ドキュメンタリー映画(読み)どきゅめんたりーえいが(英語表記)documentary film

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドキュメンタリー映画」の意味・わかりやすい解説

ドキュメンタリー映画
どきゅめんたりーえいが
documentary film

撮影対象を現実の事象や人物に求め、虚構ではなく事実を描こうとする映画。日本でいう「記録映画」と同等視される場合と、記録映画のなかの一つの下位ジャンルとみなされる場合がある。後者の場合、記録映画のなかでも、ニュース映画や科学映画などに比べ、メッセージ性や作家性、芸術性が強いものをさす。ここでは、後者の視点から記述していく。

[奥村 賢 2022年6月22日]

外国のドキュメンタリー映画

映画誕生期の19世紀末は、ドキュメンタリー映画の胎動期にあたる。1895年12月28日、フランスのリュミエール兄弟がパリのグラン・カフェで、シネマトグラフで撮った映画を初めて一般公開した。それらは身の回りの日常風景を撮った『工場の出口』などの実写フィルムであり、初めての記録映画でもあった。リュミエール映画社は、やがて撮影技師を国外に派遣して、歴史的出来事や遠隔地の珍しい風俗を記録映画としてカメラに収めていった。20世紀に入ると、長編の探検記録映画や科学映画がイギリスやアメリカで登場し、記録映画の内容が多様化していく。

 1920年代になると、記録映画は大きな転換期を迎え、1922年、アメリカのロバート・フラハティが『極北のナヌーク(極北の怪異)』を発表する。これは酷寒のなかで長期間にわたって、イヌイットの生活をフィルムに収めたもので、ドラマ性に富んだ画期的な記録映画として高く評価され、この作品が史上初のドキュメンタリー映画といわれている。フラハティは1934年に『アラン』を発表し、これも彼の代表作となった。1920年代に大きな功績を残したドキュメンタリー映画作家がもう一人いる。革命期ロシアのジガ・ベルトフDziga Vertov(1896―1954)である。彼は『カメラを持った男』(1929)など、実験性の強い一連の作品によって、ドキュメンタリー映画のもつ前衛的側面を切り開いてみせた。

 イギリスでも、映画による社会改革を目ざしたジョン・グリアソンJohn Grierson(1898―1972)によって新しい動きが始まった。彼は1928年、帝国通商局(EMB)に映画班を創設し、『流網船』(1929)、『産業英国』(1931)など、多くの啓蒙(けいもう)的な広報映画を製作した。これが「イギリス・ドキュメンタリー運動」の幕開けとなった。1933年、運動の拠点は中央郵便局(GPO)に移り、『セイロンの歌』(バジル・ライトBasil Wright(1907―1987)、1934年)、『夜行郵便列車』(ライト/ハリー・ワットHarry Watt(1906―1987)、1936年)、『火の手はあがった』(ハンフリー・ジェニングスHumphrey Jennings(1907―1950)、1943年)など、芸術性の高い秀作を生んだ。また、理論面でも外国のドキュメンタリー映画に大きな影響を与えた。当時、市民を教育する啓蒙映画は、アメリカでも製作され、ニュー・ディール政策に協力する「ニュー・ディール映画」がつくられた。映像と音を巧みに処理したペア・ロレンツPare Lorentz(1905―1992)の『平原を耕す鋤(すき)』(1936)や『河』(1938)などが代表的な作品である。

 フランスではアルベルト・カバルカンティAlberto Cavalcanti(1897―1982)の『時の外何物もなし』(1926)、ジャン・ビゴの『ニースについて』(1930)、ドイツではワルター・ルットマンWalter Ruttman(1887―1941)の『伯林(ベルリン)――大都会交響楽』(1927)、オランダではヨーリス・イベンスの『雨』(1929)など、ほかの国々でも、才気に満ちた作品が生まれた。イベンスはこのあと、世界各地で『スペインの大地』(1937)、『四億』(1939)など、政治的なドキュメンタリーを発表して国際的な名声を得た。

 第二次世界大戦が始まると、ドキュメンタリー映画は宣伝メディアとして重視されて盛んにつくられた。アメリカではフランク・キャプラ監修による「われらはなぜ戦うのか」シリーズ(1942~1945)、イギリスでは『今夜の目標』(ワット、1941年)、ソ連では『モスクワ近郊におけるドイツ軍の敗北』(イリヤ・コパーリンIlya Kopalin(1900―1976)/レオニード・ワルラーモフLeonid Varlamov(1907―1962)、1942年)、ドイツでは『勝利の歴史』(スベン・ノルダンSvend Noldan(1893―1978)ほか、1941年)などが製作された。もっとも、ドイツのプロパガンダ映画としては、レニ・リーフェンシュタールが発表した『意志の勝利』(1935)や『オリンピア』二部作(1938)がよく知られている。

 第二次世界大戦が終わると、1950年代から1960年代にかけて、従来とは異なった新しい文体の映画が、いろいろな国でつくられるようになった。イギリスでは労働者の日常をリアルに描くフリー・シネマが起こり、カレル・ライスとトニー・リチャードソンの『ママは許さない』(1956)などがつくられた。フランスでは、アラン・レネが『夜と霧』(1956)を発表し、その後、街頭インタビューなどの新しい手法によるシネマ・ベリテが興隆して、ジャン・ルーシュJean Rouch(1917―2004)とエドガール・モランの『ある夏の記録』(1961)や、クリス・マルケルChris Marker(1921―2012)の『美しき五月』(1963)などが注目された。意図的な演出を嫌ったシネマ・ベリテと同じく、アメリカでもダイレクト・シネマが台頭してきた。対象を直接とらえようとするダイレクト・シネマには、アメリカの大統領選挙を扱ったロバート・ドルーRobert Drew(1924―2014)の『予備選挙』(1960)、フレデリック・ワイズマンFrederick Wiseman(1930― )の『チチカット・フォーリーズ』(1967)、メイズルズ兄弟Albert Maysles(1926―2015)、David Maysles(1932―1987)の『セールスマン』(1969)などの作品がある。イベンスも、『ベトナムから遠く離れて』(1967年、共同監督)などで活躍を続けた。

 戦後になってテレビが普及すると、記録映画の需要は少なくなったが、映画が始まってから現在まで、記録映画は世界中で数多くの作品を生み出し続けている。なかでも政治問題や社会問題を鋭く取り上げた作品が多い。1970年代以降も、パトリシオ・グスマンPatricio Guzmán(1941― )の『チリの闘い』三部作(1975~1979)、クロード・ランズマンClaude Lanzmann(1925―2018)の『SHOAH ショアー』(1985)、リチャード・ゴードンRichard Gordon(1921―2017)とカーマ・ヒントンCarma Hinton(1949― )の『天安門』(1995)、マイケル・ムーアMichael Moore(1954― )の『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)、『華氏911』(2004)、王兵(ワンビン)(1967― )の『鉄西区』三部作(2002)などである。そして、なかでも21世紀以降については、フーベルト・ザウパーHubert Sauper(1966― )の『ダーウィンの悪夢』(2004)、ニコラウス・ガイルハルターNikolaus Geyrhalter(1972― )の『いのちの食べかた』(2005)、デイビス・グッゲンハイムDavis Guggenheim(1963― )の『不都合な真実』(2006)のような、環境問題など地球規模の問題を扱ったものが増えてきていることが特徴的傾向としてあげられる。また一方で、『ゲルニカ』(アラン・レネ、ルイ・マル共同監督、1950年)のような美術映画、『沈黙の世界』(ジャック・イブ・クストー、ルイ・マル共同監督、1956年)や『皇帝ペンギン』(リュック・ジャケLuc Jacquet(1967― )、2005年)のような動物映画、『ウッドストック 愛と平和と音楽の三日間』(マイクル・ウォドレイMichael Wadleigh(1939― )、1970年)のような音楽映画、『Devotion 小川紳介(おがわしんすけ)と生きた人々』(バーバラ・ハマーBarbara Hammer(1939―2019)、2000年)のような伝記映画、あるいは『ヴァンダの部屋』(ペドロ・コスタPedro Costa(1958― )、2000年)のような個人の日常を描いた映画もつくられ、内容は多彩になってきている。

[奥村 賢 2022年6月22日]

日本のドキュメンタリー映画

19世紀末、小西写真店(現、コニカミノルタ)の浅野四郎(あさのしろう)(1877―1955)らが、日本人として最初に映画の撮影を行い、1899年(明治32)には芸者の手踊りなどを撮影した日本製の実写フィルムの興行が始まった。これが日本の記録映画の始まりである。1903年(明治36)には、現存する最古のフィルムの一つで、歌舞伎の実演を撮影した『紅葉狩』(撮影=柴田常吉(しばたつねきち)(1867―1929))が公開された。北清(ほくしん)事変や日露戦役の折には、戦況を記録した映画が大人気であった。また、『日本南極探検』(1912年、撮影=田泉保直(たいずみやすなお)(1888―1960))や『関東大震大火実況』(1923年、撮影=白井茂(しらいしげる)(1899―1984))なども、時代を映した代表的な記録映画である。

 1930年代に入ると日本は十五年戦争に突入して、国策映画の時代となり、列強諸国と並んで、日本でも記録映画が宣伝用の武器として重くみられるようになっていく。長編では、まず青地忠三(あおちちゅうぞう)(1885―1970)編集の『海の生命線』(1933)と『北進日本』(1934)がつくられ、当時の時局性や雰囲気が濃厚に反映された。1940年代になると、『東洋の凱歌(がいか) バターン・コレヒドール攻略戦記』(沢村勉(さわむらつとむ)(1915―1977)、1942年)『マレー戦記 進撃の記録』(飯田心美(いいだしんび)(1900―1984)、1942年)『空の神兵 陸軍落下傘部隊訓練の記録』(渡辺義美(わたなべよしみ)(1911―1945)、1942年)など、国策的な記録映画が増えていった。一方、1930年代から1940年代にかけては、芸術性や作家性に富む作品も生まれている。亀井文夫(かめいふみお)の『上海(シャンハイ) 支那(しな)事変後方記録』(1938)、『戦ふ兵隊』(1939)、『小林一茶(いっさ) 信濃(しなの)風土記より』(1941)、石本統吉(いしもととうきち)(1907―1977)の『雪国』(1939)、下村兼史(しもむらけんじ)(1903―1967)の『或日(あるひ)の干潟』(1940)、水木荘也(みずきそうや)(1910―?)の『或(あ)る保姆(ほぼ)の記録』(1942)などが代表的な作品で、当時の記録映画が質的に転換したことを表していた。これらの作品は「文化映画」とよばれ、国家の保護もあって全盛期を迎えた。

 終戦後、記録映画はすぐさま新たな躍進を遂げ始める。教育映画作品の需要の高まりを背景に、1950年代から1960年代前半、岩波映画製作所、東京シネマ、桜映画社といった教育映画の新しい担い手が相次いで登場し、記録映画の製作が活発化する。代表的作品に京極高英(きょうごくたかひで)(1912―1989)の『ひとりの母の記録』(1955)、大沼鉄郎(おおぬまてつろう)(1928―2013)の『ミクロの世界 結核菌を追って』(1958)、野田真吉(のだしんきち)(1916―1993)らの『マリン・スノー』(1960)、伊勢長之助(いせちょうのすけ)(1912―1973)の『カラコルム』(1956)などがある。また、岩波映画製作所からは次代を担う映画作家が何人も巣立った。『教室の子供たち 学習指導への道』(1954)の羽仁進(はにすすむ)、『ある機関助士』(1963)の土本典昭(つちもとのりあき)、『青年の海 四人の通信教育生たち』(1966)の小川紳介、『あるマラソンランナーの記録』(1964)の黒木和雄、『沖縄列島』(1969)の東陽一らである。またこのころには、記録映画作家の主体性や、政治と芸術の問題などが、活発に論じられた。勅使河原宏(てしがわらひろし)の『ホゼー・トレス』(1959)や松本俊夫(まつもととしお)(1932―2017)の『西陣』(1961)などは、この新たな潮流を象徴する作品であった。

 こうした映画製作の根本を問う議論を経て、1960年代後半から1970年代にかけて、日本の記録映画は大きく変わっていった。その流れのなかで、小川紳介は1967年(昭和42)から新東京国際空港建設に反対する成田闘争を長期間取材し、『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968)や『三里塚 辺田(へた)部落』(1973)など7本を撮影。土本典昭も、1971年から水俣病の実態を記録する映画にとりかかり、『水俣 患者さんとその世界』(1971)、『不知火海(しらぬひかい)』(1975)などを発表した。二人の製作法には共通するところがあった。その一つは徹底した現場主義である。小川は農民とともに生活をしながら、また土本は現地の人々との密接な交流を通して、撮影を進めていった。もう一つは撮影対象をはっきり支持していることである。カメラは国家権力に対抗する農民や患者の側にたって、状況を把握していこうとする。こうした、従来とはまったく異なる手法による長編ドキュメンタリーは、国際的な評価を受けた。さらに、小川は『ニッポン国 古屋敷村』(1982)などによって農民の暮らしや民俗を、土本は『海盗(うみと)り 下北半島 浜関根(はませきね)』(1984)などで時代の動きをフィルムに収めていく。また、この時代には、劇映画の監督もドキュメンタリーで話題作を残している。市川崑(いちかわこん)の『東京オリンピック』(1965)、大島渚(おおしまなぎさ)の『ユンボギの日記』(1965)、新藤兼人(しんどうかねと)の『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975)などである。

 1980年代に入って、もっとも注目された監督は原一男(はらかずお)(1945― )である。彼もまた、眼前に展開される状況に自ら積極的にかかわっていくが、基本構造をなしているのは、カメラと対象(個人)との劇的なまでの緊張関係で、『極私的エロス 恋歌1974』(1974)や『ゆきゆきて、神軍』(1987)はその代表例である。ドキュメンタリーの分野では、1990年代以降、政治的・社会的な問題から個人的で日常的な視点へ、あるいは共同体から個人へという傾向が強くなってきている。1980年代以降のほかの作品には、小林正樹(こばやしまさき)の『東京裁判』(1983)、佐藤真(さとうまこと)(1957―2007)の『阿賀に生きる』(1992)、呉徳洙(オドクス)(1941―2015)の『戦後在日五〇年史 在日』(1997)、森達也(もりたつや)(1956― )の『A』(1998)、池谷薫(いけやかおる)(1958― )の『延安の娘』(2002)、原村政樹(はらむらまさき)(1957― )の『海女(あま)のリャンさん』(2004)、ジャン・ユンカーマンJohn Junkerman(1952― )の『映画 日本国憲法』(2005)、李纓(リイン)(1963― )の『靖国 YASUKUNI』(2007)などがある。

[奥村 賢 2022年6月22日]

『田中純一郎著『日本教育映画発達史』(1979・蝸牛社)』『リチャード・M・バーサム著、山谷哲夫・中野達司訳『ノンフィクション映像史』(1984・創樹社)』『ポール・ローサ、シンクレア・ロード、リチャード・グリフィス著、厚木たか訳『ドキュメンタリィ映画』(1995・未来社)』『村山匡一郎編『日本映画史叢書5 映画は世界を記録する――ドキュメンタリー再考』(2006・森話社)』『佐藤忠男編著『シリーズ 日本のドキュメンタリー』全5巻(2009~2010・岩波書店)』『エリック・バーナウ著、安原和見訳『ドキュメンタリー映画史』(2015・筑摩書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドキュメンタリー映画」の意味・わかりやすい解説

ドキュメンタリー映画
ドキュメンタリーえいが
documentary film

カメラの記録性を活用した映画。イギリスの J.グリアソンがフランスの「フィルム・ドキュマンテール」 (旅行映画) という用語を英語で意識的に,また拡大して使ったのが最初 (1926) 。事実をその現場で撮影するのが基本である。すぐれたドキュメンタリー映画は,事物の表面の記録にとどまらず,そのうちにひそむ真実をも露呈させる。この分野でのグリアソンや P.ローサらイギリス人たちの理論,実作両面での業績は名高い。アメリカの『極北の怪異』 (22,R.フラハティ監督) ,ソ連の『トゥルクシブ』 (29,B.トゥーリン監督) は古典的傑作であるが,日本でも羽仁進の『教室の子供たち』 (55) ,市川崑の『東京オリンピック』 (65) ,土本典昭の『水俣』 (71) ,羽田澄子の『痴呆性老人の世界』 (85) などがあり,世界各国で秀作が発表されている。

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