翻訳|ice skating
靴の底に金具を取りつけたスケートskateと呼ぶ滑走具をはいて氷上を滑走するスポーツ。靴底の金具はブレードblade(滑身)といい,縦に細長く,これが滑走の土台となっている。スケートをする場所はリンクrinkと呼ぶ。スケート競技としては,スピードスケート,フィギュアスケート,アイスホッケーの3種類がある。アイスホッケーについては当該の項目を参照されたい。
スキーが積雪地方の踏雪具として発達したのと同様に,スケートも湖や沼の多い氷の国の踏氷具を起源としている。石器時代から北欧地方の住民は,冬季結氷した湖沼を通行するため獣骨を利用した運搬用具を使用していた。これが娯楽にも用いられ,木材を併用した滑走具となり,さらに金属の発達とともに現在のスケートに発展した。古代スカンジナビアの住民が一種の獣骨製踏氷具をもっていたことは神話にも出ている。北方民族の踏氷技術はやがてドイツからオランダ,イギリスに伝わった。ヨーロッパ各地から発掘される遺物の獣骨にはところどころに穴があいているが,おそらくこの穴に紐を通して靴に結びつけて滑ったのであろうと思われる。一説には,木製,鉄製ともオランダ人の発明といわれるが,たしかにオランダでは12世紀から運河の建設が進み,冬季結氷した運河を滑走することは道路代りになるだけでなく,娯楽としても歓迎された。鉄製スケートはしだいに改良が重ねられ,17世紀にはいると,スポーツとしてのスケートの愛好家が増えていった。1742年(1642年ころともいわれる)には最初のスケート団体,エジンバラ・スケートクラブがスコットランドで設立され,72年にはフィギュアスケートの最初の技術書を,イギリスの砲兵士官ロバート・ジョーンズが著している。スケートが近代化されたのは19世紀後半で,1892年には世界各国から代表が集まって世界の統轄団体,国際スケート連盟International Skating Union(ISU)を創立,翌93年に第1回スピードスケート世界選手権大会をアムステルダムで,96年にはフィギュアスケート(男子)の第1回世界選手権大会をサンクト・ペテルブルグで開いた。スケート競技が冬季オリンピックの正式種目になったのは1924年フランスのシャモニーでの第1回大会からである。なお,1970年からは世界スプリント・スピードスケート選手権大会も開かれている。85/86年からワールドカップも開かれ,95/96年より種目別世界選手権が開かれている。
江戸時代から東北地方,北陸地方では,子どもが下駄の底に割り竹を結んだり草履にとりつけたりして冬の遊びにしていた。金具をつけたものは下駄スケートと呼ばれ,昭和初期まで用いられた。スポーツ史としては,1877年アメリカ人W.P.ブルックスが札幌農学校(北海道大学の前身)へスケート器具を持ってきたときから始まる。その14年後の91年3月には同校出身の新渡戸稲造がアメリカから3足のスケートを持ち帰った。学内ではこのスケートが爆発的人気を呼び,札幌はスケートの街と化すほどであった。また,1905年,中央線が諏訪湖畔へ通じるようになると,諏訪湖は日本におけるスケートの拠点となり,09年にはスピードスケートの諏訪湖一周大会が開かれた。これと並行してフィギュアスケートも研究され,20年には河久保子朗らによって日本最初のスケート団体,日本スケート会が誕生した。24年,3競技を包含した全国学生氷上競技連盟(現在の日本学生氷上競技連盟)が生まれ,翌25年に第1回学生選手権大会が松本市外六助の池で開かれた。日本スケート会は26年に国際スケート連盟に加盟,29年には大日本スケート競技連盟を結成した。これが現在の社団法人日本スケート連盟National Skating Union of Japan(NSUJ)である。結成の翌30年第1回全日本選手権大会を青森県八戸と日光で開催した。32年にはアメリカのレーク・プラシッドで開催された第3回冬季オリンピック大会に初めて日本代表選手を派遣した。なおアイスホッケーは72年日本スケート連盟から分離して国際アイスホッケー連盟に加盟,日本アイスホッケー連盟となっている。
スピードスケート王国として君臨してきたのはノルウェー,スウェーデン,フィンランドの北欧3国であるが,近年ではアメリカ,ロシア,オランダ,ドイツ,日本などが頭角を現している。なかでも,1912年の世界選手権で4種目を完全制覇し,14年につくった1500m世界記録が23年間破られなかったO.マティーゼン(ノルウェー),24年と28年のオリンピックで計5個の金メダルを獲得したC.ツンベルグ(フィンランド),28年と36年のオリンピックで4個の金メダルのI.バラングルード,52年に1万mで世界記録を出し,同年のオリンピックでは大差をつけて金メダル3個を獲得したH.アンデルセン(ノルウェー),56年と60年のオリンピックの500mと1500mに優勝したY.グリシン(ソ連),札幌オリンピック(1972)で500mを除いて三冠王となり,2週間後の世界選手権で4種目制覇したA.シェンク(オランダ),77年以後3年間の世界選手権大会と80年のオリンピック(5種目)で全種目に優勝し続けたE.ハイデン(アメリカ)らの名は永く記憶されるであろう。女子は世界選手権大会が1936年から,オリンピック種目が60年からと遅れたが,L.スコブリコーワ(ソ連)らの名選手を生んでいる。97年のワールドカップ,世界選手権大会(長野市)から新型のスケート靴,刃のかかと部分を固定しないスラップスケートslap skate(クラップスケートともいう)が使用されるようになった。
日本のスピードスケートは昭和期に入ると滑走技術,競技運営ともに著しく進歩したが,技術の点で日本をはるかにしのいでいたのが満州であった。1931年のヘルシンキの世界選手権大会に参加した木谷徳雄,石原省三,河村泰男の3選手は満州の出身で,翌年の第3回冬季オリンピック大会(レーク・プラシッド,アメリカ)にも内地の潤間留十とともに日本代表として出場している。次いで36年の第4回大会(ガルミッシュ・パルテンキルヘン,ドイツ)では石原省三が500mで第4位に入賞した。第2次大戦後,51年に国際復帰を果たした日本スピードスケート陣は3選手をダボス(スイス)の世界選手権大会に派遣し,内藤晋が500mに優勝した。国際交流が活発になるにつれて競技力も向上し,鈴木恵一は世界選手権の500mに3連覇,女子も長久保初枝,長屋真喜子の活躍がめざましかった。84年の第14回冬季オリンピック大会(サラエボ,旧ユーゴスラビア)の男子500mでは,北沢欣治がこの種目初の五輪メダル(銀メダル)を日本にもたらし,88年の第15回大会(カルガリー,カナダ)では橋本聖子が全種目に入賞,男子500mで黒岩彰が銅メダルを獲得した。92年の第16回大会(アルベールビル,フランス)の男子500mで黒岩敏幸が銀メダル,井上純一が銅メダル,女子1500mで橋本聖子が日本女子初のメダリスト(銅)となった。98年の第18回大会(長野)では,清水宏保が男子500mで金メダル,同1000mで銅メダル,女子500mでも岡崎朋美が銅メダルを獲得した。またショートトラックでは,西谷岳文が同競技初の金メダルに輝いた。
競技場は1周400mのダブルトラックを標準型とし,このほか1周384.18mのシングルトラック(内側半径25m)と1周111.12mの標準ショートトラックがある。ダブルトラックを使用するオリンピック,世界選手権,さらに日本選手権などの公式競技種目は,男子500m,1000m,1500m,5000m,1万m,女子は500m,1000m,1500m,3000m,5000mである。オリンピックでは,2006年の第20回(トリノ、イタリア)から,男女とも団体追い抜き(チームパシュート)が採用された。世界(日本)スプリント・スピードスケート選手権種目は男女とも500m,1000m(この2種目を2日間繰り返して行う)で,ショートトラックを使用する世界選手権種目は,男女とも500m,1000m,1500m,3000mである。
スピードスケート競技は古くから行われていたので,国際スケート連盟が創立されたころにはすでに競技規則などの原型はできあがっていた。約100年も前からダブルトラックを採用したのも研究の成果で,スピードスケートは両足を左右交互に滑るためコースの幅を広くする必要があり,そのためにはコースを二重にして走者に十分のレースを行わせる合理的な方法である。コースは標準5m幅とし,バックストレッチの中央で内側発進の走者と外側発進の走者が入れかわって1周すると400mになるようにつくられる。バックストレッチの中央には境界線をひかない。境界線は転倒しても危険のないように雪を盛り上げてつくるので,スノーラインと呼ぶ。雪のないときは木片を固定しないで10m間隔に配列する。現在は冷凍機の発達によってすべて人造の氷と雪が用いられ,札幌や長野のオリンピック競技場をはじめ,いずれも400mの人工リンクである。
2人の走者のダブルトラックレースは抽選で内側,外側のコースを決め,ピストルの合図で同時にスタートをし,バックストレッチでコースの入れかえをしてゴールに入る。セパレートコースによるタイムレースとも呼ばれる。両走者が同時にコースに入って衝突の危険のあるときは外側からの走者が優先してまず内側コースに入り,内側からの走者はこれに次いで外側コースに向かう。もし両走者が衝突または接触したときは内側からの走者が責任をとる。これは外側発進の走者の方が内側走者よりタイムにおいて優れているためである。世界選手権,日本選手権では,男女とも4種目を完走し,その結果を総合して優勝者を決める。順位の決定方法は,500mの所要タイムを単位として(40秒ならば40点),1500mは1/3,3000mは1/6,5000mは1/10,1万mは1/20を合計し,最も得点の少ない競技者から順位を決定する。ただしオリンピックでは各種目ごとに優勝者を決めている。一方,シングルコースのレースをオープンコースのレースともいい,数名以上の競技者を同時スタートさせる。国民体育大会など参加者の多い競技会で採用されている。このレースでは,責任先頭制と呼ぶ規約があり,レース中どの走者も定められた回数,定められた個所を先頭で通過する責任をもつ。もしこの回数の負荷責任を果たしていない選手は,1番でゴールインしても,負荷責任を完了している2番に1位を譲ることになる。これは走者同士のかけひきを正すための方法である。
近代フィギュアスケーティングをつくり上げた人にヘインズJackson Hains(1840-79)がいる。踊りと音楽とスケートを結びつけ,いわゆるフリースケーティングの祖となった人である。アメリカでダンスを修業,ウィーンに渡り,ここを本拠にして全ヨーロッパに音楽とダンスとスケートのフリースケーティングを普及させた。国際スケート連盟結成以後のフィギュア界に名をとどめているのはノルウェーの天才少女S.ヘニーである。10歳でノルウェー選手権に優勝,オリンピックの第2~4回大会に3回連続優勝,その後はプロとしてショースケーターに転じ,すばらしい演技を見せた。日本のフィギュアスケートは,新渡戸稲造がアメリカから持ち帰ったスケートで札幌農学校の学生たちが習い始めた外側へ曲がる技法が第一歩といえよう。ついで1915年ころ河久保子朗訳出による指導書《スケーティング》によってフィギュアスケートが形づくられていった。しかし著しい発展をみたのは第2次大戦後である。歴代の国際級選手には,戦前にオリンピック代表として活躍した老松一吉,帯谷竜一,稲田悦子,57年から日本選手権10連勝の佐藤信夫,64年のインスブルック冬季オリンピック大会5位の福原美和,77年の世界選手権で日本人として初めて3位となった佐野稔,79年の世界選手権3位,80年のレーク・プラシッド冬季オリンピック大会6位の渡部絵美らがおり,伊藤みどり(1989年世界選手権優勝,92年アルベールビル冬季オリンピック銀メダル),佐藤有香(1994年世界選手権優勝)がこれに続いた。2006年のトリノ冬季オリンピックでは,荒川静香が同競技初の金メダルを獲得した。
競技場は60m×30mの広さを標準としている。フィギュアスケートは,定められた図形を描くコンパルソリーフィギュアcompulsory figures(スクール・フィギュアともいう)とその図形を基礎にして滑るフリースケーティングfree skatingに大別される。また個人で滑るシングルスケーティングと,男女が1組になって滑るペアスケーティング,男女1組のアイスダンス,そして24名以下の男女で構成されるグループスケーティングの四つの種目がある。コンパルソリーフィギュアはフィギュアスケートの基本となってきたもので,4種類の滑り方から構成される。アウトカーブ(前進外曲滑走),インカーブ(前進内曲滑走),バックのアウトカーブ(後進外曲滑走),バックのインカーブ(後進内曲滑走)の四つで,いずれも左右の片足ずつ別々に滑る。さらにこの4種類を基本として17種の基本図形が考案され,これを前後左右で滑り69種の図形をつくりあげている。競技ではこの17種の基本図形のなかからいくつかの図形が選ばれて課題となる。しかしこのコンパルソリーフィギュアは,89/90年のシーズンを最後に廃止された。
フリースケーティングは,基本図形を適宜にとり入れて自由に滑走する。この場合,音楽のリズムに合うこと,優雅であること,などを心がける。さらに,シングル,ペアそれぞれに,ショートプログラムという種目がある。これはあらかじめ定められた8種類の要素(ジャンプ,スピン,ステップなど)を選手が自由に選んだ音楽に合わせて2分50秒以内に滑走する,フリースケーティングの課題競技である。なおアイスダンスでは,コンパルソリーダンス,オリジナルダンス,フリーダンスの3種目が演じられる。
競技はすべて国際スケート連盟の規定に準じて行われる。競技の成績はシングル,ペア,アイスダンスともにそれぞれの種目の成績を合計して決定される。フリーはシニアの場合,男子4分30秒,女子4分間を滑走する(ジュニアは男子4分,女子3分30秒)。フリーでは従来は技術点,芸術点ともに6点満点からの減点法による相対評価であったが、2003年以降は新採点システムが採用されている。新採点システムは,審判団をレフェリー1人,技術専門審判3人,ジャッジを最大12人で構成する。まず選手が特定の技(要素)を行うと,技術専門審判がそれを判定し,ジャッジが判定された技の出来具合を7段階で評価する。その合計点が総要素点(Technical Elements Score)となる。演技が終わったあと,ジャッジは演技全体(〈スケート技術〉〈要素のつなぎ〉〈演技力〉〈振り付け〉〈音楽の表現〉の5項目)を10点満点で採点する。これを総構成点(Program Components Score)といい,総要素点との合計点が選手の得点となる。
スピード,フィギュア,アイスホッケーの3種類の氷上滑走用具は,それぞれ滑走上能率よく滑るようつくってある。スピードスケート用はよりよく速く滑るよう,ブレードが革靴より前後に長くつくられている。しかもがんじょうで軽いことを条件とし,鋼鉄(ハガネ)のブレードは軽金属の円筒で包んで仕上げてある。フィギュアスケート用は回転を自在にするため短く,ブレードの氷との接触面は前後に弓形にそっている。
執筆者:両角 政人+編集部
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
編上げの靴の底に、ブレード(エッジ)とよぶ長い金具を取り付けた滑走用具(スケート)をはいて、氷上を滑走するスポーツ。アイススケートともいう。スケート競技にはスピードspeed(スピードスケート)、フィギュアfigure(フィギュアスケート)、ショートトラックshort track、アイスホッケーice hockeyの4種類がある。同じスケート滑走でも、スピード、ショートトラックおよびフィギュアはおもに個人競技、アイスホッケーは団体競技である。1965年(昭和40)ころまでは、山間の湖沼で自然氷を利用して滑っていたが、現在では人工氷が発達したので、一般スケートも競技会も人工氷を使用することが多くなっている。
[両角政人]
スケートの歴史はスキー同様に古く、石器時代にまでさかのぼるといわれている。ヒツジ、ウマ、トナカイなど動物の骨でつくった滑走用具が、北ヨーロッパで穴居生活の跡から発見されている。これらはスケート用のものではなく、湖沼に張り詰めた氷上の運搬用具と思われる。骨にはところどころに穴があいていて、いろいろの器具に結び付け、滑り用具にしたと考えられる。これらの滑走用具はまず骨製から木製のものにかわり、さらに鉄製のスケートへと移り変わったが、スポーツに用いられるようになったのは近代になってからである。最初はフィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの北欧人の間に始まり、ついでオランダ、イギリスに渡り、製鉄技術の進歩とともに各地へ急速に広まった。スケートが中世以降、レジャーからスポーツへと発展した最初の拠点はオランダである。オランダは雪が少なく、網の目のように発達したクリークは、冬季はことごとく結氷して絶好のスケート場となった。
スケートが競技として発達したのは18世紀後半からで、まずオランダで運河利用の女子スピード競技が行われ、前後して北ヨーロッパでも始まった。19世紀になってからは、フィギュアスケートが中央ヨーロッパ、ロシア、さらにアメリカで盛んになった。1892年には国際スケート連盟(ISU)が組織され、その翌年にはスピードスケートの男子世界選手権が始まり、フィギュアスケートの世界選手権大会も1896年から始まった。スケート競技は冬季スポーツの花となった。そして、第1回のオリンピック冬季大会が1924年1月25日から2月4日までフランスのシャモニーで開かれ、世界選手権大会とともに現在に至っている。
日本では、1877年(明治10)札幌農学校(北海道大学の前身)のアメリカ人教師ブルックスWilliam Penn Brooks(1851―1938)がスケート用具を持ってきたのが日本渡来の最初とされ、ついで1891年3月新渡戸稲造(にとべいなぞう)がアメリカから母校の札幌農学校へ3足のスケートを持ち帰って学生に滑らせている。札幌は日本におけるスケートの発祥の地となり、しだいに全国に広がった。1905年(明治38)長野県諏訪(すわ)湖地方に鉄道の中央線が開通してから、諏訪湖は日本におけるスケートの中心地となり、全国からスケートの愛好家が集まった。日本のスケートは学生を中心として発達し、1924年(大正13)早稲田大学、慶応義塾大学、東京大学、明治大学、日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)、旧制第二高等学校、旧制松本高等学校により全国学生氷上競技連盟(現在の日本学生氷上競技連盟の前身)が結成されて、翌年長野県松本の六助池で第1回学生スケート選手権大会が開かれた。これら学生のOBを中心に、1929年(昭和4)大日本スケート競技連盟(現在の日本スケート連盟、JSF)が組織され、翌年からスピード、フィギュア、アイスホッケー3種目の全日本選手権競技大会が八戸(はちのへ)、日光で始まった。
日本がオリンピック冬季大会に出場したのは1932年アメリカ、レーク・プラシッドの第3回大会からで、その後は第二次世界大戦終了直後のサン・モリッツの第5回大会を除いて毎回出場している。戦後は国際交流が盛んになり、オリンピック、世界選手権、各種の国際競技会に出場、1954年(昭和29)と1963年には札幌と軽井沢でスピードスケートの世界選手権大会が開かれ、さらに1972年には待望の冬季オリンピック大会が札幌で開かれた。この年アイスホッケー種目が日本スケート連盟から独立して日本アイスホッケー連盟をつくり、1975年(札幌)、1977年(東京)、1983年(東京)の3回にわたりアイスホッケーBグループ世界選手権を開いた。日本スケート連盟も1977年フィギュアスケート世界選手権大会を東京で開いて、国際交流は内外ともに盛んになった。1998年(平成10)には冬季オリンピックとしては日本で二度目となる長野大会が開催された。
[両角政人]
スピード、フィギュア、ショートトラック、アイスホッケー、それぞれ特色がある。スピード用はもっともスピードが出るようにブレード(滑身)の長さが靴より前後に長く、氷に接する面が直線的である。オリンピック・長野大会から多数の選手に使われるようになったスラップスケートslap skateは、つま先を支点としてかかと部分がブレードから離れる仕組みになっており、すこしでも長く氷面に接して押す力がかかるようになっている。また、ショートトラック用はスピードスケート用よりもブレードからの靴の位置が高く、カーブの滑走が容易にできるようになっている。フィギュア、アイスホッケーはブレードの長さが靴底いっぱいの長さで、容易に回転ができるようにスケートの前後が反っていてやや丸みがある。
[両角政人]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…氷上スケート競技の一種。雪や氷で閉ざされる期間の長い北ヨーロッパやロシアなどで,交通の手段として欠くことのできなかったスケートは,12世紀ころから娯楽として楽しまれるようになった。…
※「スケート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新