撮影対象を現実の事象や人物に求め、虚構ではなく事実を描こうとする映画。日本でいう「記録映画」と同等視される場合と、記録映画のなかの一つの下位ジャンルとみなされる場合がある。後者の場合、記録映画のなかでも、ニュース映画や科学映画などに比べ、メッセージ性や作家性、芸術性が強いものをさす。ここでは、後者の視点から記述していく。
[奥村 賢 2022年6月22日]
映画誕生期の19世紀末は、ドキュメンタリー映画の胎動期にあたる。1895年12月28日、フランスのリュミエール兄弟がパリのグラン・カフェで、シネマトグラフで撮った映画を初めて一般公開した。それらは身の回りの日常風景を撮った『工場の出口』などの実写フィルムであり、初めての記録映画でもあった。リュミエール映画社は、やがて撮影技師を国外に派遣して、歴史的出来事や遠隔地の珍しい風俗を記録映画としてカメラに収めていった。20世紀に入ると、長編の探検記録映画や科学映画がイギリスやアメリカで登場し、記録映画の内容が多様化していく。
1920年代になると、記録映画は大きな転換期を迎え、1922年、アメリカのロバート・フラハティが『極北のナヌーク(極北の怪異)』を発表する。これは酷寒のなかで長期間にわたって、イヌイットの生活をフィルムに収めたもので、ドラマ性に富んだ画期的な記録映画として高く評価され、この作品が史上初のドキュメンタリー映画といわれている。フラハティは1934年に『アラン』を発表し、これも彼の代表作となった。1920年代に大きな功績を残したドキュメンタリー映画作家がもう一人いる。革命期ロシアのジガ・ベルトフDziga Vertov(1896―1954)である。彼は『カメラを持った男』(1929)など、実験性の強い一連の作品によって、ドキュメンタリー映画のもつ前衛的側面を切り開いてみせた。
イギリスでも、映画による社会改革を目ざしたジョン・グリアソンJohn Grierson(1898―1972)によって新しい動きが始まった。彼は1928年、帝国通商局(EMB)に映画班を創設し、『流網船』(1929)、『産業英国』(1931)など、多くの啓蒙(けいもう)的な広報映画を製作した。これが「イギリス・ドキュメンタリー運動」の幕開けとなった。1933年、運動の拠点は中央郵便局(GPO)に移り、『セイロンの歌』(バジル・ライトBasil Wright(1907―1987)、1934年)、『夜行郵便列車』(ライト/ハリー・ワットHarry Watt(1906―1987)、1936年)、『火の手はあがった』(ハンフリー・ジェニングスHumphrey Jennings(1907―1950)、1943年)など、芸術性の高い秀作を生んだ。また、理論面でも外国のドキュメンタリー映画に大きな影響を与えた。当時、市民を教育する啓蒙映画は、アメリカでも製作され、ニュー・ディール政策に協力する「ニュー・ディール映画」がつくられた。映像と音を巧みに処理したペア・ロレンツPare Lorentz(1905―1992)の『平原を耕す鋤(すき)』(1936)や『河』(1938)などが代表的な作品である。
フランスではアルベルト・カバルカンティAlberto Cavalcanti(1897―1982)の『時の外何物もなし』(1926)、ジャン・ビゴの『ニースについて』(1930)、ドイツではワルター・ルットマンWalter Ruttman(1887―1941)の『伯林(ベルリン)――大都会交響楽』(1927)、オランダではヨーリス・イベンスの『雨』(1929)など、ほかの国々でも、才気に満ちた作品が生まれた。イベンスはこのあと、世界各地で『スペインの大地』(1937)、『四億』(1939)など、政治的なドキュメンタリーを発表して国際的な名声を得た。
第二次世界大戦が始まると、ドキュメンタリー映画は宣伝メディアとして重視されて盛んにつくられた。アメリカではフランク・キャプラ監修による「われらはなぜ戦うのか」シリーズ(1942~1945)、イギリスでは『今夜の目標』(ワット、1941年)、ソ連では『モスクワ近郊におけるドイツ軍の敗北』(イリヤ・コパーリンIlya Kopalin(1900―1976)/レオニード・ワルラーモフLeonid Varlamov(1907―1962)、1942年)、ドイツでは『勝利の歴史』(スベン・ノルダンSvend Noldan(1893―1978)ほか、1941年)などが製作された。もっとも、ドイツのプロパガンダ映画としては、レニ・リーフェンシュタールが発表した『意志の勝利』(1935)や『オリンピア』二部作(1938)がよく知られている。
第二次世界大戦が終わると、1950年代から1960年代にかけて、従来とは異なった新しい文体の映画が、いろいろな国でつくられるようになった。イギリスでは労働者の日常をリアルに描くフリー・シネマが起こり、カレル・ライスとトニー・リチャードソンの『ママは許さない』(1956)などがつくられた。フランスでは、アラン・レネが『夜と霧』(1956)を発表し、その後、街頭インタビューなどの新しい手法によるシネマ・ベリテが興隆して、ジャン・ルーシュJean Rouch(1917―2004)とエドガール・モランの『ある夏の記録』(1961)や、クリス・マルケルChris Marker(1921―2012)の『美しき五月』(1963)などが注目された。意図的な演出を嫌ったシネマ・ベリテと同じく、アメリカでもダイレクト・シネマが台頭してきた。対象を直接とらえようとするダイレクト・シネマには、アメリカの大統領選挙を扱ったロバート・ドルーRobert Drew(1924―2014)の『予備選挙』(1960)、フレデリック・ワイズマンFrederick Wiseman(1930― )の『チチカット・フォーリーズ』(1967)、メイズルズ兄弟Albert Maysles(1926―2015)、David Maysles(1932―1987)の『セールスマン』(1969)などの作品がある。イベンスも、『ベトナムから遠く離れて』(1967年、共同監督)などで活躍を続けた。
戦後になってテレビが普及すると、記録映画の需要は少なくなったが、映画が始まってから現在まで、記録映画は世界中で数多くの作品を生み出し続けている。なかでも政治問題や社会問題を鋭く取り上げた作品が多い。1970年代以降も、パトリシオ・グスマンPatricio Guzmán(1941― )の『チリの闘い』三部作(1975~1979)、クロード・ランズマンClaude Lanzmann(1925―2018)の『SHOAH ショアー』(1985)、リチャード・ゴードンRichard Gordon(1921―2017)とカーマ・ヒントンCarma Hinton(1949― )の『天安門』(1995)、マイケル・ムーアMichael Moore(1954― )の『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)、『華氏911』(2004)、王兵(ワンビン)(1967― )の『鉄西区』三部作(2002)などである。そして、なかでも21世紀以降については、フーベルト・ザウパーHubert Sauper(1966― )の『ダーウィンの悪夢』(2004)、ニコラウス・ガイルハルターNikolaus Geyrhalter(1972― )の『いのちの食べかた』(2005)、デイビス・グッゲンハイムDavis Guggenheim(1963― )の『不都合な真実』(2006)のような、環境問題など地球規模の問題を扱ったものが増えてきていることが特徴的傾向としてあげられる。また一方で、『ゲルニカ』(アラン・レネ、ルイ・マル共同監督、1950年)のような美術映画、『沈黙の世界』(ジャック・イブ・クストー、ルイ・マル共同監督、1956年)や『皇帝ペンギン』(リュック・ジャケLuc Jacquet(1967― )、2005年)のような動物映画、『ウッドストック 愛と平和と音楽の三日間』(マイクル・ウォドレイMichael Wadleigh(1939― )、1970年)のような音楽映画、『Devotion 小川紳介(おがわしんすけ)と生きた人々』(バーバラ・ハマーBarbara Hammer(1939―2019)、2000年)のような伝記映画、あるいは『ヴァンダの部屋』(ペドロ・コスタPedro Costa(1958― )、2000年)のような個人の日常を描いた映画もつくられ、内容は多彩になってきている。
[奥村 賢 2022年6月22日]
19世紀末、小西写真店(現、コニカミノルタ)の浅野四郎(あさのしろう)(1877―1955)らが、日本人として最初に映画の撮影を行い、1899年(明治32)には芸者の手踊りなどを撮影した日本製の実写フィルムの興行が始まった。これが日本の記録映画の始まりである。1903年(明治36)には、現存する最古のフィルムの一つで、歌舞伎の実演を撮影した『紅葉狩』(撮影=柴田常吉(しばたつねきち)(1867―1929))が公開された。北清(ほくしん)事変や日露戦役の折には、戦況を記録した映画が大人気であった。また、『日本南極探検』(1912年、撮影=田泉保直(たいずみやすなお)(1888―1960))や『関東大震大火実況』(1923年、撮影=白井茂(しらいしげる)(1899―1984))なども、時代を映した代表的な記録映画である。
1930年代に入ると日本は十五年戦争に突入して、国策映画の時代となり、列強諸国と並んで、日本でも記録映画が宣伝用の武器として重くみられるようになっていく。長編では、まず青地忠三(あおちちゅうぞう)(1885―1970)編集の『海の生命線』(1933)と『北進日本』(1934)がつくられ、当時の時局性や雰囲気が濃厚に反映された。1940年代になると、『東洋の凱歌(がいか) バターン・コレヒドール攻略戦記』(沢村勉(さわむらつとむ)(1915―1977)、1942年)『マレー戦記 進撃の記録』(飯田心美(いいだしんび)(1900―1984)、1942年)『空の神兵 陸軍落下傘部隊訓練の記録』(渡辺義美(わたなべよしみ)(1911―1945)、1942年)など、国策的な記録映画が増えていった。一方、1930年代から1940年代にかけては、芸術性や作家性に富む作品も生まれている。亀井文夫(かめいふみお)の『上海(シャンハイ) 支那(しな)事変後方記録』(1938)、『戦ふ兵隊』(1939)、『小林一茶(いっさ) 信濃(しなの)風土記より』(1941)、石本統吉(いしもととうきち)(1907―1977)の『雪国』(1939)、下村兼史(しもむらけんじ)(1903―1967)の『或日(あるひ)の干潟』(1940)、水木荘也(みずきそうや)(1910―?)の『或(あ)る保姆(ほぼ)の記録』(1942)などが代表的な作品で、当時の記録映画が質的に転換したことを表していた。これらの作品は「文化映画」とよばれ、国家の保護もあって全盛期を迎えた。
終戦後、記録映画はすぐさま新たな躍進を遂げ始める。教育映画作品の需要の高まりを背景に、1950年代から1960年代前半、岩波映画製作所、東京シネマ、桜映画社といった教育映画の新しい担い手が相次いで登場し、記録映画の製作が活発化する。代表的作品に京極高英(きょうごくたかひで)(1912―1989)の『ひとりの母の記録』(1955)、大沼鉄郎(おおぬまてつろう)(1928―2013)の『ミクロの世界 結核菌を追って』(1958)、野田真吉(のだしんきち)(1916―1993)らの『マリン・スノー』(1960)、伊勢長之助(いせちょうのすけ)(1912―1973)の『カラコルム』(1956)などがある。また、岩波映画製作所からは次代を担う映画作家が何人も巣立った。『教室の子供たち 学習指導への道』(1954)の羽仁進(はにすすむ)、『ある機関助士』(1963)の土本典昭(つちもとのりあき)、『青年の海 四人の通信教育生たち』(1966)の小川紳介、『あるマラソンランナーの記録』(1964)の黒木和雄、『沖縄列島』(1969)の東陽一らである。またこのころには、記録映画作家の主体性や、政治と芸術の問題などが、活発に論じられた。勅使河原宏(てしがはらひろし)の『ホゼー・トレス』(1959)や松本俊夫(まつもととしお)(1932―2017)の『西陣』(1961)などは、この新たな潮流を象徴する作品であった。
こうした映画製作の根本を問う議論を経て、1960年代後半から1970年代にかけて、日本の記録映画は大きく変わっていった。その流れのなかで、小川紳介は1967年(昭和42)から新東京国際空港建設に反対する成田闘争を長期間取材し、『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968)や『三里塚 辺田(へた)部落』(1973)など7本を撮影。土本典昭も、1971年から水俣病の実態を記録する映画にとりかかり、『水俣 患者さんとその世界』(1971)、『不知火海(しらぬひかい)』(1975)などを発表した。二人の製作法には共通するところがあった。その一つは徹底した現場主義である。小川は農民とともに生活をしながら、また土本は現地の人々との密接な交流を通して、撮影を進めていった。もう一つは撮影対象をはっきり支持していることである。カメラは国家権力に対抗する農民や患者の側にたって、状況を把握していこうとする。こうした、従来とはまったく異なる手法による長編ドキュメンタリーは、国際的な評価を受けた。さらに、小川は『ニッポン国 古屋敷村』(1982)などによって農民の暮らしや民俗を、土本は『海盗(うみと)り 下北半島 浜関根(はませきね)』(1984)などで時代の動きをフィルムに収めていく。また、この時代には、劇映画の監督もドキュメンタリーで話題作を残している。市川崑(いちかわこん)の『東京オリンピック』(1965)、大島渚(おおしまなぎさ)の『ユンボギの日記』(1965)、新藤兼人(しんどうかねと)の『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975)などである。
1980年代に入って、もっとも注目された監督は原一男(はらかずお)(1945― )である。彼もまた、眼前に展開される状況に自ら積極的にかかわっていくが、基本構造をなしているのは、カメラと対象(個人)との劇的なまでの緊張関係で、『極私的エロス 恋歌1974』(1974)や『ゆきゆきて、神軍』(1987)はその代表例である。ドキュメンタリーの分野では、1990年代以降、政治的・社会的な問題から個人的で日常的な視点へ、あるいは共同体から個人へという傾向が強くなってきている。1980年代以降のほかの作品には、小林正樹(こばやしまさき)の『東京裁判』(1983)、佐藤真(さとうまこと)(1957―2007)の『阿賀に生きる』(1992)、呉徳洙(オドクス)(1941―2015)の『戦後在日五〇年史 在日』(1997)、森達也(もりたつや)(1956― )の『A』(1998)、池谷薫(いけやかおる)(1958― )の『延安の娘』(2002)、原村政樹(はらむらまさき)(1957― )の『海女(あま)のリャンさん』(2004)、ジャン・ユンカーマンJohn Junkerman(1952― )の『映画 日本国憲法』(2005)、李纓(リイン)(1963― )の『靖国 YASUKUNI』(2007)などがある。
[奥村 賢 2022年6月22日]
『田中純一郎著『日本教育映画発達史』(1979・蝸牛社)』▽『リチャード・M・バーサム著、山谷哲夫・中野達司訳『ノンフィクション映像史』(1984・創樹社)』▽『ポール・ローサ、シンクレア・ロード、リチャード・グリフィス著、厚木たか訳『ドキュメンタリィ映画』(1995・未来社)』▽『村山匡一郎編『日本映画史叢書5 映画は世界を記録する――ドキュメンタリー再考』(2006・森話社)』▽『佐藤忠男編著『シリーズ 日本のドキュメンタリー』全5巻(2009~2010・岩波書店)』▽『エリック・バーナウ著、安原和見訳『ドキュメンタリー映画史』(2015・筑摩書房)』
日本では〈記録映画〉という訳語も一般化している。映画での〈ドキュメンタリー〉という呼称は,そもそもアメリカの記録映画作家ロバート・フラハティがサモア諸島の住民の日常生活を記録した映画《モアナ》(1926)について,イギリスの記録映画作家であり理論家であるジョン・グリアソンJohn Grierson(1898-1972)が,1926年2月の《ニューヨーク・サン》紙上で論評したときに初めて使ったことばで,それまでは〈紀行映画travel film(travelogue)〉を指すことばだったフランス語のdocumentaireに由来している。広義には,劇映画に対して,〈事実〉を記録する〈ノンフィクション映画〉の総称で,ニュース映画,科学映画,学校教材用映画,社会教育映画,美術映画,テレビの特別報道番組,あるいはPR映画,観光映画なども含めてこの名で呼ばれるが,本来は(すなわちグリアソンの定義に基づけば),〈人間の発見と生活の調査,記録,そしてその肯定〉を目ざしたフラハティから,〈映画は生きものの仕事〉であり〈事実や人間との出会い〉であるという姿勢を貫いてカメラを対象のなかに〈同居〉させた《水俣》シリーズ(1971-76)の土本典昭(つちもとのりあき)(1928-2008)や《三里塚》シリーズ(1968-73)の小川紳介(1935-92)らにつらなる方法と作品,すなわち〈実写〉とは異なる〈現実の創造的劇化〉が真の〈ドキュメンタリー〉である。
映画の歴史は〈実写〉から始まり,1895-96年ころから撮られ始めたニュース映画とは別に,1890年代の末期にはアメリカ,フランスその他の国で短編の実写映画がつくられ,1900年代に入ってアフリカの旅行記録やアルプスの登山記録もつくられた。12年にはイギリスのハーバート・G.ポンティングがロバート・スコットの南極探険隊に同行して1時間30分の記録映画《スコットの南極探険隊》を撮って反響を呼んだが(のち1933年には《南緯九十度》の題でまとめた),それらは〈紀行映画〉と呼ばれ,いわゆる〈ドキュメンタリー〉の先駆は,フラハティがエスキモーのきびしい日常生活のたたかいを描いた《極北の怪異》(1922)とされる。フラハティはハリウッドのメジャー会社パラマウントに注目されて《モアナ》を撮り,つづいてW・S・バン・ダイク監督の《南海の白影》(1928)とF.W.ムルナウ監督の《タブウ》(1931)という2本の〈劇映画〉に協力させられるが,ハリウッドの商業主義と折り合いがつかず,イギリスに渡り,プロデューサーのマイケル・バルコンに完全な自由をあたえられて,北アイルランドのアラン諸島の孤島できびしい自然とたたかう人間の生活を描いた《アランMan of Aran》(1934)をつくり,ドキュメンタリーの先駆的開拓者としての業績によって,〈ドキュメンタリーの父〉と評された。
アメリカでは,フラハティの作品のほか,のちに特撮怪獣映画《キング・コング》(1933)を製作するメリアン・C.クーパーとアーネスト・B.シェードサックのコンビが,遊牧イラン民族を描いた《地上》(1926)やタイの稲作農民を描いた《チャング》(1927),探険家マーティン・E.ジョンソン夫妻が野獣の生態を撮影した《アフリカ遠征》(1923)などがつくられた。また,ペア・ロレンツの《平原を拓く鍬》(1936)と《河》(1937)はフラハティの流れをくむ詩情ゆたかなドキュメンタリーとして知られる。
ソ連では,1917年の10月革命につづく内戦のなかで,映画は〈文化革命の武器〉として評価され,〈アギトカ(宣伝映画)〉や〈フロニカ(記録映画)〉と呼ばれる短編ドキュメンタリーがつくられた。内戦後の建設の時期を迎えてからは,さらにビクトル・トゥーリン監督のトルキスタン・シベリア鉄道の建設を描いた長編《トゥルクシブ》(1929)がつくられ,ジガ・ベルトフ(1896-1954)は,〈キノ・グラスKino Glaz(映画眼)〉理論を展開してカメラが写しとる直接的な対象だけを〈真実〉とみなし,そのモンタージュからドキュメンタリーが生まれることを主張した。ベルトフの〈映画眼〉理論はイギリスに大きな影響をあたえ,ドキュメンタリーは生活そのもののなかから選びだせる新しい芸術形式であると考える〈英国ドキュメンタリー〉派が生まれた。グリアソンは漁夫の日常生活を通して労働と社会とのかかわりを描いた《流し網漁船》(1929)でその流れの基礎を築き,バジル・ライトの《セイロンの歌》(1934)やポール・ローサの《造船所》(1935)など,詩情よりも〈社会的メッセージ〉を重視するドキュメンタリーが発展した。
ドイツでは,いわゆる〈クルトゥールフィルムKulturfilm〉(〈文化映画〉と訳されて日本語に定着している)がつくられ,なかでもワルター・ルットマンの《伯林--大都会交響楽》(1927)や《世界のメロディ》(1929)は,ベルトフの〈映画眼〉理論の〈リズムのモンタージュ〉に影響された代表的な長編ドキュメンタリーである。
フランスのドキュメンタリーは,20年代に純粋な視覚的表現を意図した芸術運動である〈アバンギャルド映画〉と密接なかかわりをもっているが,アルベルト・カバルカンティの《時の外何物もなし》(1926)やジャン・エプスタンの《地の果て》(1929)などがつくられた。
オランダではヨリス・イベンスの《雨》(1929),スペインではルイス・ブニュエルの《糧なき土地》(1930),ベルギーではアンリ・ストルクの《無名兵士の物語》(1930)といった,今日〈名作〉として知られるドキュメンタリーがつくられている。
第2次大戦前後,各国がドキュメンタリーを政治的な宣伝や戦意昂揚のために利用したことはいうまでもない。ドイツでは,ナチ宣伝相ゲッベルスによってあからさまな宣伝映画がつくられ,レニ・リーフェンシュタールによるニュルンベルクのナチ党大会を記録した《意志の勝利》(1935)やベルリン・オリンピックの記録《オリンピア》(1938)などをはじめ,ドイツ軍の力を誇示する《戦火の洗礼》(1940),《西部戦線の勝利》(1941)などの戦争ドキュメンタリーで,ナチズムとその勝利を宣伝した。
一方,アメリカでも,早くから反ナチ宣伝映画がつくられていた。ルイ・ド・ロシュモントの20分のドキュメンタリー・シリーズ《マーチ・オブ・タイム》(1935-51)は,《タイム》《ライフ》《フォーチュン》各誌の編集方針に合わせて時事問題を扱ったものであり,また,38年に政府によって設置された〈USフィルム・サービス〉は,スラム街を描いたペア・ロレンツの《生活への闘い》(1941),不況下の農業問題を扱ったフラハティの《土地》(1942)をつくった。のちこの組織は戦時情報局に吸収されているが,ジョン・スタインベックの脚本によるハーバート・クライン《忘れられた村》(1941)が自主製作されたことも注目される。戦争中は,フランク・キャプラ製作・監修の《われらはなぜ戦うか》シリーズ(1942-45)を中心に,ジョン・フォードの《ミッドウェーの戦い》(1942)をはじめ,ウィリアム・ワイラー,ジョン・ヒューストン,アナトール・リトバク(1902-74)等々,ハリウッドの監督による戦争ドキュメンタリーがつくられた。
イギリスでは,情報省の支配下で,ハリー・ワットの《今夜の目標》(1941),ロイ・ボールティングの《砂漠の勝利》(1943),キャロル・リードとガースン・ケニン編集による英米合作の《真の栄光》(1945)などがつくられた。
ソビエトでは,プドフキン,アレクサンドル・ドブジェンコ(1894-1956)をはじめ一流監督が戦時ドキュメンタリー製作のために動員され,ナチの侵入後まもなく多くのエピソードからなる《戦闘映画選集》が始まり,セルゲイ・ゲラーシモフ(1906-72),グリゴリー・コージンツェフ(1905-73),セルゲイ・ユトケビチ(1904-85)などの〈戦線映画特集〉が41年11月から42年の終わりまで公開された。また,ロマン・カルメーンの《戦うレニングラード》(1942),レオニード・ワルラーモフの《スターリングラード》(1943)というニュース映画を編集したもの2本と,ドブジェンコの《ウクライナの勝利》(1943-45)のような長編ドキュメンタリーもつくられた。
日本では,日中戦争が泥沼化した1938年に,前線部隊と行動をともにしながら撮影取材を行った亀井文夫の《戦ふ兵隊》が,陸軍省情報部の後援で製作されたにもかかわらず,その〈生命の詩をうたう〉反戦的要素が濃厚すぎて軍当局から公開禁止にされ,以後,40年代に入ると,侵略戦争の激化とともに,〈国民総力戦への戦意高揚,一億玉砕へと民衆を追い込む宣伝扇動の手段として記録映画は利用された。あらゆる映画は戦争遂行のためにのみつくられた〉(野田真吉《日本ドキュメンタリー映画全史》)。
戦中から戦後にかけての一つの特色ある映画現象は,〈ドキュメンタリー〉と〈劇映画〉が接近して交錯し,たとえばアメリカでは〈セミ・ドキュメンタリー(映画)〉と呼ばれる一群の作品が,また,ソビエトではマルク・ドンスコイ監督《戦火の大地》(1943)やレオ・アルンシタム監督《ゾーヤ》(1944)からフリードリヒ・エルムレル監督《大いなる転換》(1945)をへて,イーゴリ・サフチェンコ監督《第三の襲撃》(1948),ウラジーミル・ペトロフ監督《スターリングラードの戦い》(1949),ミハイル・チアウレリ監督《ベルリン陥落》(1950)に至って〈ドキュメンタリー・ドラマ映画〉と呼ばれた作品群が,また,イタリアでは〈ネオレアリズモ〉と呼ばれる傾向の作品がつくられたことである。このドキュメンタリーの手法による劇映画の傾向は,その後も各国で多様化しつつ進展し,ポーランドではアンジェイ・ムンク,イェジー・カワレロビッチ,アンジェイ・ワイダらの〈ポーランド派〉(ポーランド映画),イギリスではトニー・リチャードソン,カレル・ライス,リンゼー・アンダーソンらの〈フリー・シネマ〉,フランスではジャン・ルーシュ,クリス・マルケルらの〈シネマ・ベリテ〉,あるいはまたジャン・リュック・ゴダール,フランソワ・トリュフォーらの〈ヌーベル・バーグ〉,アメリカではライオネル・ロゴーシン,アルバート・メイスルズ,リチャード・リーコックらの〈ダイレクト・シネマ〉が生まれ,その後の各国の映画に大きな影響をあたえることとなった。
現在では,世界の各国で文化的・政治的・経済的事情に従って多種多様につくられている〈ドキュメンタリー〉の大部分はテレビジョンに吸収され,〈テレビ・ドキュメンタリー〉として新しい〈マス・メディア〉,映像による〈世論〉や〈ルポルタージュ〉に転換しつつある。こうした〈ドキュメンタリーの大衆化〉状況のなかで,なお純粋な苦しい自主上映運動をつづける日本のドキュメンタリー映画は,《医学としての水俣病》三部作(1975)の土本典昭と《ニッポン国・古屋敷村》(1982)の小川紳介において,一つの〈新たな視点〉をもちはじめたかにみえる。土本はその〈未知のドキュメンタリー〉を,〈(1)歴史的な尺度での人間への信頼,(2)映画人としての独立,(3)そして何より,科学をもって四囲のデータをかため,その科学を表現としての芸術に高める〉ことによってのみ到達しうるものと定義しつつみずからにその三つの絶対条件を課し,〈いわゆる通常TV局の客観的報道なるもの,Aの意見,Bの意見をならべるといったものと画然と区別されるファクターは,右の3点のほかに,両者ともに正負にせよ関係を持続しぬく覚悟であろう〉とその〈新しい映画方法論〉を表明している。
執筆者:柏倉 昌美+広岡 勉
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… にもかかわらず,その後,世界の映画史を動かすに至る〈イギリス映画〉は生まれなかったというのが映画史家たちの共通の見解になっている。すでに29年にフランスの映画理論家レオン・ムーシナックは,〈イギリスはついに真のイギリス映画を1本も生み出しえなかった〉と書き,イギリスの理論家でありドキュメンタリー映画作家でもあるポール・ローサは,30年に出版した《今日に至る映画》の中で,外国映画の模倣にあまりにもたけていること,政府に寄りかかった映画製作,国産品擁護といった性格を指摘しながら,〈イギリス映画には実体がない〉と書いている。こういった歴史的評価はその後も変わらず,例えば80年にフランスで出版された《映画百科事典》の編著者ロジェ・ブーシノも,〈イギリスは映画史の出発点の形成にもっとも重要な貢献をしているが,その後はアメリカ映画に次いでフランス,イタリア,ロシア,スウェーデン,ドイツ,日本,デンマーク,メキシコといった各国の映画が世界映画史に与えたような影響はまったく与えていない〉とまで断じている。…
…1910年から16年まで北カナダ鉄道の地理調査隊に加わり,13年にエスキモーの生活を撮影したフィルム(上映時間が17時間30分におよんだと伝えられている)がトロントで編集中に事故で焼失したのち,フランスのレビヨン毛皮商会から5万ドルの出資をえ,15ヵ月間エスキモーと生活を共にして自然とたたかう狩猟家族の姿を記録した《極北の怪異》(1922)をつくり,記録映画の新しい道を開いた。単なる〈実写映画〉とは異なるこの画期的な記録映画に初めて〈ドキュメンタリー映画〉の名が冠せられた(名付親はジョン・グリアソン)。南太平洋の島に住むサモア人を〈パンクロマティック・フィルム〉を使って撮った《モアナ》(1926)のあと,W.S.バン・ダイク監督《南海の白影》(1928),F.W.ムルナウ監督《タブウ》(1931)という2本の劇映画への協力は信念の相違から途中で手を引くこととなったが,イギリスへ招かれてアイルランド西方の孤島で生きる人々を描いた《アラン》(1934),アメリカのスタンダード石油会社の出資による《ルイジアナ物語》(1948)などをつくり,ドキュメンタリー映画史に不滅の足跡を残している。…
…1956年にリンゼー・アンダーソンLindsay Anderson(1923‐94),カレル・ライスKarel Reisz(1926‐ ),トニー・リチャードソンTony Richardson(1928‐91)によって始められたイギリスのドキュメンタリー映画運動。彼らのつくった短編記録映画を,当時カレル・ライスが番組編成係をしていたナショナル・フィルム・シアターで特集上映した際に,アンダーソンがその番組を〈フリー・シネマ〉と銘打ったのがこの名称と運動の始まりである。…
※「ドキュメンタリー映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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