アメリカのロック歌手。1960年代のサンフランシスコのロック・シーンにおける中心的人物で、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーの歌手、次いでソロ歌手として活躍した。同世代で最高の白人ブルース歌手であり、内面のすべてを絞り出すような劇的な歌唱で聴衆を圧倒した。
ジョプリンはテキサス州ポート・アーサーの生まれ。レッドベリーLeadbelly(1885ごろ―1949)やベッシー・スミスのレコードに耳を傾け、ブルースに心を奪われる。1961年にオースティンのテキサス大学に進学。オースティンやヒューストンのコーヒー・ハウスやクラブで歌いはじめ、大学は中退する。63年にサンフランシスコに移り、ノース・ビーチ地区のカフェに定期的に出演するようになるが、アンフェタミン中毒になり、65年にいったん帰郷した。
66年に再びサンフランシスコに向かい、ちょうど女性歌手を探していたビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーに加わる。彼らはブルースを基盤にしながら、即興演奏を重視したサイケデリック・ロックを志向するバンドだった。同年に地元の小さなレーベルからデビュー・アルバムを発表するが、広く注目を集めたのは翌67年のモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演によってである。フェスティバルの記録映画にその模様が収められているように、ビッグ・ママ・ソーントンBig Mama Thornton(1926―84)の持ち歌「ボール・アンド・チェイン」を歌い、圧倒的な歌唱でジョプリンは一躍有名になった。
客席にいたコロンビア・レコードの社長クライブ・デービスClive Davis(1934― )は「モンタレーとは、すなわちジャニス・ジョプリンだったといっていいだろう」と後に語ったように彼女のパフォーマンスに感激し、すぐに楽屋に飛んでいって契約を結ぶ。モンタレーでの評判が後押しして、翌68年に発表したアルバム『チープ・スリル』は全米アルバム・チャートの第1位に輝く大ヒット作となった。シングル・ヒットした「心のカケラ」に加え、ガーシュインの「サマータイム」の独創的な解釈も評判をとった。ただし、ジョプリンの歌唱力に比べ、ビッグ・ブラザーの演奏の稚拙さは明白で、そのアルバム発表後にジョプリンがバンドを脱退して、ソロ歌手に転じたのは必然だった。
ジョプリンは自身のバンド、コズミック・ブルース・バンドを結成して、69年にソロ・アルバム『コズミック・ブルースを歌う』を発表したが、彼女はこのバンドにも満足できず、私生活では酒やドラッグへの依存が悪化していく。70年により理想に近いメンバーを集めたフル・ティルト・ブギー・バンドを結成。彼らの伴奏で『パール』を録音するが、完成直前の70年ハリウッドのホテル滞在中にヘロインの過剰摂取で急死した。遺作となった『パール』が発売されると、アルバムとシングル・カットされたクリス・クリストファーソンKris Kristofferson(1936― )作曲の「ミー・アンド・ボビー・マギー」がともに全米ヒット・チャート第1位に輝いた。
ジョプリンの死後、彼女を惜しむ声に応えるように、72年にライブ・アルバム『イン・コンサート』が発売され、74年にはドキュメンタリー映画『ジャニス』(ハワード・オークHoward Alk監督)が公開された。活躍した期間は短かったが、ジョプリンは女性ロック歌手の一つの型をつくり、短くも激しく駆け抜けた生涯は神話となり、ベット・ミドラーBette Midler(1945― )主演の79年の映画『ローズ』(マーク・ライデルMark Rydell(1934― )監督)にインスピレーションを与えた。
[五十嵐正]
『エリス・アンバーン著、上原英見訳『ジャニス・ジョプリン――禁断のパール』(1993・大栄出版)』
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