南雲忠一(読み)ナグモ チュウイチ

20世紀日本人名事典 「南雲忠一」の解説

南雲 忠一
ナグモ チュウイチ

大正・昭和期の海軍大将



生年
明治20(1887)年3月25日

没年
昭和19(1944)年7月8日

出生地
山形県米沢

学歴〔年〕
海兵(第36期)〔明治41年〕卒,海大〔大正9年〕卒

経歴
海兵卒後、主として水雷畑を歩き、第1水雷戦隊参謀、那珂艦長、軍令部第2課長、高雄・山城艦長、第1水雷戦隊司令官、水雷学校長など歴任。昭和14年中将、15年海大校長。16年4月第1航空艦隊長官となり、同年12月の真珠湾攻撃やインド洋作戦、ミッドウェー海戦ソロモン海戦で空母機動隊を指揮した。日本海軍としては初の大打撃を受けたミッドウェー海戦では暗号の漏えいと索敵の不完全などで作戦失敗の責任を問われる。17年11月佐世保鎮守府長官に転じるが、18年10月第1艦隊司令長官として再び前線に出、19年3月中部太平洋方面艦隊長官に就任。最後の戦闘となった19年7月のサイパン島玉砕戦では、「我ら玉砕もって太平洋の防波堤たらん」との別辞の無電を残して自刃した。死後、大将に昇進。太平洋戦争の開戦からサイパン島玉砕までずっと第一線の長官を務め、日本海軍の十字架一身に背負った悲劇の武将とされている。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南雲忠一」の意味・わかりやすい解説

南雲忠一
なぐもちゅういち

[生]1887.3.25. 山形
[没]1944.7.6. サイパン島
海軍軍人。 1908年海軍兵学校,20年海軍大学校卒業。 39年中将。第8戦隊司令官,水雷学校校長,40年海軍大学校校長など歴任後,41年に第1航空艦隊長官となり,同年真珠湾奇襲の機動部隊指揮官。 42年のミッドウェー海戦後,第3艦隊長官となり,南太平洋海戦勝利を得たあと,佐世保,呉鎮守府長官などを経て,44年にサイパン島に司令部をおく中部太平洋艦隊長官に就任。アメリカ軍が上陸すると,日本軍の最後の攻撃の前日,自決した (→サイパン島の戦い ) 。死後,大将。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「南雲忠一」の解説

南雲忠一 なぐも-ちゅういち

1887-1944 明治-昭和時代前期の軍人
明治20年3月25日生まれ。昭和16年12月8日,第一航空艦隊司令長官として機動部隊をひきい真珠湾攻撃を指揮した。17年6月ミッドウェー海戦で敗れる。19年中部太平洋方面艦隊司令長官となり,7月8日サイパン島で自決。58歳。死後海軍大将にすすむ。山形県出身。海軍大学校卒。
格言など】今や止まるも死,進むも死(「サイパン島守備兵に与うる訓示」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「南雲忠一」の解説

南雲 忠一 (なぐも ちゅういち)

生年月日:1887年3月25日
大正時代;昭和時代の海軍軍人。中部太平洋方面艦隊長官
1944年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android