コルンバヌス(英語表記)Columbanus

改訂新版 世界大百科事典 「コルンバヌス」の意味・わかりやすい解説

コルンバヌス
Columbanus
生没年:543?-615

フランク時代のキリスト教伝道者,聖人アイルランドレンスターの出身で,バンゴール修道院の修道士。コランバンColumbanとも呼ばれる。590年12人の弟子と大陸に渡来し,ブルゴーニュの北部,ボージュの山地にアンネグレイ,リュクスイユおよびフォンテーヌの諸修道院を設立した。アイルランド的な剃髪,典礼および復活祭日算定法などでフランク教会と対立し,またブルグント分国王テウデリヒ2世の庶子への祝別拒否によって同王の母后ブルンヒルデの怒りをかい,ボージュの地を追放され,ガリア各地を放浪し,ついにはローマをめざして,ライン川を遡行した。ボーデン湖畔のブレゲンツと彼の終焉の地となるアルプス南斜面のボッビオBobbioとに修道院を設立した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コルンバヌス」の意味・わかりやすい解説

コルンバヌス
こるんばぬす
Columbanus
(543?―615)

北アイルランドの修道士、聖人。590年バンゴール修道院の12名の修道士とともに、フランクのブルグント分国領のボージュ山地にリュクシーユなど三つの修道院を設立し、多くのフランク貴族の子弟を修道士として教育した。しかし、アイルランド的な異質な慣習に対するフランク教会側の反感と、ブルグント分国王テウデリクス2世の庶子に対する祝福拒否による、同王の母后ブルンヒルデの怒りとにより、603年コルンバヌスはボージュの地を追放された。ガリア各地を遍歴し、ローマに向かう途上、ボーデン湖畔のブレゲンツと北イタリアのボッビオとに修道院を設立した。ローマに達することなく、ボッビオが終焉(しゅうえん)の地となった。

徳田直宏]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コルンバヌス」の意味・わかりやすい解説

コルンバヌス
Columbanus

[生]543頃
[没]615.11.23.
アイルランド生れの聖人,カトリック伝道者。小コルンバと称される。ガリアにおもむいて修道院を建てたが,ケルト教会の慣習を導入したため反対を受けた。ブルグンド王によって追放されたのち,コンスタンス湖近辺で宣教,さらに北イタリアのボッビオに移り,修道生活の興隆に努めた。祝日は 11月 21日。

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世界大百科事典(旧版)内のコルンバヌスの言及

【ケルト人】より

…6世紀に地中海世界からもたらされた修道制は,アイルランドで独自の発展をみた。コルンバヌスに率いられたアイルランド修道制は,スコットランド,イングランドから,ヨーロッパ大陸にもたらされ,その厳格な禁欲苦行の修道にケルト的伝統をしるしながら,ヨーロッパ・キリスト教世界を席巻した。その隆盛が過ぎたのちも,ケルト世界はローマ・カトリック教会に包摂されながら,独自の文化を守りつづけた。…

【ベネディクト会】より

…【橋口 倫介】
[美術]
 〈会則〉は修道士の祈禱と労働を義務と定めているが,労働は神の賛美の準備としてあるため,修道院内には写本所(写字所)や各種の工房が設けられた。7世紀初めに当会則を併用した,アイルランド出身の伝道者コルンバヌスと弟子たちの創建になる諸修道院は,ロンバルディアを経由して入って来た東方のモティーフやグレート・ブリテン諸島の伝統的装飾を継承する写本画を大陸で開花させた(リュクスイユ,エヒテルナハ,コルビー)。続いてカロリング朝の古典主義的で華麗な写本画(カロリング朝美術)は,宮廷の工房から同会修道院を通じて広まる。…

※「コルンバヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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