建と拡大に努めた。 34年職業野球団である大日本東京野球倶楽部 (読売ジャイアンツの前身) を創設。第2次世界大戦後の 45年 12月,第1次読売争議の最中に戦犯に指定され,巣鴨拘置所に収容され,社長を辞任。 47年9月に釈放されてからは社長に復帰するとともに,日本テレビ放送網の設立に努力。 55年には富山県から衆議院議員に立候補して当選,鳩山・岸内閣で国務大臣をつとめた。
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正力松太郎 しょうりき-まつたろう
1885-1969 大正-昭和時代の実業家,政治家。
明治18年4月11日生まれ。大正12年虎ノ門事件で警視庁警務部長を引責辞任。13年読売新聞の社長となり,部数を大幅にふやす。昭和9年大日本東京野球倶楽部(クラブ)(読売巨人軍の前身)を創設。27年日本テレビ放送網を設立し社長,29年読売新聞社主。30年衆議院議員(当選5回,自民党)。初代原子力委員長として原子力利用をすすめた。昭和44年10月9日死去。84歳。富山県出身。東京帝大卒。
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正力 松太郎 (しょうりき まつたろう)
生年月日:1885年4月11日
大正時代;昭和時代の実業家;政治家。読売新聞社主;衆議院議員
1969年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報