改訂新版 世界大百科事典 「コメコン」の意味・わかりやすい解説
コメコン
COMECON
正式の名称は,経済相互援助会議CMEA(Council for Mutual Economic Assistanceの略),ロシア語ではセフSEV(Sovet Ekonomicheskoi Vzaimopomoshchiの略)という。1949年1月,当時の冷戦下の経済封鎖に対抗して自給体制の確立を図るために設立されたソ連,東欧諸国の国際経済機構であったが,ソ連・東欧における体制転換の進展により91年解散した。しばしば経済統合体として西のEC(ヨーロッパ共同体,現EU)と比較されるが,設立の事情が大きく異なる。当初はソ連,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリアの6ヵ国で創立され,1ヵ月後にアルバニアが加盟したが,アルバニアは中ソ対立が表面化した61年末以降,事実上脱退状態にあった。ついで50年東ドイツ,62年モンゴル,72年キューバ,78年ベトナムが加盟した。以上の正式加盟国10ヵ国のほか,ユーゴスラビアが準加盟国(1964以降),フィンランド(1973以降),イラク,メキシコ(ともに1976以降)の3ヵ国が非社会主義協力国の地位にあり,アンゴラ,南イエメン,エチオピアがオブザーバーを送っていた。しかしながら,コメコンが基本的にはソ連と東欧諸国の機構であったことに変りはない。
本部はモスクワにおかれ,最高決議機関は各国政府代表(通常,首相)が出席する総会で,少なくとも年1回,各国首都持回りで開かれた。重要問題に際しては,各国の党第一書記,首相からなる首脳会議(通称コメコン・サミット)が開かれることがあった。総会の下に執行委員会(各国の副首相クラスで構成)があり,総会決議の実行を監督し,事務局および各種委員会の活動を指導した。執行委員会直轄の委員会として計画調整,資材・機械補給,科学技術協力の三つがあるほか,事務局の下に全部で22の分野別の常設委員会,経済問題国際研究所などがあり,さらにコメコンの直接下部機関ではないが,石油パイプライン〈友好〉,統合電力網〈平和〉,国際経済協力銀行(通称コメコン銀行),国際投資銀行,共同貨車プール,鉄鋼業国際協力機構(インテルメタル),国際ベアリング協力機構,国際化学工業協力機構(インテルヒム)などを関連機構としてもっており,機構としてはかなり大規模なものであった。
コメコンはECとちがい超国家機構ではなく,総会決議は〈勧告〉であって多数決で押しつけられることはない。コメコンに超国家的中央計画機関を設けて合理的な国際分業を促進しようとした1962-63年当時の故フルシチョフ・ソ連共産党第一書記兼首相の構想は,ルーマニアの抵抗にあって挫折した。コメコンになお存在する域内先進国(東ドイツ,チェコスロバキア),中進国(ハンガリー,ポーランド),発展途上国(ルーマニア,ブルガリア)という格差は,域内国際分業による効率向上と各国の経済発展との矛盾を生み出さずにはおかない。コメコンが〈相互調整〉に力点をおかざるをえないのは,このためであった。コメコン〈統合〉の基本特徴でありかつ基本矛盾でもあるのは,ソ連という資源大国から東欧小国群への資源供給を中軸に放射線状に経済関係が形成され,東欧諸国相互間を結ぶパイプが細いことである。したがって,東欧諸国の経済動向は,資源供給国および最大の輸出市場としてのソ連経済のダイナミズムに左右されるところが大きかった。この意味でコメコンは,実態としてはソ連の東欧掌握に寄与しているという政治的側面をもっていた。コメコンの経済協力は,2国間の双務貿易協定による物財フローを中心に形成されており,共同市場も存在しなければ,通貨の交換性も実勢に見合った通貨レートも存在しなかった。70年代の石油危機後の世界経済の基調変化に対応しての,各国間の利害の相違があり,かつ75年以降のソ連の対東欧エネルギー資源供給価格引上げにより東欧諸国の対ソ交易条件が悪化した。さらに85年から86年にかけての原油価格暴落後はソ連経済の衰退が加速したため,同盟国間の経済関係が弛緩し,89年以降はコメコンは事実上その意義を失っていた。
執筆者:佐藤 経明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報