日本大百科全書(ニッポニカ) 「タイソン党の乱」の意味・わかりやすい解説
タイソン党の乱
たいそんとうのらん
ベトナムにおいて、タイソン(西山)村出身の阮文岳(げんぶんがく)(グエン・バン・ニャク)ら3兄弟とその一党が起こし、1771年から1802年まで続いた内乱。これより先ベトナムでは、無力な黎(れい)朝(レ朝)の下でハノイに拠(よ)る鄭(てい)(チン)氏とフエ(ユエ)に拠る阮氏が国土を二分して争っていたが、阮氏の苛政(かせい)による人心離反などが原因となり、乱は起こると急速に広がり、クイニョン(帰仁)からクアンガイ(広義)までがたちまちタイソン党の手に落ちた。ところが、これに乗じ鄭氏が遠征軍を南下させたため、阮氏は居城フエを捨て南部に逃れた。そこでタイソン党は鄭氏と和し、転じて南部の阮氏を攻め、1777年これを滅ぼし、翌年には阮文岳が帝位につきクイニョンを都とした。しかし、やがて阮氏の遺族阮福映(げんふくえい)(グエン・フク・アイン)が阮氏の復興を図ったため、タイソン党はこれを攻撃する一方、86年には阮文岳は、弟の阮文恵(グエン・バン・フエ)を北征させ鄭氏を滅ぼした。そのあと阮文岳は3兄弟で全土を三分することにしたが、その分け方などが原因となり、タイソン内部に争いを生じた。このころ黎朝はなお残存したが、黎帝救援の名目で来侵の清(しん)軍を阮文恵が撃破すると、昭統帝は清に亡命し、黎朝は滅亡した(1789)。一方当時タイソン党の内部争いに乗じ、南部を奪回しつつあった阮福映は、こののち、阮文恵、阮文岳らの相次ぐ死亡によるタイソン党の弱体化や、フランス人らの援助に力を得て、タイソン党との戦いを有利に進め、クイニョンなど要地を次々と奪い、1802年には完全に乱を平定し、阮朝を創立した。しかし、阮福映がこの乱でフランス人の援助を受けたことは、後のフランスのベトナム侵略の遠因となった。
[藤原利一郎]