日本大百科全書(ニッポニカ) 「タイソン朝」の意味・わかりやすい解説
タイソン朝
たいそんちょう
ベトナム、黎(れい)朝(レ朝)の末、タイソン党(西山党)の乱を起こした阮文岳(げんぶんがく)(グエン・バン・ニャク)、阮文呂(グエン・バン・ルウ)、阮文恵(グエン・バン・フエ)3兄弟が建てた王朝(1778~1802)。阮文岳がフエ(ユエ)の阮氏を滅ぼしたのち皇帝を名のり、クイニョン(帰仁)に都を定めたのに始まる。最初はクアンガイ(広義)以南のみを領したが、1786年阮文恵が北征して鄭(てい)(チン)氏を滅ぼしてのち、領域を全国に広げ、これを3兄弟で分割統治した。南部は阮文呂(東定王)、クアンナム(広南)以北は阮文恵(北平王)に統治を委任し、クアンガイからビントアン(平順)までは阮文岳(中央皇帝)が直接統治した。しかし、阮文岳と阮文恵はこのころからすこぶる不和で阮文恵は、鄭氏の滅亡後不安を抱いた黎帝の要請で、清(しん)軍がベトナムに来侵すると、急遽(きゅうきょ)自ら皇帝(光中帝)の位に上り、独力で清軍を撃破撤退させ、黎朝を滅亡に導くなど、阮文岳に対抗して大いに威を張った。しかし、このような内部対立はタイソン朝の支配力を弱める結果となり、阮文恵、阮文岳の相次ぐ死と相まって、フエの阮氏の遺族阮福映(げんふくえい)(グエン・フク・アイン)の阮氏復興の戦いを勝利に導き、王朝を急速に滅亡させた。タイソン朝の政治で特筆すべきことは、とくに阮文恵が即位後、文人、学者を優遇し、またベトナムの国字チュノムを重んじてその公的使用を盛んにするなど、民族意識の高揚を図ったことである。
[藤原利一郎]