改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ騎士修道会」の意味・わかりやすい解説
ドイツ騎士修道会 (ドイツきししゅうどうかい)
Deutscher Ritterorden
十字軍時代に成立した騎士修道会の一つ。ドイツ騎士団とも呼ばれる。武装した騎士と修道士という本来矛盾する二つの性格を併せもった騎士修道会の出現は,ヨーロッパ中世後期の社会の混迷の一つの表現でもあった。教会改革運動と叙任権闘争のなかで明らかとなった皇帝と教皇の対立は,聖界と俗界の対立として,11~12世紀の西欧社会に特異な性格を与えていた。おりから起こった十字軍運動は,両界の対立に一つの妥協点を提供する意味をもっていたから,まさに十字軍の遠征途上でドイツ騎士修道会の前身が成立したのは偶然ではない。
1189年にリューベックとブレーメンの市民が,アッカー(アッコ)の近くで十字軍兵士のために天幕作りの病院を創設した。この病院はのちにヨハネ騎士団やテンプル騎士団にならって,騎士修道会としての会則をつくり,99年には教皇の承認を得た。皇帝やエルサレム王の厚遇を得て,オリエントや西欧各地,とくにドイツに所領の寄進をうけ,ドイツ騎士修道会の規模は大きくなっていった。やがて聖地における軍事行動の可能性が消えたとき,第4代の騎士修道会総長ヘルマン・フォン・ザルツァはおりからハンガリー王アンドラーシ2世から招聘をうけ,トランシルバニアのクロンシュタット(現,ブラショブ)近くにクマン族と戦うべく入植した。しかしドイツ騎士修道会はこの地で独自の国家形成の姿勢をみせたために国王と対立し,撤退を余儀なくされた。ちょうどこのころ,ポーランドのピアスト朝のマソビエン公コンラートからもドイツとポーランドの国境ビスワ川西岸のクルムの地において原住プロイセン人と戦うための招聘をうけていた。総長ヘルマン・フォン・ザルツァは,ハンガリーの経験からこの地に進出するに当たってあらかじめ皇帝フリードリヒ2世から特許状(リーミニの黄金印勅書,1226)を受け,クルムの地を皇帝の高権のもとにおくという保障を得ていた。
1230年にはラントマイスター,ヘルマン・バルクの下でドイツ騎士修道会はプロイセンに進出し,軍事行動とキリスト教への改宗を遂行した。ほぼ同時に進行しつつあった東方植民運動に合流しつつ54-55年にはザムラントまで進出し,ケーニヒスベルク城がつくられた。この城は遠征に参加したボヘミア王オタカル2世にちなんで名づけられたものである。83年までにはメーメル川までの全領域がほぼ掌握されたが,これらの遠征や軍事行動には,西欧各地から高位・下位の騎士たちも参加していた。
13世紀末に確立した東・西プロイセンにおけるドイツ騎士修道会の支配は,当時の西欧社会のなかでは特異なものであった。頂点に立っていたのが純潔,服従,清貧(無所有)の誓いをたてた修道士の集団であり,そのなかから選挙によって総長が選出された。したがってこの地に成立した領域支配(ランデスヘルシャフト)は,複数のメンバーからなる一つの団体を支配者とするものであり,各地に地域行政官として派遣されたコムトゥールも騎士修道会士であった。修道士として,俗人とは異質な生活様式をもっていたから,一見したところきわめて合理的で官僚的な支配組織が形成された。その組織の形成に当たってはシチリアのノルマン国家の行政組織が範となっていた。現実に騎士修道会士となったのは,諸身分が閉鎖化してゆくなかで相続の機会を失った下級貴族の次・三男以下の人々であり,彼らは騎士修道会に入会することによって,特異な形で社会的上昇の可能性を見いだしたのであった。騎士修道会士の出自をみると南フランケンが25%,ラインフランケンとヘッセンが13%,南シュワーベンとバイエルンが12%,チューリンゲンとマイセンが13%で,残りは他の各地から集まっていた。
騎士修道会はドイツ本国その他にも寄進によって広大な所領をもち,それらはバライエン(いくつかの地域行政管区コムトゥライを包括する行政単位)として,(1)ベーメン・メーレン(ボヘミア・モラビア),(2)オーストリア,(3)ボーツェン(ボルツァーノ),(4)コブレンツ,(5)エルザス・ブルグント,(6)ドイツマイスター支配下のバライエンその他に分かれていた。その他にもシチリア,アルメニア,キプロス,シリアなどにも所領があった。プロイセンにおける支配は,総長ウィンリッヒ・フォン・クニプローデWinrich von Kniprode(在位1351-82)の時代に最盛期を迎えたが,本来異教徒との戦いを使命とするドイツ騎士修道会は,リトアニアのキリスト教への改宗(1386)によってその存在意義を失い,プロイセン内部にも貴族層がシュテンデ(等族)として台頭し,騎士修道会の支配を脅かしはじめていた。1409年にはじまるポーランド・リトアニア連合軍との戦いにおいて,ドイツ騎士修道会は大敗を喫した(タンネンベルクの戦,1410)。国土の疲弊やハンザ貿易の衰退のみならず,ドイツ騎士修道会は皇帝や本国からも実質的な援助が得られないまま,ポーランドとの13年戦争ののち66年の第2トルンの和議でポンメルエレンとエルムラントを失い,ドイツ騎士修道会の支配は弱体化していった。最後の総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクAlbrecht von Brandenburg-Ansbachは1525年にルター派に改宗し,プロイセンを世俗公国とし,みずからプロイセン公として,ポーランド王から封を受けた。このときにプロイセンのドイツ騎士修道会は解体した。ドイツ本国のドイツ騎士修道会所領は,それ以後もウィーンを中心として残存し現在にいたっている。
執筆者:阿部 謹也
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