サイパン島の戦い(読み)サイパンとうのたたかい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サイパン島の戦い」の意味・わかりやすい解説

サイパン島の戦い
サイパンとうのたたかい

太平洋戦争中の 1944年6月 15日,アメリカ軍が日本の委任統治領であったサイパン島に来攻し,7月6日に日本守備隊の残存兵力が「玉砕」攻撃を行なって壊滅するまでの離島戦闘。アメリカ軍上陸時,サイパン島には第 43師団を中心とする2万 8518人の陸軍部隊と,1万 5164人の海軍部隊があり,在島邦人も約2万人が残っていた。アメリカ軍は R.ターナー提督指揮下にチャランカノア南北の海岸に上陸,日本軍は 16日の総反撃に失敗し,タッポーチョ山を中心とする新防御線に後退した。タッポーチョ山は 26日に失われ,7月6日,日本側の最高指揮官である中部太平洋艦隊司令長官南雲忠一中将,第 43師団長の斎藤義次中将が自決したうえで,約 3000人の陸海軍将兵,警防団,青年団などの邦人が最後の突撃を行なった。9日,アメリカ軍は占領を宣言。この戦いで数百人の日本の婦女子を含む民間人が北側の断崖から飛降り自殺した。日本軍は約4万 1000人,アメリカ軍は 3126人が戦死。サイパンが失陥した直接原因は日本艦隊がマリアナ沖海戦でアメリカの機動部隊に敗退し,この海域の制海権を失ったためである。サイパン島は絶対国防圏に入っていたため,失陥は東条英機内閣を崩壊させ,日本本土はB-29爆撃機の爆撃圏内に入った。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サイパン島の戦い」の意味・わかりやすい解説

サイパン島の戦い
さいぱんとうのたたかい

太平洋戦争の末期マリアナ諸島のサイパン島をめぐって戦われた日米両軍の攻防戦。緒戦守勢から反攻に転じたアメリカ軍は、ニューギニア方面および中部太平洋方面から日本本土を目ざし、1944年(昭和19)6月15日には中部太平洋のサイパン島に上陸した。これに対し、日本海軍機動部隊は艦隊決戦を求めてアメリカ海軍に対する反撃を試みたが、19~20日のマリアナ沖海戦で大敗し、以後、アメリカ軍が完全に制海・制空権を掌握した状況の下で地上戦闘が展開される。上陸した約7万のアメリカ軍に対しては、第四三師団を基幹とする約3万の日本軍守備隊が激烈な抵抗を行ったが、防御陣地の不備とも相まって、海、空からの支援を受けたアメリカ軍によってしだいに圧倒され、7月7日には最後の総攻撃を実施して全滅した。同島の占領によってアメリカ軍は有力な航空基地を確保し、同年末からはB-29による本格的な日本本土空襲が開始されることになった。

吉田 裕]

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