憲法学者。長野市生れ。1923年東大卒,25年同助教授,34年教授として憲法講座を担当。美濃部達吉の後継者として右翼陣営の攻撃を受けつつも,合理主義的憲法理論を展開。戦後は幣原喜重郎内閣の改憲作業に参加し,また,貴族院勅選議員として日本国憲法の審議に参加した。ポツダム宣言の受諾が国体の変更にあたるとする〈八月革命説〉を唱えて政府を追及,また尾高朝雄とも論争した。59年東大を停年退職,以後69年まで立教大学教授。その憲法学は,H.ケルゼンなどの影響下で,独善的正義論に対する合理主義的批判を基底にもち,寛容とヒューマニズムを基調とする自由主義的民主主義に貫かれている。戦前・戦中はナチスや日本軍国主義の権力イデオロギーの分析に,戦後は日本国憲法の解釈,普及,擁護に尽力した。〈八月革命説〉や〈日本共和国説〉などは,多くの議論の対象となっている。趣味は広く,洒脱な随筆も多い。65-72年にはプロ野球コミッショナーも務めた。1969年文化功労者。著書は《憲法》《日本国憲法》など多数。
執筆者:長尾 龍一
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昭和期の憲法学者 東京大学名誉教授;プロ野球コミッショナー。
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憲法学者。明治32年3月6日長野市に生まれる。東京帝国大学法科卒業後、1925年(大正14)同大学助教授となり、30年(昭和5)フランスに留学。帰国後、34年教授となり、美濃部(みのべ)達吉の後継者として憲法講座を担当した。旧憲法下においては、批判的合理主義の立場から、独裁制やファシズムのイデオロギーを批判的に分析する論文が多く、第二次世界大戦後は、日本国憲法の解釈者、擁護者として活躍した。とくに、ポツダム宣言の受諾は主権者を天皇から国民に変更した法的革命であるとする「八月革命説」は、以後激しい論議の対象となっている。趣味も広く、エッセイストとしても有名。1969年(昭和44)文化功労者。昭和51年9月4日死去。著書は『憲法』『日本国憲法・コンメンタール』のほか多くの論文集、評論集がある。
[長尾龍一]
『原秀男「宮沢俊義――理論と実践」(日本法哲学会編『日本の法哲学(1) 法哲学年報78』所収・有斐閣)』▽『宮沢俊義著、芦部信喜補訂『全訂 日本国憲法』(1978・日本評論社)』
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…尾高朝雄は,真の主権者はノモス(法の理念)であって,天皇主権も国民主権もノモスに従って天皇や国民が政治を行うべき責任をもっていることを意味するにすぎないから,天皇主権から国民主権への転換は〈国体〉の変革を意味しないと主張した。これに対して宮沢俊義は,ノモスの主権を認めるとしても,ノモスの具体的な内容を最終的に決定する権能(責任)が天皇にあるとする憲法と国民にあるとする憲法は質的に異なるとして,〈国体〉は変わったと主張した。しかし,当時の論争においては,日本国憲法の国民主権が先にあげた三つの考え方のいずれをとっているかは,自覚的には論じられなかった。…
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