アンデルセン(読み)あんでるせん(英語表記)Hans Christian Andersen

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンデルセン」の意味・わかりやすい解説

アンデルセン
あんでるせん
Hans Christian Andersen
(1805―1875)

デンマークの作家。本国ではアンナセンという。フュン島オーゼンセで貧しい靴屋の子として4月2日に生まれた。父親は好学の人で、幼い息子に『アラビアン・ナイト』や劇作家ホルベアの作品を好んで読み聞かせたり人形芝居を教えたが、ナポレオン崇拝家で軍隊に志願して出征、ナポレオン軍が敗れ、彼自身は心身を害して帰国し、息子が11歳のときに狂死する。母は父以上に貧しい家に生まれ、文字も読めなかった。そのような家庭に育ったので、彼は小学校もろくに通わなかったが、読書力は旺盛(おうせい)で早くから文学に親しみ、また父のつくってくれた人形を動かして劇のまねごとをするのを好んだ。

 オーゼンセへ巡業にきた王立劇場の劇を見てから舞台にあこがれ、堅信礼を済ますとほとんど無一文で首都コペンハーゲンに飛び出し、俳優として舞台に立つことを願った。たちまち生活に追い詰められたが、天性の純朴と向上の熱意とは次々に同情者や後援者をみいだし、詩人バッゲセン、作曲家ワイセらをはじめ、宮中顧問官で王立劇場顧問だったコリンの後援を受けることになり、やがてその口利きで遅まきながらスラーイェルセのラテン語学校に給費生として入学した。校長マイスリング夫妻に苦しめられて、神経衰弱で卒業を前に退学したが、23歳でコペンハーゲン大学に入学、その直後ユーモラスな旅行記『ホルメン運河からアマーゲル島東端までの徒歩旅行』(1828)を自費出版した。これが好評で迎えられ、ついで劇『ニコライ塔上の恋』を書いて王立劇場で上演され、学業を放棄して作家の道に踏み出す。そのころまた、幼時祖母から聞いた昔話『幽霊』(のちに改作して『旅仲間』)を書いて、『詩集』(1830)に付載、これが童話の第一作となった。

 しかし、これらでいちおう文壇に出たものの、正規の勉学をしなかった彼の文章には、とかく文法上の誤りや破格があってしばしば酷評され、また失恋に悩んだ。それを見かねたコリンらに外遊を勧められ、1831年にドイツに遊んでティーク、シャミッソーらと交わる。以後「旅は私の学校」「旅することは生きること」として、生涯に29回も国外旅行をする。その第2回は1833~1834年のドイツ、フランス、スイスを経てイタリアに遊んだ旅で、これも二度目の失恋の痛手をいやすためのものであったが、イタリアの風物に感激して『即興詩人』(1835)の想を得、ローマで書き始めて帰国してこれを完成。これにより彼の名声は国外にまで広がった。同年、作品4編を収めた最初の童話集を刊行。『即興詩人』のような作の書ける人が、なぜ童話のような子供だましのものを書くかと最初は不評であったが、『人魚姫』などを含む第三童話集を出してからは、童話こそ彼の本領であることが広く認められ、いよいよこれに力を注いで、近代童話の確立者となった。生涯に書いた童話は約150編、今日に至るまでなお「童話の王様」の地位にある。その間に、童話以外にも『さびしきバイオリンひき』『幸運のベール』などの小説、珠玉の連作短編集『絵のない絵本』、劇、詩、紀行、自伝などを書いて世界的名声を得たが、私生活では幾度恋をしても報いられず、1875年8月4日その生涯を独身のままで閉じた。

[山室 静]

アンデルセン童話

アンデルセンの童話全集は『童話と物語』と題されているとおり、童話以外に青少年向きの物語をも含んでいる。『砂丘の話』『氷姫』『プシケ』などは後者に属し、力作ではあるが少年少女にはやや理解困難である。童話には、民話を再話したものと純創作とがあるが、前者は数が少なく、それも主として初期に書かれて、最初の童話集などは4編中3編までがその系統の作だったが、しだいに創作童話に力を注ぐことになった。『火うち箱』『小クラウスと大クラウス』『旅仲間』『野の白鳥』『ばかのハンス』『お父さんのすることにまちがいはない』『パンを踏んだ娘』などは民話系の作のおもなもの。そのもっとも成功したものは『野の白鳥』と『裸の王様』であろう。彼はグリムなどと異なってかなり自由に再話している。

 本領である創作童話はほぼ3期に分けられ、30歳のときの『イーダの花』『親指姫』を最初に、『人魚姫』『ヒナギク』『しっかり者のスズの兵隊』『みにくいアヒルの子』などが初期の代表作。大科学者エールステッドの教え、「自然の法則は神の思想であり、自然はそのまま精神、現実そのものが奇跡なのだ」に従って、それまでのロマン主義から現実に目を転じたところに成立する。作者はまだ若かっただけに筆致はみずみずしく作風も明るい。中期は39歳ごろからで、不幸な恋をしたりして作品がしだいに重たく暗くなり、『マッチ売りの少女』『モミの木』『赤い靴』『ある母親の話』などの名作を出すが、恋人イェンニイと最後的に別れてからはしばらく童話がまったく書けなくなる。後期は50歳に達して自伝を書いて自信を回復してからで、『一つの莢(さや)から出た五粒の豆』『駅馬車できた十二人』『庭師と主人』などが代表作。別に『あの女はろくでなし』は彼の薄幸な母親を記念する特異な作で、気分も他の童話とはやや異なっている。

[山室 静]

『高橋健二訳『アンデルセン童話全集』全5巻(1979~1980・小学館)』『大畑末吉訳『完訳アンデルセン童話集』全7巻(1981・岩波書店)』『山室静訳『アンデルセン童話集』全3冊(角川文庫)』『大畑末吉訳『アンデルセン自伝』(岩波文庫)』『日本児童文学学会編『アンデルセン研究』(1969・小峰書店)』『山室静著『アンデルセンの生涯』(1975・新潮社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アンデルセン」の意味・わかりやすい解説

アンデルセン
Andersen, Hans Christian

[生]1805.4.2. オーデンセ
[没]1875.8.4. コペンハーゲン
デンマークの童話作家,小説家。貧しい靴屋の子として生れ,堅信礼を済ますとコペンハーゲンに出て歌手,俳優を志すが失敗,王立劇場支配人コリンの援助でスラーゲルセの高等学校へ入学,ようやく前途に光明を見出す。 1828年コペンハーゲン大学に入学,翌年最初の重要な作品『ホルメン運河からアマール島東端までの徒歩旅行』 Fodreise fra Holmens Canal til Østpynten af Amagerを発表。失恋の苦しみを癒やすために出た2度目の大陸旅行で書いた小説『即興詩人』 Improvisatoren (1835) で地歩を確立,同年最初の『童話集』 Eventyrを出し,世界無比の童話作家の道を歩み出す。『人魚姫』 Den lille Havfrue,『みにくいアヒルの子』 Den grimme Ælling,『モミの木』 Grantræet,『裸の王様』 Kejserens nye Klæder,『マッチ売りの少女』 Den lille pige med Svovlstikkerneなどはその最も有名な作品で,いずれも体験に裏づけられた名作。ほかに『しがないバイオリンひき』 Kun en Spillemand (37) ,『生きるか死ぬか』 At være eller ikke være (57) などの長編,珠玉の短編集『絵のない絵本』 Billedbog uden Billeder (40) ,30編ほどの戯曲,紀行,詩,数種の自伝などおびただしい作品がある。外遊 29回,一生を旅から旅に過し,ついに家庭をもたなかった。

アンデルセン
Andersen, Hjalmar

[生]1923.3.12. ロドイ
[没]2013.3.27. オスロ
ノルウェーのスピードスケート選手。フルネーム Hjalmar Johan Andersen。1950年から 1952年までの 3年間,世界選手権大会,ヨーロッパ選手権大会,ノルウェー選手権大会の王座に君臨し,1952年オスロ・オリンピック冬季競技大会の 5000mと 1万mの優勝候補と目された。オスロ大会では予想を上回り,1500mで優勝,5000mでオリンピック史上最大の 11秒差で 2位の選手をくだし,1万mでは 2位の選手より 25秒近く速い世界記録を樹立して圧勝。この世界記録は 8年間破られなかった。オスロ大会後に現役を退いたが,1954年に復帰,ノルウェー選手権大会で 4度目の優勝を果たした。ノルウェー政府はアンデルセンの功績をたたえて,1994年リレハンメル・オリンピック冬季競技大会のスピードスケート会場バイキングスキーペットに彼の像を建てた。(→アイススケートオリンピック冬季競技大会

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