翻訳|Bourgogne
フランス中東部の地方名。西流するセーヌ川の上流域にあたるパリ盆地南東縁部と,南流するソーヌ川(ローヌ川上流)のおもに上・中流右(西)岸域とを併せていう。現在の行政地域régionとしてはコート・ドール,ニエーブル,ソーヌ・エ・ロアールおよびヨンヌの4県の総称であるが,旧州名(province)としてはもっと広く,北のオーブ県や南のアン県の一部をも含む。山地や農村地域が広いために1km2当り人口密度は50人で,フランス平均の半分程度に過ぎない。中心都市はディジョン(コート・ドール県の県都)。
マシフ・サントラル(中央山地)から北東へ延びるヘルシニア系のモルバン山地およびラングル高原(ブルゴーニュ高原)がほぼ中央部に広がって脊梁をなしており,これらを分水界として北西へ傾くパリ盆地の周縁部,その南東側で北東~南西走するコート・ドールCôte d'Or(〈黄金の丘陵〉の意)と呼ばれる丘陵,およびソーヌ川流域など,自然条件のたいそう異なる諸地域を一つにまとめた集合体である。ほぼ三角形を示すモルバン山地は,中央高地から張り出した北東翼の最先端部にあたる高原状の地塊で,おもに古い花コウ岩から成り,硬い斑岩の部分が最高峰のオー・フォラン山(901m)となっている。南ほど高いが,全体として北西方向に緩く傾斜し,そこをヨンヌ川(セーヌ川左岸の支流)が北西へ流れる。西風を受けるために降水量が多く,広範囲に森林で覆われており,地名はケルト語で〈黒い山〉を意味するといわれる。モミの木がよく茂り,クリスマスツリーに用いられるのは,この山地産のものが多い。1970年に地域自然公園に指定され,森林が広く保護されることになった。小麦などが栽培されるが,牧畜のほうが経済的に重要である。近年は観光客が目だつようになったが,1世紀以上も前から続く人口流出はなおやまない。
モルバン山地とフランス北東部のボージュ山地との間に横たわるラングル高原Plateau de Langresは,両山地よりもいちだんと低い地塊で,最高峰のオー・デュ・セックの標高はわずか516mにすぎない。200m以上の厚さをもつ石灰岩層が覆いかぶさったもので,カルスト地形がみられる。複背斜構造をもつ高原で,分水界が南東側に偏って北西方向に緩斜していき,セーヌ川本流の水源地帯をなしている。やはり年降水量が多くて900mmに達するが,冬は厳しくて雪に覆われ,気温が-15℃以下になることもある。大部分が森林と羊の放牧地帯で,18世紀に導入されたメリノ種が飼養されるが,日当りのよい斜面ではブドウ栽培がみられる。また20世紀初頭以来,土地改良が行われ,小麦,テンサイの栽培も行われている。モルバン山地とラングル高原とが接続する部分は狭い河谷平野をなしており,ここを通って大西洋側斜面のヨンヌ川と地中海側斜面のソーヌ川とを結びつける長さ242kmで約200の水門をもつブルゴーニュ運河が,1775-1832年に開削された。これら二つの地塊は,ともに広大なパリ盆地の南東部を限るもので,セーヌ川の本・支流がそこを集水している。
他方,脊梁をなす山地,高原の南東側には,ブドウ酒の生産で聞こえたコート・ドールが連なっている。この丘陵は,断層線に沿って流れるソーヌ川支流のウーシュ川によって北西側をラングル高原から,同じ支流のドゥーヌ川によって南東側をシャロレー山地から切り離された石灰岩から成る地塊である。全体に低くて最高峰も636mにすぎない。丘陵の南東斜面は日当りがよいうえに西風が遮られるので,標高200~500mの地帯に著名なブドウ栽培地帯が形成されている。これらの地塊とジュラ山脈との間に展開するソーヌ川流域の平野は,ブルゴーニュの政治,経済の心臓部をなしており,中心都市もまたこの平野に位置する。長さ480kmのソーヌ川本流は,0.15/1000という緩い勾配をもつおだやかな河川で,女性の冠詞をつけて呼ばれ,男性的なローヌ川とは対照的である。
ブルゴーニュの地名はラテン語のブルグンディアBurgundiaに由来しており,ブルグント族の土地あるいは王国を指している。ブルグント族はもとバルト海沿岸に住んでいたゲルマン系の部族で,のちしだいに南西進して5世紀中葉に現在のサボア地方に到達し,同世紀末にはローヌ・ソーヌ川流域に広がって6世紀初めに王国をつくった。しかし,まもなくフランク族の支配に服し,地名にその名をとどめるにすぎなくなった。561年に誕生したフランク族のブルゴーニュ王国は,ソーヌ川流域を本拠地として西や南へと領域を拡大したが,771年にカール1世(大帝)のフランク王国に統一されてしまった。しかし,843年のベルダン条約によってブルゴーニュ公国が誕生した。この公国はのちに支配者をたびたび替えたが,1364年にバロア家のフィリップ(アルディ公)が公位を得たのち,娘むこという関係から義父のフランドル伯領を受け継ぎ,支配圏を北海沿岸にまで広げるにいたった。これによって14~15世紀に非常に繁栄したことは,当時の首都ディジョンに残る宮殿,大聖堂,貴族・商人たちの住居などから察することができる。しかしシャルル公(テメレール)がフランス国王と対立して失敗し,1477年にロレーヌ公と戦ってナンシー近くで戦死したので,国王ルイ11世が公国を併合した。
あるアンケートによると,フランス人が最も住みたいと思う都市はディジョンだという。数々の歴史的記念物,こくのあるブドウ酒,それをたっぷり使ったエスカルゴ,鶏肉,シャロレー牛の肉などの美食家を喜ばせる料理,交通の便,そして何よりも落ち着いた居住環境から,そういう回答が引き出される。パリ盆地とソーヌ川流域平野とを含むこの地方は,フランスの南と北の文化が接触する地帯にあたっており,さらにライン川流域からのゲルマン的要素を受け入れている。このありさまはブルゴーニュ人形の姿や,著名建造物にロマネスク様式とゴシック様式とが混在することからも知られる。この地方は交通の十字路をなすといってよく,パリを発するスイス行きとリヨン,マルセイユ行きとの列車が分岐するのは,ディジョン駅においてである。北のロレーヌ地方との連絡もまたよい。こういう地理的位置が都市の商業活動を活発にし,おいしい料理を育ててきた。しかしソーヌ川流域を除くと,経済活動の重点はなお農業に置かれている。平野,丘陵では小麦,大麦,トウモロコシが作られ,またディジョンの近郊はマスタードを造るカラシナの栽培で名高い。
ところでブルゴーニュを代表する農産物といえば,コート・ドールのブドウに及ぶものは他に見当たらない。ブドウ栽培地帯は平野からみると比高20~100mほどの所に集中しており,頂上にまでは及んでいない。なかでもグラン・クリュ(名産地)と呼ばれるのは,標高がほぼ220~270mの斜面に限られる。このようなブドウ畑は丘陵の斜面に細長く連続するわけではなく,北部ではディジョンのコート,中央部ではニュイのコート,南部ではボーヌのコートに名産地が集中している。赤ブドウ酒を主とするディジョンのコートは最も面積が狭く,他にホップやカシス(黒スグリ)の栽培もみられる。これに対し,赤・白両ブドウ酒をともに造るボーヌのコートは最大で,栽培面積は約2800haに及ぶ。この地方で初めてブドウが栽培されたのは紀元前後といわれるが,それが盛んとなってきたのはブルゴーニュ公国の成長と関係が深い。ブドウ酒造りには修道院が重要な役割を果たしてきた。一般にブドウの集荷とブドウ酒造りは丘陵のふもとに点在する町々で行われる。そこはまたブドウ酒取引の中心地でもある。円形の城郭町ボーヌは,この点で名高く,14~16世紀に使われたブルゴーニュ公の館は,今ではブドウ酒の博物館となっている。ブドウの栽培農家はおおむね小規模なのに対し,そこからブドウを集荷してブドウ酒を造るネゴシアンと呼ばれる卸商人は,経営規模が大きい。ネゴシアンによる醸造・販売のシステムは大革命以後発達したもので,1930年からは銘柄が厳重に規制されるようになった。また19世紀後半にブドウ根アブラムシ(フィロクセラ)が広がってブドウ畑にひどい被害が出たが,アメリカ原産の台木に接木する方法で無事に危機を切り抜けた。
このような農業が主産業をなしていた19世紀後半には,現在よりも人口が多かった。しかし,その後パリやリヨンの大都市圏が成長するのに反比例して,山地,高原を主として農村人口の流出が顕著となり,この傾向は第2次世界大戦まで続いた。大戦後,都市化の波がこの地方にも押し寄せ,ディジョンの都市圏を拡大(都市圏人口23万,1990。以下同じ)させるとともに,シャロン・シュル・ソーヌ(5万6000)やマコン(3万9000)などの都市を発達させた。これらはソーヌ川による港湾活動や,機械,電気,食品などの近代工業が人口を吸引した結果である。またソーヌ川とロアール川とを結んで18世紀末に開削された長さ114kmの中央運河に沿うモンソー・レ・ミーヌ(2万7000)やル・クルゾー(2万9000)は,18世紀以来の炭田開発とそれに基づく製鉄・機械工業によって発展した都市である。とくに後者は巨大な鉄鋼会社シュナイダーの発祥地として知られ,現在は原子力発電所が設けられている。ロアール川流域の一部もブルゴーニュに含まれるが,中心地のヌベール(4万4000)は19世紀中ごろに奇跡を行った聖女ベルナデットの死没地で,そこから派遣された教団が日本で聖母系の学園をつくっている。これらの都市の存在にもかかわらず,ディジョンはTVG(新幹線)からも高速自動車道の主流からも外れ,将来の発展が憂慮されている。
ブルゴーニュの地域的性格は,その美術にも表れている。古代以来,地中海文明を受け入れてきた地域なので,たとえば宗教建築の基調はロマネスク様式にある。クリュニーの修道院をはじめ,ディジョンのサン・フィリベール教会,オータンのサン・ラザール大聖堂などがその好例で,オーセールのサンテティエンヌ大聖堂の地下礼拝堂にみられる壁画もまたロマネスク様式の特色を示している。これに対し,ゴシック様式のものはディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂やノートル・ダム教会にみられるが,その分布は北部を主としている。これらは13~14世紀に再建または建設された。封建時代に入ると,ブルゴーニュ公国では首都に壮大な宮殿が営まれ,各地に城が現れた。ルネサンス様式のものもまた無視しがたく,ディジョンの15~16世紀建設のサン・ミシェル教会はその例であり,また各地の市庁舎や上流階層の邸宅にも,その特色が生かされている。
執筆者:谷岡 武雄
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フランス中東部の歴史的地方名、旧州名。現在はヨンヌ、コート・ドール、ニエーブル、ソーヌ・エ・ロアールの4県からなる行政地域名として用いられており、その面積は3万1582平方キロメートル、人口161万0067(1999)。英語名バーガンディBurgundy。ドイツ語名ブルグントBurgund。中心都市はディジョン。古来、フランス北部のパリ、ロレーヌ、ライン川沿岸地方と、南部のローヌ川渓谷、地中海沿岸、イタリア方面とを結ぶ中継地として栄え、現在も鉄道、高速道路、ソーヌ川中心の河川交通により両地域の結節点となっている。19世紀後半には人口170万に達したが、19世紀末から人口流出が著しく、第二次世界大戦後の数年間に至るまで減少し続けた。1950年代以降ディジョンを中心に都市化が進むにつれ人口は増えたが、いまなお人口密度は1平方キロメートル当り51人と低い。ディジョンを中心に、機械、電気などの工業も行われるが、主産業は農業である。小麦、大麦、トウモロコシなどの穀作、畜産のほか、ブドウ栽培が盛んで、ブルゴーニュ・ワインはシャンベルタン・ポマールなどの有名銘柄で世界中に知られている。
[大嶽幸彦]
紀元前、ガリア時代にはケルト人が定住していたが、ガリアの指導者ウェルキンゲトリクスの反ローマ蜂起(ほうき)に加担し、紀元前52年カエサルの攻撃に屈した。その後ローマの支配を受けたが、紀元後5世紀後半ゲルマン系のブルグント人が移住し、ブルグント王国を建国した。ブルゴーニュの名はここに由来する。この第一次王国は534年フランク王国に滅ぼされたが、このあとも第二次、第三次の王国が続く。7世紀から9世紀まで、ローヌ川とソーヌ川の両流域を中心として南はプロバンスを含む広大な領域をもっていたが、9世紀後半の分裂を機に、北方の高ブルグント西部がブルゴーニュ・デュシェ(公領)となり(東部はコンテ=伯領、後のフランシュ・コンテ)、これが今日のブルゴーニュとよばれる地方を含むことになった。
956年からはカペー家のロベール一族の後裔(こうえい)によって支配され、ディジョンとともに、オータンやシャロンなどの都市も発展した。またノルマン人やイスラム教徒の侵入を避けて聖職者が移住してきて、クリュニー修道院は、11世紀以来、教会刷新運動の拠点となり、12世紀にはシトー派修道会も生まれた。1363年国王ジャン・ル・ボンの第4子フィリップ・ル・アルディに公領が与えられてより、公領は最盛期を迎え、西ヨーロッパ大公の国として国王の勢力を上回ったが、1477年王領地に併合された。これより以降ブルゴーニュ公という称号は栄誉的なものとなり、ルイ14世の孫ルイ・ド・フランスとルイ16世の長兄ルイに授与されたにすぎなくなった。しかし、王権はブルゴーニュの地方的独自主義を侵害せず、ディジョンの高等法院や会計院を存続させ、また地方三部会の開催を認めた。王権が創設したのは徴税区(ジェネラリテ)であり、やがてこの区内を統轄するアンタンダン(地方長官)がブルゴーニュにやってくるのは17世紀に入ってからである。
18世紀に入るとブルゴーニュは繁栄をきたし、新興ブルジョアジーの経済的活動は法服貴族の地位を揺るがし、文化の面では1722年法学部が創設され、40年にはアカデミーも生まれた。フランス革命(1789)により、ブルゴーニュ州は前記の4県に分かれた。19世紀の鉄道網の発達により、ブルゴーニュ地方はふたたび活況を呈し、ブドウ栽培や牧畜を中心に新たな発展を促した。
[志垣嘉夫]
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フランス東部の地方名。主都市ディジョン。地名は5世紀後半に定着したブルグント族に由来する。ヴェルダン条約以後,一時,西南部に王国を形成した時期もあったが,11世紀にカペー系の公領を形成した。地理的に独立性が強く,クリュニー,シトーなどの修道院運動の中心を擁し,通商の要地にもあたった。13世紀以降は織物,ブドウ酒生産などで繁栄し,1477年王領に併合された。東部,フランシュ・コンテは11世紀初め神聖ローマ帝国領となったが,1678年最終的にフランスに帰属した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…このメソポタミアのブドウ酒づくりの技術はエジプト,ギリシアに伝わり,さらにローマ帝国の拡大に伴って西ヨーロッパにも広まった。5世紀の末ころまでに,フランスのボルドー,ブルゴーニュ,シャンパーニュ,あるいはドイツのライン,モーゼルなどの銘醸地がひらかれている。また,赤ワインがキリスト教の行事に使われるようになって,教会や修道院によるブドウ園の経営,ブドウ酒醸造が行われ,これがブドウ酒の普及に貢献するところも大であった。…
※「ブルゴーニュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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