太平洋戦争(読み)たいへいようせんそう(英語表記)Pacific War

精選版 日本国語大辞典 「太平洋戦争」の意味・読み・例文・類語

たいへいよう‐せんそう ‥ヤウセンサウ【太平洋戦争】

第二次世界大戦うちアジア太平洋地域での戦争。第二次世界大戦後、アメリカ側での呼称 Pacific War の訳語として用いる。戦争中、日本側では大東亜戦争と称した。昭和一六年(一九四一)一二月八日、日本がアメリカ・イギリスオランダに対し宣戦し、同二〇年八月一四日のポツダム宣言受諾、翌一五日の終戦、九月二日降伏調印までの戦争をさす。なお、同一二年七月に起こった日中戦争のうち同一六年一二月八日以降の中国での戦争は、これに含まれる。
※朝日新聞‐昭和二〇年(1945)一二月八日「支那事変から太平洋戦争へ」

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デジタル大辞泉 「太平洋戦争」の意味・読み・例文・類語

たいへいよう‐せんそう〔タイヘイヤウセンサウ〕【太平洋戦争】

第二次大戦のうち、アジア・太平洋地域で行われた、日本と米国英国・オランダ・中国など連合国との戦争。昭和16年(1941)日本の真珠湾攻撃によって始まり、初め日本が優勢であったが、昭和17年(1942)半ば以降連合軍が優位に立った。昭和20年(1945)、広島長崎への原子爆弾投下とソ連参戦によって日本がポツダム宣言を受諾、無条件降伏し、終結した。戦争中、日本では大東亜戦争と称した。アジア太平洋戦争

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「太平洋戦争」の意味・わかりやすい解説

太平洋戦争
たいへいようせんそう
Pacific War

1941年12月から 1945年8月までの間,アメリカ合衆国,イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争をさし,広義には第2次世界大戦に含まれる。太平洋戦争という呼称はアメリカにとって太平洋での戦いであったために名づけられたもので,戦時中の日本では大東亜戦争と呼ばれていた。日本の敗戦後,連合国の占領を受けてからは日本でも太平洋戦争と呼ばれるようになった。この戦争の性格にはファシズムと反ファシズム,帝国主義国間の市場争奪戦,帝国主義と反帝国主義など多様な側面があると論じられているが,主たる性格はファシズムに対するデモクラシー(民主主義)を守る戦いという意味が強い。
1941年12月8日,日本海軍はハワイのアメリカ海軍基地に奇襲攻撃をかけ,それを機に太平洋戦争は始まった。この攻撃にいたるまでに日本とアメリカの間では,関係悪化を調整するための外交交渉が続いていたが,日本の中国侵略,ドイツ,イタリアとの日独伊三国同盟に対してアメリカ政府は中国からの撤兵,三国同盟の離脱を要求して譲らず,石油の全面禁輸を続けていた。1941年11月26日にアメリカが示した案(→ハル・ノート)を最終回答と判断した日本政府は開戦に踏み切った。日本軍は真珠湾攻撃と同時にホンコン,マレーシア,フィリピン,グアム島,ウェーク島などでも軍事行動を開始し,開戦を予期していなかったアメリカ軍やイギリス軍に多大な損害を与えた。1942年2月にはイギリスのアジア最大の基地シンガポールを占領し,イギリス軍の 13万8000人の将兵を捕虜にした。同年3月にはオランダ領東インド諸島を制圧し,さらにビルマに侵攻してラングーンも日本軍の支配するところとなった。5月までにニューギニアまで制圧地域とし,東南アジアに広大な勢力圏を築き上げることになった。
これに対しアメリカは国内の平和体制を戦時体制に切り替えて,軍備増強に励み,あわせて日本軍の奇襲攻撃に怒る国民の戦意が「リメンバー・パールハーバー」という標語に収斂(しゅうれん)されて国力が対日戦争へと傾注されることになった。1942年6月のミッドウェー海戦では日本海軍の連合艦隊司令長官山本五十六の作戦を見破り,アメリカ海軍の太平洋艦隊が空と海から連合艦隊を攻撃した。そのため日本海軍は航空母艦(空母)3隻を含め連合艦隊の編制が崩れてしまった。アメリカ軍の反攻はすでに真珠湾攻撃から 6ヵ月後には始まっていた。1942年8月からのガダルカナル攻撃は,アメリカ軍の総反攻の記念すべき戦闘となったが(→ガダルカナルの戦い),日本はそれを見抜けず兵力を順次投入するという過ちを犯し,莫大な損害を被った。1943年4月,山本五十六の乗った飛行機がアメリカ軍の待ち伏せ攻撃にあい,山本は戦死した。日本で山本は「救国の英雄」とされていたために,その戦死は国民の衝撃をやわらげるためにしばらくは伏せられていた。
日本軍は 1943年にはあまりにもその勢力範囲を広げていたがゆえの苦悩を味わうことになった。アメリカは 1943年末までに日本の国力を見抜いて消耗戦に引き込む一方で,ダグラス・マッカーサーの戦略による「蛙跳び作戦」を計画。日本軍が占領する南アジアの島々のなかから日本本土に近づくための要衝ルートを選び出し,集中的に攻撃を浴びせた。一方,攻撃を仕掛けない島々へは補給ルートを断ち,このため日本軍はいたるところで餓死者を出した。1943年末までに制海権はアメリカ軍の手に落ち,日本軍はその勢力範囲を縮め,見捨てられる日本兵が相次いだ。
1943年11月,日本は東京にビルマ,フィリピンなど日本軍の軍政下にある国々の代表を集めて大東亜会議を開催,日本主導の大東亜構想を確認した。しかし日本軍の戦況悪化を知っている各国国内では連合国との連絡ルートをもつグループもいたため,大東亜共栄圏構想は現実味をもたなかった。1944年6月,日本海軍は「サイパン死守」を掲げて「あ号作戦」を開始したが,マリアナ沖海戦で機動部隊や攻撃機が致命的な打撃を受けた。またアメリカ軍のサイパン上陸作戦(→サイパン島の戦い)によって,守備隊,民間人が玉砕した。以後,日本軍の玉砕は戦場のいたるところで繰り返された。10月からのレイテ湾海戦で日本軍は空母 4隻をはじめ戦艦,巡洋艦などを失い,航行可能な戦艦と空軍力をすべて失った。そのために特攻作戦(→特攻隊)が強行され,1945年2月の硫黄島の戦い,同年4月の沖縄の戦いは玉砕と特攻の戦いとなった。大本営は本土決戦を呼号し,根こそぎ動員で全軍特攻の戦略を立てた。
1945年7月のポツダム会談で,ハリー・S.トルーマン,ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル蒋介石の連名により日本の無条件降伏を促すポツダム宣言が発せられたが,日本はこれを無視。8月に入って広島,長崎への原子爆弾投下,さらにソビエト連邦の対日参戦により日本政府は国体護持を条件にポツダム宣言を受け入れた。9月2日,東京湾に停泊する戦艦『ミズーリ』上で降伏文書への調印が行なわれ,3年9ヵ月に及ぶ太平洋戦争は終結した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「太平洋戦争」の解説

太平洋戦争
たいへいようせんそう

第二次世界大戦のうち,アジアにおける日本とアメリカ・イギリス・中国など連合国との戦争(1941〜45)
当時日本では大東亜戦争と呼び,アジア諸地域を欧米の支配から解放し,大東亜共栄圏建設をめざす「聖戦」と称した。1937年以来の日中戦争の長期化に伴い,イギリス・アメリカとの対立が激化する中で,日本軍は戦局の打開と東南アジア資源確保のため,'40年フランス領インドシナ北部に進駐,同年日独伊三国同盟を結成した。連合国側はABCD包囲陣で日本に対抗したが,'41年日本軍がフランス領インドシナ南部に進駐を行い日米交渉が行きづまり,開戦は決定的となった。12月8日真珠湾奇襲・マレー沖海戦で制海権を握った日本軍は,フィリピン・オランダ領インドネシアなどを占領,南西太平洋を制圧し,南方資源で自給自足体制を形成したが,このころからアメリカは反撃に転じ,'42年ミッドウェー海戦で日本の航空母艦4隻を失わせ,'43年ガダルカナル島を占領。日本軍は制海・制空権をほとんど失い,日本本土は激しい空襲に見舞われた。政府は大政翼賛会のもとに国民生活を統制し,戦争体制に全面協力させたが,生産の破壊・労働力の極度の不足に,国民ははなはだしく疲弊し,主食にもこと欠くありさまであった。'45年4月の沖縄陥落,8月の広島・長崎への原爆投下・ソ連参戦により日本はついにポツダム宣言を受諾,無条件降伏し連合軍に占領された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「太平洋戦争」の解説

太平洋戦争
たいへいようせんそう

日本が日中戦争を行いながら武力南進策をとったことに起因する,米・英・中・ソ・英連邦諸国など連合国との戦争。当時の日本での呼称は大東亜戦争。日本は,中国の抗戦意思を挫折させるため,1940年(昭和15)援蒋ルート遮断を目的に仏印進駐を実行。さらに,フランスの降伏に代表されるドイツ勝利の報で南方植民地へ侵攻を始めた。同年9月27日の日独伊三国同盟締結はアメリカとの対立を深め,アメリカは,41年7月25日の在米日本資産凍結,8月1日の石油の全面禁輸によって南進阻止をはかった。41年12月8日,宣戦布告の手交前になされた真珠湾攻撃によって戦争勃発。日本とアメリカは,反対の陣営に立って第2次大戦にも参入することになった。緒戦は日本が優勢で42年半ばには支配領域が最大になったが,ミッドウェー海戦での敗北後,補給線が続かず制空権・制海権維持のための地上基地の不足によって連合国軍の反攻にあった。米海軍は中部太平洋から島づたいに北上し,米陸軍はニューギニア・フィリピンから進攻した。この間,日本は汪兆銘(おうちょうめい)政権や,連合国の植民地だった地域を大東亜共栄圏とよんだが,実態は日本への資源供給地としての位置づけにすぎなかった。輸送船団の崩壊,本土空襲,国民の戦意低下,原爆投下,ソ連参戦がポツダム宣言受諾を決意させた。45年9月2日降伏文書調印。

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世界大百科事典 第2版 「太平洋戦争」の意味・わかりやすい解説

たいへいようせんそう【太平洋戦争】

1941年12月8日から45年9月2日にかけて日本と連合国とのあいだで戦われた戦争。
【戦況】

[戦争の原因]
 太平洋戦争は満州事変および日中戦争とともに十五年戦争と総称され,十五年戦争の第3段階にあたり,かつ第2次世界大戦の重要な構成要素をなす戦争である。近年は,戦争の実質からして〈アジア・太平洋戦争〉という呼称も提唱されている。満州事変と日中戦争は,ともに日本の中国に対する侵略戦争であったが,日中戦争は軍部の短期終結の予想に反し,抗日民族統一戦線を基礎とする中国側の強力な抵抗により泥沼の長期戦となった。

たいへいようせんそう【太平洋戦争】

火薬,肥料の原料であった硝石資源の開発を原因とするチリ対ボリビアおよびペルーの戦争(1879‐83)。南アメリカの太平洋沿岸地域が戦場となったのでこの名がついている。現在のチリ北部のアタカマ砂漠地帯のタラパカ,アントファガスタ地方は,それぞれペルー,ボリビア領であったが,硝石,グアノ,銅などの鉱物資源に富み,しかも当時チリと接していたアントファガスタ南部は,19世紀初頭のスペインからの独立以来国境線が未画定で,これらの資源が主としてチリ人によって開発されていたため,紛争が絶えなかった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「太平洋戦争」の解説

太平洋戦争
たいへいようせんそう
the Pacific War

第二次世界大戦の一環として,1941年12月8日から45年8月15日まで太平洋一帯で戦われた日本とアメリカ・イギリス・中国など連合国との戦争
日本の侵略に対する中国の民族的抵抗と,日本のフランス領インドシナ・タイへの南進に対するアメリカ・イギリスの反撃が連合して展開された。日中戦争の解決,日米関係の調整をめざす日米交渉が失敗すると,1941年12月8日,日本はハワイを奇襲してアメリカ・イギリスに宣戦,42年春までに広大な太平洋諸地域を占領し,大東亜共栄圏の建設を呼号した。しかし,アメリカの戦争体制の整備とともにしだいに圧迫され,中国戦線の膠着 (こうちやく) とあいまって敗色を深めた。1945年にはいると,日本本土への戦略爆撃が本格化し,硫黄 (いおう) 島・沖縄を奪われ,8月には広島・長崎への原爆投下,ソ連の参戦などがあり,15日に日本はポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「太平洋戦争」の解説

太平洋戦争(たいへいようせんそう)

①〔1879~83〕la guerra del Pacífico 1879~83年の硝石(しょうせき)資源をめぐるペルー,ボリビア対チリの戦争。ペルーとボリビアにまたがるアタカマ砂漠は,肥料,火薬原料である硝石の生産地だった。この地域は国境線が未画定であり,硝石の採掘はイギリス資本に後押しされたチリの企業があたっていたが,チリ企業への課税強化に端を発して3国が開戦した。海軍力に勝るチリの勝利に終わり,ペルーはタラパカ,アリカ両県を失い,ボリビアはアントファガスタ県を失って内陸国となった。

②〔1941~45〕第二次世界大戦

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防府市歴史用語集 「太平洋戦争」の解説

太平洋戦争

 1941年(昭和16年)12月8日の日本軍による真珠湾攻撃[しんじゅわんこうげき]をきっかけにはじまった、アメリカ・イギリス・中国・ソ連など連合国との戦争です。日本が日中戦争[にっちゅうせんそう]を行いながら、南へと領土を広げたことが原因です。 最初は日本が優勢でしたが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦[みっどうぇーかいせん]で敗戦した後は次第に領地を失い、1945年(昭和20年)、ポツダム宣言[ぽつだむせんげん]を受け入れ、9月2日に降伏文書に調印しました。

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世界大百科事典内の太平洋戦争の言及

【玉音放送】より

…1945年8月15日正午,天皇みずからが太平洋戦争の終結を国民に告げるために,円盤録音によって行った終戦詔書のラジオ放送。この放送は,前日8月14日の御前会議において,天皇みずからの最後決定により実施となったもので,録音は同日深夜,宮内省の天皇の政務室で行われた。…

【昭和時代】より

…〈ぜいたくは敵だ〉〈欲しがりません,勝つまでは〉という標語で国民は耐乏生活を強制され,すべてを犠牲にして戦争協力を強いられたのである。
[太平洋戦争への道]
 日中戦争の軍事的解決のめどがなくなり,戦争経済の困難も加わって,日本が内外ともに行き詰まっているとき,ヨーロッパに新しい情勢が展開した。1939年9月,第2次世界大戦がはじまったのである。…

【大東亜戦争】より

…東条英機内閣が決定した太平洋戦争の呼称。開戦2日後の1941年12月10日,大本営政府連絡会議は,この戦争を〈支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す〉との決定をおこない,12日内閣情報局は戦争目的が〈大東亜新秩序建設〉にあるとの説明を発表した。…

【アタカマ砂漠】より

…世界有数の銅山チュキカマタ鉱山もこの地域にある。アタカマ砂漠の北半分は,かつてボリビア領であったが,1883‐84年のボリビア・ペルーとチリとの戦争(太平洋戦争と呼ばれる)の結果,チリ領となった。この戦争も硝石の採掘に関する利害の対立によって生じたものであり,アタカマ砂漠の鉱産資源開発が盛んになったのも,1880年代からである。…

【チリ】より

…しかし88年の国民投票で軍事政権は不信任され,89年の大統領・国会議員選挙を経て,90年にチリは民政に復帰した。【吉田 秀穂】
【経済】
 チリでは中央集権的な寡頭政治による政治的安定が早くから確立しており,経済的にも,はじめは小麦の輸出,次いで銅,チリ硝石の輸出(1879‐83年の太平洋戦争における勝利により硝石地帯の領有確定)により,早くから繁栄がみられた。しかし1929年の世界恐慌はこのような一次産品輸出経済に強い打撃を与えた。…

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