タルバガタイ条約(読み)たるばがたいじょうやく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「タルバガタイ条約」の意味・わかりやすい解説

タルバガタイ条約
たるばがたいじょうやく

1864年、中国の清(しん)朝とロシアが、蒙古(もうこ)西部新疆(しんきょう)と、シベリア~ロシア領中央アジアとの国境定め条約タルバガタイ(塔爾巴哈台)は、新疆ウイグル自治区北西隅にある城市。1864年、清朝伊犂(いり)将軍明誼(めいぎ)とロシアのイリ総領事ザハロフが同地で会議を開き、全文10条の本条約を締結して、未定であった国境線を確定した。国境線は、北東方のシャビン・ダバガから、大アルタイ山、ザイサン湖北辺、マニト・ガトゥルガン、アルタン・テブシ、アラタウ山を経て、パミールに至る線である。清朝はこれによってタンヌ・ウリヤンハイ地方をロシアに譲る形になった。その後、1881年に改訂イリ条約によって、清はさらにイリ地方の一部を失い、その結果、現在の中央アジアの中国と旧ソ連構成各国との国境線が定まった。

[佐口 透]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「タルバガタイ条約」の意味・わかりやすい解説

タルバガタイ(塔爾巴哈台)条約
タルバガタイじょうやく

1864年 (清,同治3年) に結ばれたロシアと中国清朝間の国境条約。中国,新疆ウイグル自治区のタルバガタイで結ばれたためにこの名がある。 1727年 (雍正5年) に結ばれたキャフタ (恰克図) 条約の跡を継いで,モンゴル西部,新疆とシベリア,ロシア領中央アジアの国境を定めたもの。全部で 10条から成り,第1~3条は具体的な国境を定め,第5条は属地主義による住民の帰属決定,第6条は界標の設置を決めた。 1869,70年 (同治8,9年) にはこの第6条に基づきコブド界約,ウリヤスタイ界約,タルバガタイ界約が結ばれ,界標が置かれた。しかしのちに何度か改訂された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「タルバガタイ条約」の解説

タルバガタイ条約
タルバガタイじょうやく
Tarbaghatai Treaty

1864年ロシアと清が中央アジアのタルバガタイで国境を定めた条約
ロシア・清間の外モンゴル東側国境は,1727年のキャフタ条約でシャビン−ダバカまで定まっていたが,1860年の北京条約にもとづいてコーカンドに至るまでの国境を確定するため,清の明誼 (めいぎ) とロシアのイヴァン=ザハロフが締結した。タルバガタイは,新疆 (しんきよう) (シンチヤン) ウイグル自治区北西部の地名

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世界大百科事典(旧版)内のタルバガタイ条約の言及

【塔城】より

…清朝時代,露・清間の貿易の要地として重視され,1851年(咸豊1)のイリ通商条約によってロシア人に開放されて以来,ロシア人の新疆における貿易活動の中心地となった。露・清間で64年(同治3)および70年にこの地で結ばれたタルバガタイ条約は,シャビン・ダバガからパミール高原に至る露・清間の国境の大勢を決定したものとして重要。【間野 英二】。…

※「タルバガタイ条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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