イギリスの映画監督。イングランド北東部サウス・シールズ生まれ。3人兄弟の次男で、弟のトニーTony Scott(1944―2012)も著名な映画監督である。家は祖父の代から海上運輸業を営んでいたが、第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)で父親が軍関連の仕事についたため、家族で転居を繰り返した。漫画と映画のファンで、絵を描くことが好きな少年だったスコットは、1958年、ダーラム県にあるウェスト・ハートルプール美術大学を卒業してグラフィック・デザインの教員免状を取得。さらにロンドン王立美術大学(RCA)に進学、グラフィック・デザインと舞台デザインを専攻した。この時期に映画熱も高まり、1961年、RCA内で偶然手にしたカメラで処女作となる16ミリの短編『自転車に乗った少年たち』Boys on a Bicycleを弟のトニー主演で製作。翌1962年にセット・デザイナーとしてBBCへ入社すると、ドラマからコメディ番組までさまざまな番組でスタッフとして働き、1963年には監督コースに移るものの、テレビ・ディレクターの仕事に限界を感じて退社。CM業界に転身するとまたたく間にその手腕を認められ、1965年にCM制作会社リドリー・スコット・アソシエーツ(RSA)を弟らとともに設立、後に映画監督となってからも、映画の仕事の合間にCM製作を行う基盤を築きあげる。
このころから、映画監督となる機会をうかがう時期がしばらく続いたが、版権獲得が自由な古典文学に題材を探すなか、ナポレオン支配下のフランスを舞台とするジョゼフ・コンラッドの短編に目をつけ、『デュエリスト 決闘者』(1977)として映画化、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞と新人監督賞に輝いた。同年『スター・ウォーズ』の世界的な大ヒットの影響もあって、SF嫌いだった彼のもとにハリウッドからSF大作を監督してほしいとの依頼が舞い込む。スコットは、フランスのコミック雑誌『ヘビー・メタル』Heavy Metalの雰囲気を再現する一方で、物語の鍵(かぎ)を握る怪物や宇宙船のデザインをスイスのアーティストH・R・ギーガーH. R. Giger(1940―2014)に依頼、さらに最終的に怪物と対決する主人公を女性に設定するなど、それまでのSF映画にない要素をビジュアル面やストーリー面に導入。こうして、1979年に公開された『エイリアン』は、他の監督によって次々と続編が撮られるヒット・シリーズとなったばかりか、その後のSF映画に多大な影響を及ぼす画期的な作品として興行的にも成功を収めた。
思いがけずSF映画の新たな旗手として脚光を浴びることになった彼の次回作は、SF文学の鬼才P・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』Do Android Dream of Electric Sheep?(1968)の映画化『ブレードランナー』(1982)である。物語としては古典的な犯罪映画のスタイルを踏襲するこの作品でスコットは、『メトロポリス』(1927)などの過去のSF映画の古典に敬意を表しつつ、2019年のロサンゼルスを創造すべく巨大かつ精巧なセットを建設、コンセプチュアル・デザイナー、シド・ミードSyd Mead(1933―2019)にデザインを依頼するなど、近未来世界の造形にエネルギーを注ぎ込む。その結果、スクリーン上に出現した近未来の大都会は、アジア的な装飾やネオン、群集に彩(いろど)られ、つねに酸性雨の降り注ぐ終末感漂う独創的なものとなった。しかし、興行的には惨敗、撮影現場での監督と俳優やスタッフ間の不協和音もいくつか伝えられた。そこで監督スコットに与えられたのは、俳優の演技以上に舞台装置やカメラ・アングルに情熱を傾ける「映像派」の監督としてのレッテルである。実際、俳優とセットや美術が対等に重要であると考えるスコットは、良くも悪くもセット・デザイナーとして出発したその経歴に忠実な映画監督だった。ただし、『ブレードランナー』とそこにつくられた近未来都市は、映画界のみならず建築や哲学などの異なる領域にも多くの信奉者を生み出し、当時流行のポスト・モダニズムを象徴するものと評価されたばかりか、ビデオがリリースされるとマニアックなファンを増殖させ、時代を画するカルト的作品としての地位を不動のものとする。なお、数年後におもに大阪で撮影された『ブラック・レイン』(1989)でも、規模は縮小されたが、似た雰囲気の都市が再現されていた。
続く『テルマ&ルイーズ』(1991)は、レイプ犯をはずみで殺害してしまった2人の女性が、大型車サンダーバード・コンバーチブルで逃走する過程でスーパー強盗などを行い、警察に追いつめられる、といった物語がアメリカ中西部の荒涼とした景観を背景に展開されるもの。それまでのスコット作品からかけ離れた内容だったが、予想をはるかに越えるヒットを記録した。当初はむしろ女性蔑視(べっし)と批判されることが危惧(きぐ)された物語だったにもかかわらず、完成した作品を見て観客はこれまでにないタイプのヒロイン像に喝采(かっさい)、日常的に女性が男性社会から受ける抑圧を巧みに描き出す作品として評価された。1992年のアカデミー賞でオリジナル脚本賞を受賞。スコットの演出家としての力量を評価する声も本作の成功をきっかけに高まる。
その後、「新大陸」到達500年を記念して製作された大作『1492 コロンブス』(1992)、女性差別の激しい海軍でエリート偵察部隊への訓練テストに挑戦する女性を主人公に『エイリアン』や『テルマ&ルイーズ』の再現をねらった『G.I.ジェーン』(1997)などを発表するが、いずれも期待外れの内容および興行成績に終わった。続くローマ帝国時代の剣闘士(グラディエーター)を主人公とする作品『グラディエーター』(2000)は、いつもどおりの卓越したデザイン感覚で再現された古代ローマの造形の見事さも手伝って彼にとって最大のヒット作となり、その年のアカデミー賞作品賞を含む六つの賞を制覇。名実ともにハリウッドの一流監督の仲間入りを果たした。
[北小路隆志]
デュエリスト 決闘者 The Duellists(1977)
エイリアン Alien(1979)
ブレードランナー Blade Runner(1982)
レジェンド 光と闇の伝説 Legend(1985)
誰かに見られてる Someone to Watch Over Me(1987)
ブラック・レイン Black Rain(1989)
テルマ&ルイーズ Thelma & Louise(1991)
1492 コロンブス 1492 : Conquest of Paradise(1992)
白い嵐 White Squall(1996)
G.I.ジェーン G.I. Jane(1997)
グラディエーター Gladiator(2000)
ハンニバル Hannibal(2000)
ブラックホーク・ダウン Black Hawk Down(2001)
マッチスティック・メン Matchstick Men(2003)
キングダム・オブ・ヘブン Kingdom of Heave(2005)
それでも生きる子供たちへ~「ジョナサン」 All the Invisible Children - Jonathan(2005)
プロヴァンスの贈りもの A Good Year(2006)
アメリカン・ギャングスター American Gangster(2007)
ブレードランナー ファイナル・カット Blade Runner : The Final Cut(2007)
ワールド・オブ・ライズ Body of Lies(2008)
ロビン・フッド Robin Hood(2010)
プロメテウス Prometheus(2012)
『ポール・M・サイモン著、尾之上浩司訳『リドリー・スコットの世界』(2001・扶桑社)』▽『風間賢二編『フィルム・メーカーズ16 リドリー・スコット』(2001・キネマ旬報社)』
イギリスの詩人、小説家。8月15日、スコットランドのエジンバラで裕福な弁護士の子に生まれたが、幼時から病弱、1歳半のころ熱病にかかり、それが小児麻痺(まひ)を併発して、生涯右脚の自由を欠いた。早くからラテン語を学び、文学書に親しみ、12歳の若さでエジンバラ大学の古典学科に入学したが、2年目に病気中退。のち父の法律事務所で勉強して、21歳で弁護士となる。25歳のときの処女出版はドイツ語の翻訳。ナポレオン戦争に際しフランスの侵入に備えた騎兵義勇隊の幹部になったり、セルカーク州知事代理を務めたりの一方、スコットランドの民謡を収集して『スコットランド辺境歌謡集』3巻(1802~03)を編みもした。創作詩として最初のめぼしい作は『最後の吟遊詩人の歌』(1805)で、これで詩壇にも認められ、ロマン派復興の一翼を担うに至った。以後1813年ごろまでは彼の詩作時代で、13年桂冠(けいかん)詩人に任命されかけたが、友人のサウジーに譲った。物語詩『マーミオン』(1808)、同『湖上の美人』(1810)などが彼の詩作の代表作品である。
スコットが詩を捨てて小説を書き出した一つの理由は、そのころ一躍有名になったバイロンに敵しかねると自覚したことであった。小説としての第1作『ウェーバリー』は1814年匿名で出版、1745年の旧スチュアート王家復辟(ふくへき)を図った反乱の史実を背景にした歴史小説で、世の好評を得た。これに自信を得た作者は、以後死ぬまでに合計27編の長編小説を書き、それらは第1作の題をとって「ウェーバリー小説群」の総称でよばれている。全部が歴史小説といってよく、多くはスコットランドに材を求めているが、代表作とされる『ラマムアの花嫁』(1819。オペラ『ルチア』の原作)、『アイバンホー』(1819)、『ケニルワースの城』(1821)は純然たるイングランドの歴史に材をとった。この最後の作ではエリザベス1世と女王を取り巻く人々が活躍する。ほかに中世の十字軍に材をとった『護符』(1825)も異色作である。詩、小説を通じて、古い時代の武勇と恋愛の物語を中心とし、史実にはかならずしも拘泥せず、とくに小説では時代物的場面と世話物的場面とを巧みに織り交ぜて、複雑な変化に富んだ筋を展開するのが彼の独特な作風であり、それがまた彼の魅力でもあって、フランスなどでも広く愛読された。1832年9月21日没。
[朱牟田夏雄]
『朱牟田夏雄訳『世界文学全集6 ケニルワースの城』(1970・集英社)』▽『大和資雄著『スコット』(1955・研究社出版)』
イタリアのソプラノ歌手。サボーナ生まれ。1952年生地で18歳ながら『椿姫(つばきひめ)』の主役を務めてデビュー。翌年ミラノに登場、同年スカラ座と契約した。1957年にエジンバラ音楽祭で、マリア・カラスの代役としてベッリーニの『夢遊病の女』のアミーナを歌い、高く評価された。以来、ドニゼッティ、プッチーニ、ベルディ、グノーなどのオペラの主役を世界の主要歌劇場で歌っている。コロラトゥーラ・ソプラノとして出発しながら、リリックやドラマチックなソプラノの役を、よどみのないベルカント唱法と結び付けて歌い、レパートリーも広かった。
1967年(昭和42)NHKが招いたイタリア歌劇団に参加して初来日、ドニゼッティの『ランメルムーアのルチア』の主役で絶賛を博した。
[美山良夫]
『ピエール・マリア・パオレッティ著、南条年章訳『スカラ座の人』(1988・音楽之友社)』▽『ヘレナ・マテオプーロス著、岡田好恵訳『ブラヴォー/ディーヴァ――オペラ歌手20人が語るその芸術と人生』(2000・アルファベータ)』▽『Renata Scotto, Octavio Roca:Scotto;More Than A Diva(1984, Doubleday)』
イギリスの南極探検家。1882年海軍に入り、1901~04年、王立地理学会などの協賛によりディスカバリー号を指揮して南極を探検、エドワード7世ランドを発見した。功により帰国後海軍大佐に任ぜられた。10年テラ・ノバ号による第二次南極探検に赴き、11年ロス海から上陸、同年11月4人の隊員とともに南極点目ざして出発した。言語に絶する辛苦のすえ、12年1月18日ついに南極点に到達したが、すでに約4週間前ノルウェー人アムンゼンが到達した跡が残されていた。先陣争いに敗れ、失意の一行は、帰途悪天候と食糧不足に悩まされ、3月末全員凍死した。同年末、捜索隊により彼らの遺体やスコットの日記が発見された。
[松村 赳]
『チェリー・ガラード著、加納一郎訳『世界最悪の旅』(『世界ノンフィクション全集1』所収・1960・筑摩書房)』
イギリスの新聞人。サマーセットシャーに生まれ、オックスフォード大学を卒業。記者修業ののち、1872年、いとこの所有する『マンチェスター・ガーディアン』(1821年創刊、1855年から日刊、1959年からガーディアンと改称)の編集長となり、1905年その所有者となった。彼は「注釈は自由だが、事実は神聖である」というモットーを掲げて紙面内容の向上に努め、左派自由党系の独自の論調を展開して、純地方紙でありながら全国から注目される新聞にまで育て上げた。1895~1905年自由党下院議員として活動したが、1929年には経営者の地位を子に譲って引退した。
[伊藤慎一]
イギリスの建築家。バッキンガムシャーのゴーコット生まれ。ビクトリア朝の代表的なゴシック・リバイバリストで、1844年、ハンブルクのザンクト・ニコラス教会の設計競技に14世紀のドイツ・ゴシックのデザインによって当選し、国際的な名声を獲得した。イリイ大聖堂やウェストミンスター寺院をはじめとする多数の大聖堂、教区寺院の修復も手がけた。宗教建築以外の作例に、ロンドンのセント・パンクラス駅およびホテル(1865設計)やアルバート・メモリアル(1863~72)などがあげられる。著書に『個人的、専門的回想録』(1879)がある。
[谷田博行]
カナダの詩人。長く政府のインディアン行政に携わった。初期イギリス系カナダを代表する詩人で、洗練された西欧的教養と荒々しいカナダの原始との対立相克が、その作品に美しく結晶している。とくに詩集『新世界叙情詩とバラッド』(1905)のなかの「捨てられた人」は、インディアンの棄老習俗に基づく沈鬱(ちんうつ)にして鮮烈な詩編で、わが国の『楢山節考(ならやまぶしこう)』とも呼応する。ほかに『労働と天使』(1898)など10冊に近い詩集や二つの短編小説集などがある。
[平野敬一]
イギリスの小説家,詩人。スコットランドのエジンバラに名門の弁護士の子として生まれ,幼時小児麻痺のため片足が不自由になったが,かえって古い伝説や物語にロマンティックな空想をはせる性癖を養った。エジンバラ大学卒業後弁護士となり,かたわら古民謡の採集に熱中,《スコットランド国境地方古謡集》3巻(1802-03)を出版し,古歌謡の形を模した《最後の吟遊詩人の歌》(1805)で詩人としての名声を確立した。《マーミオン》(1808),《湖上の美人》(1810)などスコットランドの過去に取材したロマンティックな物語詩で文名はますます上がった。しかし,新進詩人バイロンの名声が高まるにつれ,詩才の限度をさとって小説に転じ,《ウェーバリー》(1814)をはじめとする歴史小説で,実際の歴史的事件を背景に,ロマンティックな冒険と民衆の多彩な生活を巧みに融合し,全ヨーロッパにわたって名声を博した。スコットの二十数編の小説は〈《ウェーバリー》の著者〉という匿名で出版されたため,一括して〈ウェーバリー小説〉と呼ばれる。初期のものは最高傑作《ミドロージアンの心臓》(1818)のほか《ガイ・マナリング》(1815),《好古家》(1816),《ラマームーアの花嫁》(1819)など,すべてスコットランドの近い過去を題材とし,貴族から浮浪者までの社会各層の人物を活写する民族的記憶の文学といえる。スコットは続いて《アイバンホー》(1820)で中世のイングランドを舞台とし,その後15世紀フランス,エリザベス女王の宮廷などを描いたが,これらは歴史を写実的にとらえるよりも,むしろロマンティックな冒険物語の色彩が強い。作家生活のほかにも多くの官職につき,〈サー〉の称号を授けられ,アボッツフォードに中世趣味の館を建てたりした。晩年には破産事件に巻きこまれ,借財返却のため濫作も強いられている。彼の影響はプーシキンやバルザックらに著しく,ヨーロッパにおけるリアリズム小説の勃興に大きな役割を果たした。日本でも明治初めから《ラマームーアの花嫁》《湖上の美人》など盛んに訳されている。
執筆者:海老根 宏
明治初年に英語教師として来日し,日本最初の師範学校で欧米式の公教育教授を初めて指導したアメリカ人教師。日本近代教育方法史上の開拓者とされる。バージニア州に生まれ,南北戦争中にバージニア大学を卒業,のちカリフォルニア州に移り同州の教育行政事務やグラマー・スクールの校長となる。アメリカ駐在少弁務使の森有礼の推挙により,1871年(明治4)9月大学南校(東京大学の一源流)の英語教師として来日した。翌72年〈学制〉により全国に学校制度を施行するのに先立って,小学校教員養成のモデル校として創設された師範学校(東京,東京高等師範学校の源流)へただ一人の教師として招かれた。以後74年8月まで,スコットは東京師範学校においてアメリカ公教育をモデルとした新教授法を教授したが,その指導により日本に初めて欧米式の一斉教授法やペスタロッチ主義の直観教授法などが紹介,移入された。75年からは東京英語学校,東京大学予備門などの語学教師を歴任したが,78年1月解任され,81年に帰国。ハワイでハイ・スクールの校長や視学官に在職する一方,ハワイ移住日本人への親善活動も行った。
執筆者:佐藤 秀夫
イギリスの南極探検家。イングランドのデボンポートに酒造家の長男として生まれた。父の強制で海軍士官となったが,国家的計画の南極探検隊長に選ばれ,1901-04年ディスカバリー号でロス海に入り,科学調査を続けた。02年E.H.シャックルトンらと犬ぞりで南極点を目ざし,12月30日南緯82°17′に達したが,壊血病と凍傷を負い帰船した。帰国して大佐に昇進,英雄視された。重症のため中途送還されたシャックルトンが09年極点に迫る探検を果たすと,スコットは退官して極点初征服を掲げて資金を集め,10年機帆船テラ・ノバ号で再びロス海に入った。11年11月ロス島基地を出発,12年1月17日極点に到達した。しかし前年12月14日にアムンゼンが先着していた。帰途,猛吹雪のため遭難,基地を目前にして3月29日凍死。再度の探検記,とくに遺体と共に残った探検記録《スコットの最後の探検》(1913)は著名。
執筆者:石山 洋
イギリスのジャーナリスト。1871年2月,オックスフォード大学卒業後,《スコッツマン》紙の記者を経て,いとこのテーラーJohn Edward Taylorの経営していた《マンチェスター・ガーディアン》(のちの《ガーディアン》)に入り,72年25歳で編集長。グラッドストンのリベラリズムに共鳴,同紙をリベラル左派の高級紙に育成して全国的な声価を確立する。1905年テーラーの死後は同紙を買いとり,名実ともに支配者となった。ボーア戦争(1899-1902)に反対した少数のひとりで,購読者の激減,暴徒の脅迫に屈せず,最後まで批判を続けたことは著名。1895-1905年,自由党下院議員となる。晩年労働党に好意をもち,その進出を支持した。
執筆者:香内 三郎
イギリス,ビクトリア朝時代の代表的建築家。バッキンガムシャーのゴーコット生れ。1844年ハンブルクの教会設計競技に入賞し,国際的名声を獲得。ピュージンに傾倒してゴシック様式の普及に努め,実際に建設された作品が教会堂を中心に900を超す多作で知られる。イーリーその他の大聖堂の修復では復元主義を強固に推し進めたため,後にW.モリスらの批判を浴びた。代表作はイタリア・ルネサンス風の外務省庁舎(ロンドン,1873),ゴシック・リバイバルの世俗建築では最大の規模といわれるセント・パンクラス駅およびホテル(ロンドン,1874)。
執筆者:星 和彦
12世紀後半から13世紀前半にかけて,アラビア学問の移入に寄与したイギリス人グループの一人。生没年不詳。スコットランド出身。当時すぐれたアラビア学問の宝庫だったトレドに,さらにはシチリア島のフリードリヒ2世のもとに来て翻訳者として活躍した。とくにアリストテレスの動物学,アベロエス(イブン・ルシュド)の注釈付き天体論,ビトルージーの天文書などをラテン語に翻訳した意義は大きい。
執筆者:大槻 真一郎
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(加納孝代)
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1868~1912
イギリスの海軍軍人,南極探検家。第1次南極探検(1901~04年)に続く1910年からの第2次探検で,アムンセンの1カ月後の12年1月18日に南極点に到達。帰途同行者4人とともに遭難。
1771~1832
イギリス・ロマン主義の代表的詩人,小説家。スコットランド生まれ。法律を学び裁判所勤務のかたわら著述。物語詩『湖上の美人』で名声をあげ,数多くの歴史小説を著した。
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…西欧人相学にはこのように,古くから動物類推と占星術という二つの方法があった。 占星術を好んだ神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の寵を受けたM.スコットの《人相論》,三次方程式の解法で知られるG.カルダーノの《占星術的人相学》,教皇アレクサンデル6世に破門されて焚刑に処せられたG.サボナローラの伯父M.サボナローラが著した《人相学》など,いずれも占星術による人相学である。他方,11世紀のアラビア科学を代表するイブン・シーナーの《動物の諸本性》は,霊魂と動物の形態とを目的論的に説明して神の摂理を説き,これに触発されたアルベルトゥス・マグヌスは《動物について》の中で人相学を論じている。…
…すでに1836年から週2回刊であったが,55年7月2日から日刊,57年には1ペニーに値下げ,68年には《マンチェスター・イブニング・ニューズManchester Evening News》を出して基礎を固める。しかし,有力地方紙の枠を超え,全国的権威を確立するのは,72年創業者の甥C.P.スコットが編集長(1872‐1929)になってからである。彼はグラッドストンのリベラリズムを熱烈に支持し,アーノルドWilliam T.Arnoldら,著名な学者,文人をライターに集め,1899‐1902年のボーア戦争では,最初から最後まで徹底して反対した。…
…ヨーロッパで16世紀ころに使用されはじめ,19世紀に公教育制度の確立とともに広く普及した。日本では,1872年(明治5)創設の東京師範学校で外人教師M.M.スコットがアメリカから取り寄せて用いたのが最初であり,73年全国各地に小学校が設立されるに伴って,必需の教授用具として全国に普及した。当初は木板に墨汁を塗りつけただけの粗末なものだったが,学校設備の整備とともに退色しないよう塗料に改良が加えられ,今日では永久着色の合成板を用い,光線の反射をさけて両端をゆるく湾曲させ,チョークとの色彩コントラストを配慮して緑色のものが多い。…
…その名は,採集した魚類などの学名(例,ウロコギスTrematomus hansoni)に入っている。1901‐04年イギリスのR.F.スコットはロス島で越冬し科学調査を行い,南緯77゜59′までそり隊が南下した。後にスコットは南極点に到達する。…
…しかし,ここでは作者の想像力の働きがあまりにも自由すぎて,歴史的事実が影のうすいものとされているので,アン・ラドクリフ夫人の《ガストン・ド・ブロンドビル》(出版は作者死後の1826年だが,執筆は1802年ころ)を例外として,歴史小説とは呼びにくい。 ゴシック・ロマンスからそのロマンス的要素を受け継いだスコットランドの文豪W.スコットこそ,量質ともに真の意味での歴史小説の大成者といえよう。彼の作品は大別してスコットランドの歴史によるもの(《ウェーバリー》(1814),《ミドロージアンの心臓》(1818)など,数は最も多い),イングランドの歴史によるもの(《アイバンホー》(1820),《ケニルワース城》(1821)など),およびフランスの歴史によるもの(《クウェンティン・ダーワド》(1823)など,数は少ない)となるが,イギリス文学史上に多くの追随者を生んだのみならず,ヨーロッパ大陸の多くの文豪に強い影響を与え,数々の歴史小説の傑作を生み出させることとなった。…
…しかし,その影響力は大きく,例えばバイロンのギリシア解放戦争への参加と死はヨーロッパに衝撃を与え,ギリシア独立支持運動と古代ギリシア文学愛好熱高揚の引金となった。一方,スコットランドの過去の歴史をよみがえらせ,中世騎士道精神と郷土愛を賞揚するスコットの一連の歴史小説Waverley Novelsは,歴史学と小説に中世賛美の機運を興し,過去の時代の精確な生き生きとした描写を目ざす一種のロマン主義的写実主義とも称すべき傾向を生み,ユゴーの《ノートル・ダム・ド・パリ》やメリメの《シャルル9世年代記》,あるいはミシュレの《フランス史》等に影響を与えた。 ドイツでは,1770年ころからフランスの文化支配を脱し,啓蒙主義に対抗して個人の感性と直観を重視する反体制的な文学運動シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)が展開されたが,そのほぼ20年後にシュレーゲル兄弟,ティーク,シュライエルマハーらによって提唱されたロマン主義文学理論は,この運動の主張を継承し,フランス古典主義に対抗するものとしてのロマン主義を明確に定義づけ,古代古典文学の再評価とドイツに固有の国民文学の創造を主張した。…
…妖精劇から出発したJ.ネストロイがこのジャンルを完全に離れたように,ロマン主義の末期には写実主義的傾向が入ってきている。
[ヨーロッパ各国での展開]
ヨーロッパのドイツ語圏以外へのドイツ・ロマン派(演劇)の影響は,まずデンマークでA.エーレンスレーヤーのようなロマン派劇の作家を生み,イギリスではW.スコットが《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》を翻訳し,W.ワーズワースやS.T.コールリジはシラーの《群盗》の影響を受けた。バイロンの《マンフレッド》(1817),P.B.シェリーの《チェンチ一族》(1819)などは,当時はむしろ書斎劇と考えられており,舞台で再評価しようとする試みはずっと後になって行われることとなった。…
※「スコット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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