日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガリア」の意味・わかりやすい解説
ガリア
がりあ
Gallia
地理的には、古代ローマ人がガリア人Galliとよんでいた人々(ケルト人)の住んでいた地域一般をさす。とくに、カエサル以降、ライン川、大西洋、ピレネー山脈、地中海、アルプスに囲まれた地方、ローマの古い属州ガリア・トランサルピナGallia Transalpina(アルプスのかなたのガリア)をさし、現在のフランス、ベルギー、オランダ、スイスにあたる。なお、ポー川以北の北イタリアも、ガリア・キサルピナGallia Cisalpina(アルプスのこちらのガリア)として、これに含めて考えることができる。
最古の住民は、南部はリグリア人、イベロ人、その他の地方はケルト人であり、ケルト文化は紀元前900年から前500年にかけて深く浸透していく。なおケルト人は北イタリアにも侵入し、ポー川流域に居を占めた(ガリア・キサルピナ)。また前600年ごろマッサリア(マルセイユ)へフォカイア人が進出したのちはギリシア文化も広まり、さらに南ガリアはローマとの商取引も盛んとなり、ローマ文化の影響を受け、前125~前116年には属州ガリア・ナルボネンシスGallia Narbonensis(ガリア・トランサルピナ)が設けられ、ドミティア街道や、前118年には市民植民市ナルボ(ナルボンヌ)がつくられた。なお前2世紀末のゲルマン系のキンブリ・テウトニ人の侵入は、ローマの将軍マリウスによって撃退された。一方、北ガリアは、前58~前51年のガリア戦争によって、ガリアの地方長官カエサルに占領された。
ローマ帝政期には、まずアウグストゥスがガリアをナルボネンシス(元老院属州)のほかに三つの元首属州(ルグドネンシス、ベルギカ、アクィタニア)に分け、ルグドゥヌム(リヨン)を統治およびアウグストゥス礼拝の中心地としたうえ、全ガリアの属州会議の開催地とした。ローマ化に対してティベリウス帝以降たびたびの蜂起(ほうき)がみられたが、植民市の設置、道路網の整備などローマ化が進められ、優れた詩人、文学者を輩出する一方、ルグドゥヌム、アレラテ(アルル)、トロサ(トゥールーズ)、ブルディガラ(ボルドー)、ケナブム(オルレアン)、ルテティア(パリ)などの町が栄え、ぶどう酒、穀物、食料品、織物、陶器、金属、ガラス器具の生産など経済発展も目覚ましかった。しかし、マルクス・アウレリウス帝のとき、ゲルマン人の侵入を被り、混乱、衰退が始まる。193年には一時ルグドゥヌムが落ち、その後もゲルマン人の侵入が続き、258年(259、260年説もある)~273年には、ライン川国境防衛のため「ガリア人の帝国」が設けられた。ついでディオクレティアヌスの帝国再建築のもと、ガリア管区(トリエル)とウィエンナ管区(ウィーン)が設置され、それぞれ8個と5個の属州に分かれた。
2世紀以降キリスト教が普及したが、177年には大迫害がウィエンナとルグドゥヌムで起こり、その後も各地でキリスト教徒の迫害がみられた。また283年以降は、バガウダエとよばれる農民一揆(いっき)も起こり、5世紀前半には各地に広まり、一揆は世紀なかばまで続いた。4世紀にアラマン人、フランク人、ザクセン人が侵入し、多くの都市が破壊された。406年にはアラン人、バンダル人、スエビ人、ついでブルグント人、ゴート人、フン人が侵入し、418年には南ガリアに西ゴート王国が、443年にはローヌ川流域にブルグント王国が成立し、5世紀末にはガリアは完全にゲルマン人の支配下に入った。
[長谷川博隆]