1960年代のアメリカで既存の道徳観や生活様式に反抗し,ひげや長髪をたくわえ,ジーンズや風変りな衣装を身につけ,ドラッグやサイケデリックなロック音楽,東洋的な瞑想を好み,定職につくことを拒否して放浪した人々を指す。このヒッピー風俗は,カウンターカルチャー(対抗文化)とともに,大なり小なり世界中に広まった。日本でも60年代の〈みゆき族〉や〈フーテン〉以来,その影響を見いだすことができる。語源的には1950年代に流行した〈ヒップスターhipster〉に由来し,当初は〈現代感覚に敏感な者〉〈本当のフィーリングをもった者〉といった意味であった。A.ギンズバーグが《吠える》(1956)の冒頭で〈天使の頭をしたヒップスターたち〉とうたい,またノーマン・メーラーが《ぼく自身のための広告》(1959)の中でヒップスターについて詳しく論じたときには,ヒップスターはすでにヒッピーに近い意味をもちはじめていた。メーラーによると,ヒップスターはビートニクbeatnik(ビート・ジェネレーション)と不可分の関係にあり,前者は下層階級からの,後者は中産階級からの〈はみ出し者〉を意味する。どちらも働くことを嫌い,ジャズやマリファナを好むが,前者が反逆的な行動や奔放なセックスへ向かうのに対して,後者は東洋的な〈悟り〉を好む傾向があるという。しかし,ヒップスターがボヘミアンつまり都市の遊牧民に通じ,ビートニクがその〈ビート〉つまり都市の黒人ゲットーの音楽としてのジャズと関係があり,実際に彼らがニューヨークのグリニチ・ビレッジやサンフランシスコのヘート・アシュベリーのような都市にたむろしたことを考えるとき,ヒップスターやビートニクはきわめて〈都市的〉な現象であったことがわかる。
それに対して,ヒッピーはコミューンの形式や,前近代的な共同体を残す国々への世界放浪を通じて〈非都市的〉なものを目ざしたといってよい。50年代にヒップスターを自任したA.ギンズバーグは,58-62年にヨーロッパ,南アメリカ,アジアを放浪し,インドではヒンドゥー教の修行を受け,帰国後には〈ヒッピーの聖者〉として若者たちに崇拝されたが,彼はまさに,ヒップスター→ビートニク→ヒッピーという一つの流れを,みずから体現したわけである。おりしもアメリカでは,黒人の人種差別反対運動(黒人問題)が高まり,各地でデモ隊と警官隊との衝突,暴動,軍隊の出動といった事態が繰り返され,国際的にもアメリカは南ベトナムへの政治的介入やキューバの海上封鎖など,危機と混迷のまっただなかにあり,この危機と混迷はベトナム戦争の開始とともにいっそう深まっていった。そのため,ヒッピーはしだいに〈反戦と非暴力と愛〉を求める反体制の象徴となり,63年ごろからヒッピーの活動は運動の様相を呈していった。文化的にはジェファソン・エアプレーンのようなロック・バンドやロック・ミュージカル《ヘア》(1967初演)などを代表とする〈ヒッピー・カルチャー〉を生み,政治的にもニューレフト(新左翼)運動と結びついて,ジェリー・ルービンJerry Rubinやアビー・ホフマンAbbie Hoffmanをスポークスマンとするイッピーyippieの社会変革的な運動へと発展した。
→対抗文化 →ロック
執筆者:粉川 哲夫
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1960年代、アメリカ合衆国では、青年層を中心にして既成の社会体制と価値観からの離脱を目ざす対抗文化countercultureの運動が生じた。この運動とそれを担った人々をヒッピーという。アメリカと同様に高度な産業化を実現したイギリス、フランス、日本などにも波及した。ことばの由来に定説はないが、音楽とくにジャズやブルースに熱狂して忘我状態に陥ることを黒人の俗語でhip, hepといい、ここから派生した。
産業社会の豊かさは、主要な支持層である中産階級に、合理的で物質主義的な生活様式と生き方をもたらした。ヒッピーは彼らをスクウェア(堅物)とよび、主流文化からのドロップアウトを図った。なによりも自由と愛という人間的な価値を尊重するヒッピーは、自分自身のために生きるため、原始的共同生活を営んだ。男たちは、ひげを伸ばし、長髪を好み、ジーンズをはいた。女たちも、長い髪にミニスカートをはき、ペンダントをかけたり、サンダルを履いた。ボヘミアン的ライフスタイルと平和主義を象徴するものとして、彼らは好んでハトや花のシンボルを使用した。他方ではまた、テクノクラシーの基盤をなしている客観的知識=科学と理性に疑いを表明した。彼らは理性の尊重よりも感性の解放を求め、音楽、ドラッグ(LSD、マリファナ)、東洋の神秘主義思想(禅や道教)などによる意識の拡大化と変革を志向した。詩人のA・ギンズバーグは、これらの優れた実践者、導師として彼らの尊敬を集めた。
ヒッピー運動は、イデオロギーに基づく社会変革よりも、個人の意識変革を目ざす文化運動であった。1960年代後半には、人種問題、ベトナム反戦などの社会運動と呼応して盛り上がりをみせたが、70年代に入ると急速に終息した。しかし、彼らの思想や風俗は、その後、主流文化に浸透するとともに、エコロジー運動、反核運動、ニューサイエンスなどに受け継がれている。
[亀山佳明]
『T・ローザック著、稲見芳勝他訳『対抗文化の思想』(1971・ダイヤモンド社)』
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…物質的な豊かさや快適さを拒む者は家庭や大学を離れ,心の豊かさ,〈愛と平和love and peace〉を求めて,街頭,田園,外国に移り住んだ。こうした若者たちは〈ヒッピーhippie〉とよばれた。以上の動きと連動して,伝統的な性道徳も弱まり,〈性革命〉ともいわれる性行動の自由化が急速に進んだ。…
… このヨーロッパ第4の観光都市には年間約200万人の外国人旅行者が訪れる。ことに,1960年代にダム広場とフォンデル公園に多くのヒッピーが住みつき,ポルノや麻薬が解禁されている同市は,内外の若い人びとの観光のメッカとなった。これに対し市当局は簡易宿泊所を設け,彼らに大麻の吸える巨大なディスコを提供した。…
…物質的な豊かさや快適さを拒む者は家庭や大学を離れ,心の豊かさ,〈愛と平和love and peace〉を求めて,街頭,田園,外国に移り住んだ。こうした若者たちは〈ヒッピーhippie〉とよばれた。以上の動きと連動して,伝統的な性道徳も弱まり,〈性革命〉ともいわれる性行動の自由化が急速に進んだ。…
…〈すべてを権威的把握におしこめてしまう言語からの解放の第一歩は,どこかへ行けば言語の外になってしまうような場所があるという実感をもつこと〉(D.ラミス)だったから,マリファナやLSDなどのドラッグによる〈トリップ〉,ロック・ミュージック,サイキデリック・アート,非正統的な諸宗教が空前の流行をよんだ。それらに媒介されて〈拡張された〉意識によって,テクノクラシーのもとで支配的な権威を与えられている〈客観的〉意識から解放された〈著しく個人至上主義的な共同体感覚〉に基盤を置くニューレフト(新左翼),ヒッピー,コミューン生活者によって対抗文化は担われた。 〈対抗文化〉という概念を社会的に確立したローザクTheodore Roszakの《対抗文化の形成》(1968)によれば,その核心にあるのは近代合理主義のもたらした科学的世界観を相対化する,シャーマニズム的な世界観の導入だった。…
…この運動の端緒の一つに,解放された個性の自然発生的な発動に力点をおこうとする文学・芸術上の新運動があったが,アレン・ギンズバーグの詩《吠える》(1956),ジャック・ケラワックの小説《路上》(1957)などは,ビート運動の高らかな宣言であったともいえるし,ノーマン・メーラーの評論《白い黒人》(1957)などはその強力な擁護論であった。この運動に参加した人たちは,具体的には,それぞれの行動様式にニュアンスをもたせて,ヒッピー,ヒップスター,〈聖なる野蛮人〉などと呼ばれることもある。この運動の一つの特色として,西欧的な合理主義に背を向けて東洋的なもの,ことに禅Zenと呼ばれるものへの著しい傾斜がある。…
※「ヒッピー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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