サンタナ(読み)さんたな(英語表記)Carlos Santana

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サンタナ」の意味・わかりやすい解説

サンタナ(Carlos Santana)
さんたな
Carlos Santana
(1947― )

メキシコ生まれのアメリカのギタリスト。「泣きのギター」「ラテン・ロック」といったキャッチフレーズで呼ばれるが、ラテン、ジャズ、ロックにまたがる音楽性と軽いフットワークの活動で長くアメリカでトップ・ミュージシャンの位置を確保している。

 メキシコ南西部アウトラン・デ・ナバラに、マリアッチ・バンドのバイオリン奏者の息子として生まれる。本人も初めバイオリンを手にするが、8歳のときにギターに転向。1962年、家族とともにアメリカ、サンフランシスコに移住。

 1969年に自らの名を冠したグループ「サンタナ」のリーダーとしてアルバム『サンタナ』を発表する。このアルバムでの、アフロ・キューバン・リズム、ブルースからの影響、ロック・ギターのソロが渾然(こんぜん)となったサウンドで大きな注目を集め、同年ウッドストックのロック・フェスティバルにも出演し、一躍時代の寵児(ちょうじ)となる。彼のつくり出したサウンドは、ロックの側からみても斬新なアプローチであり、同時にアメリカ西海岸のヒッピー、フラワー・チルドレンの時代のドラッグ・カルチャーのなかでのサイケデリックなデスカルガ(ラテン・ジャム・セッション)でもあった。また音楽面、精神面でジャズのマイルス・デービスやジョン・コルトレーンからも強い影響を受けており、一聴して受けるポップなサウンドのイメージに比べて、その音楽性の内実は非常に複雑なものでもある。こうした混交ぶりは、同時代のブラジルのトロピカリズモ、ニューヨークのサルサなどとともに、新しいラテン・ミュージックの幕開けを告げるものだった。

 グループは1970年前後には「ブラック・マジックウーマン」「サンバ・パ・ティ」や、ティト・プエンテの曲のカバー「オジェ・コモ・バ」などのヒット曲を連発する(いずれも『アブラクサスAbraxas(1970)収録)。このころのメンバーには、アルマンド・ペラーサArmando Peraza(1924―2014、コンガ、パーカッション)、ウィリー・ボボWillie Bobo(1934―1983、ティンバレス、パーカッション)、マイケル・シュリーブMichael Shrieve(1949― 、ドラム、パーカッション)など有力なミュージシャンが集まっていた。1973年(昭和48)には来日公演を行い、その際のライブ盤『ロータス』も広く親しまれた。

 サンタナは1972年にギタリストのジョン・マクラフリンJohn Mclaughlin(1942― )とともにスピリチュアル色の濃いサウンドのデュオ・アルバム『ラブ・デボーション・サレンダーLove Devotion Surrenderを発売。その後、1980年代にはアリス・コルトレーンAlice Coltrane(1937―2007、ピアノ)、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコックらのジャズ・ミュージシャンとも共演、手堅い技術で、ポップ・スターとしてよりもギタリストとしての活動を地道に展開していく。

 1999年にはさまざまなジャンルの新旧世代のゲストを迎えたアルバム『スーパーナチュラルSupernaturalでグループは久々の大ヒットを記録する。この復活は単なるリバイバルやカムバックではない。背景には、アメリカ合衆国の急速なラテン化やロック・エン・エスパニョール(パンク、オルタナティブ以降のスペイン語のロック)の世代の台頭、グローバリゼーションやアメリカの「帝国」化に抗するマイノリティの連帯の模索といった状況のなかで、サンタナのもつ先駆的かつ象徴的な存在感が新しい時代の象徴として再認識されたのである。

[東 琢磨]

『東琢磨編『カリブ・ラテンアメリカ 音の地図』(2002・音楽之友社)』『Scott YanowAfro-Cuban Jazz; The Essential Listening Companion(2000, Miller Freeman Books, San Francisco)』『Ed MoralesLiving in Spanglish; The Search for Latino Identity in America(2002, St. Martin Press, New York)』


サンタナ(Johan Alexander Santana)
さんたな
Johan Alexander Santana
(1979― )

アメリカのプロ野球選手(左投左打)。大リーグ(メジャー・リーグ)ミネソタ・ツインズの先発投手としてプレー。威力のある速球とチェンジアップが武器の、球界ナンバー・ワンといわれる左腕投手である。

 3月13日、ベネズエラのメリダに生まれる。1995年、16歳のときにドラフト外でヒューストン・アストロズに入団。1996年はおもに救援投手としてドミニカ共和国のサマー・リーグで40回を投げ、対戦チームの打者を打率1割7分8厘に抑える。1997年はマイナー・リーグのA級に昇格するが、伸び悩みで未勝利。1998年もA級でおもに先発投手として投げ、10勝6敗。1999年は27試合登板で26試合に先発、8勝8敗に終わったが、160回3分の1を投げて三振150を奪う。同年シーズンオフにルール5ドラフト(メジャーリーグ40人枠の登録から外れた選手を対象としたドラフト)でフロリダ・マーリンズに移籍。その後、すぐに交換トレードでツインズに移籍する。2000年はキャンプでの成長が認められて開幕からメジャー入り。30試合のうち25試合にリリーフ登板、5試合に先発し、2勝3敗、防御率6.49にとどまる。2001年は肘(ひじ)の故障にみまわれて、わずか15試合だけの登板で、1勝0敗。2002年はAAA級で開幕を迎えたが、球威を取り戻して5月にツインズに昇格。先発と救援で8勝6敗、防御率2.99をマークし、地区優勝に貢献した。2003年は開幕から救援として起用されたが、後半戦から先発に転向すると、閉幕まで無傷の8連勝を記録、2年連続地区優勝の原動力となる。12勝3敗(勝率8割)はリーグトップの勝率で、フランク・バイオーラFrank Viola(1960― )がもつ球団記録の7割7分4厘を更新した。2004年は前半戦こそもたついたが、オールスター・ゲーム以降の後半戦は負けなしの13連勝でシーズンを終え、20勝6敗、防御率3.07で初のサイ・ヤング賞(最優秀投手賞のこと)を獲得するとともに、三振265で初めての奪三振王にも輝く。ツインズは3年連続地区優勝を遂げ、ディビジョン・シリーズでもニューヨーク・ヤンキース相手に2試合に登板、防御率0.75で1勝をマークしたが敗退。2005年は16勝7敗、防御率2.87を記録、三振238を奪い、2年連続で奪三振王となる。2006年も例年通りスタートはよくなかったものの、徐々に調子を上げて、最多勝タイ記録となる19勝をマーク。防御率2.77、奪三振245で投手三冠王に輝く活躍をみせて地区優勝に貢献した。シーズン後には2回目のサイ・ヤング賞に選出された。

[出村義和]

2007年以降

2007年は登板33試合すべてに先発、チーム最多の15勝をあげた。8月19日の対テキサス・レンジャース戦では17三振を奪い、1試合における奪三振の球団記録を更新。シーズン奪三振235はリーグ2位。一方では、チーム最多の33本のホームランを浴びるなどで防御率は3.33と前年を下回り、自己ワーストの13敗を喫した。2008年からはニューヨーク・メッツでプレー。

 2007年までの通算成績は、登板試合251、投球回1308と3分の2、93勝44敗、防御率3.22、奪三振1381、完投6、完封4。獲得したおもなタイトルは、最多勝利1回、最優秀防御率2回、最多奪三振3回、サイ・ヤング賞2回、ゴールドグラブ賞1回。

[編集部]

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