日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハンコック」の意味・わかりやすい解説
ハンコック
はんこっく
Herbie Hancock
(1940― )
アメリカのジャズ・ピアノ奏者。本名ハーバート・ジェフリー・ハンコックHerbert Jeffrey Hancock。シカゴの音楽好きの家庭に生まれ、7歳からピアノを習いはじめる。11歳でシカゴ・シンフォニー・オーケストラと共演し、モーツァルトのピアノ協奏曲を演奏するなど、少年期はクラシック音楽に親しむ。中学に入るころからリズム・アンド・ブルースに興味を覚え、ジャズに出会ったのはハイ・スクール時代、ラジオ番組を通じてだった。アイオワ州のグリネル・カレッジ電子工学科に進学するが、途中で芸術専攻に転科し、ギル・エバンズ、オリバー・ネルソンOliver Nelson (1932―1975、テナー・サックス)らのジャズ作・編曲技術に関心を示す。
1960年卒業と同時にシカゴに戻り、当地のジャズ・クラブ「バードハウス」で、テナー・サックス奏者コールマン・ホーキンズのサイドマンを2週間務める。また、トランペット奏者ドナルド・バードDonald Byrd(1932―2013)とバリトン・サックス奏者ペッパー・アダムズPepper Adams (1930―1986)の双頭クインテットとも共演する。これが縁で翌1961年、ニューヨークに赴(おもむ)き同クインテットの正式メンバーとなり、初レコーディング『アウト・オブ・ジス・ワールド』を経験する。1962年ブルーノート・レーベルに初リーダー作『テイキン・オフ』を録音、収録曲「ウォーターメロン・マン」を、パーカッション奏者モンゴ・サンタマリアMongo Santamaria (1922―2003)が取りあげ1963年に大ヒットし、ハンコックの作曲家としての名が知られるようになる。
1963年トランペット奏者マイルス・デービスのバンドに加わり、1968年までサイドマンとしてアルバム『フォー&モア』『マイルス・イン・ベルリン』(ともに1964)、『E. S. P.』(1965)などに名を連ねる。またこの間多数のリーダー作品も残し、1965年の『処女航海』は、1960年代若手ミュージシャンによって形成された「新主流派」の代表作として有名。1970年代にはエレクトリック・ピアノ、シンセサイザーを採用し、1973年、ファンク色の強いアルバム『ヘッドハンターズ』の大ヒットで一躍ジャズ・シーンの注目を集める。
1976年、トランペット奏者フレディ・ハバード、テナー・サックス奏者ウェイン・ショーター、ベース奏者ロン・カーターRon Carter(1937― )、ドラム奏者トニー・ウィリアムズTony Williams(1945―1997)と、スペシャル・バンド「V. S. O. P.」を結成。これは本来、休養中のマイルスをシーンによび戻すための企画が流れたため、ハバードをマイルスの代役とした一度だけの試みのはずが好評のため、1970年代後半はこのバンドで世界中をツアーして回ることになる。1983年、ベース奏者ビル・ラズウェルのアイディアを採用したヒップ・ホップ・アルバム『フューチャー・ショック』が大ヒットし、この路線を踏襲したハンコック率いる「ロック・イット・バンド」でツアーを行う。1985年、ベルトラン・タベルニエ監督のジャズ映画『ラウンド・ミッドナイト』に出演、音楽監督も務める。1990年代以降もジャズ・シーンの主導的地位を占め、多くのジャズ・フェスティバルで最大級の扱いを受けるジャズ・ミュージシャンとなる。そのほかの代表作に『スピーク・ライク・ア・チャイルド』(1968)、『ニューポートの追想』(1976)、『ダイレクトステップ』(1978)などがある。
彼のピアノ奏法は、ビル・エバンズ以降のピアノ奏者に絶大な影響を与えると同時に、ジャズ、ポップ・シーンにまたがる音楽状況にもキー・パーソンとしての足跡を残している。それは彼が作・編曲の能力を備えるとともに、クラシック音楽の教養、そしてストリート・ミュージックをも包括する、スケールの大きな音楽的バック・グラウンドをもっていたことと無関係ではない。
[後藤雅洋]