1727年(雍正5)露清間で結ばれた条約で,1860年(咸豊10)の北京条約に至るまで両国間関係の基本を規定した。キャフタ(恰克図)はこの条約により建設された町で,清朝側のアルタン・ブラク(買売城)と新国境をはさんだ位置にある。ロシアの東シベリア進出とともに,露清間には紛争が発生したが,1689年(康熙28)のネルチンスク条約で,アルグン川を国境とすることが決まり,公式交易も始まった。しかしモンゴル地区の国境は未画定であり,また交易も中断しがちであった。そこでロシアは1725年代表を送り清朝と交渉させ,キャフタ条約を締結した(批准は1728)。条約は全11条,満州文・露文・ラテン文よりなり,モンゴル地区(アバガイト~シャビナダバガ)の国境画定,逃亡者の処分,北京および国境での通商規定,北京におけるロシア正教会寺院・語学研修生の設置,使節・文書の交換規定等を定めた。この条約の特質は,国際法上の互恵平等の原則にもとづきながら,清朝の朝貢制度とも矛盾しないよう配慮がなされている点であり,締結により露清関係は19世紀中ごろまで安定を迎えることとなる。交易場として建設されたアルタン・ブラクにおける両国の貿易は,この安定のなかでロシア側の毛皮,ラシャと清の綿布,絹布,茶などが輸出入されたのである。
執筆者:中見 立夫
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1727年に清(しん)とロシアが、ロシア、モンゴル国境にあるキャフタКяхта/Kyahtaで結んだ条約。ネルチンスク条約後、盛んになってきたロシアの北京(ペキン)貿易をめぐって紛争が起こったので、この問題を解決すると同時に、両国関係を全面的に調整した条約。交渉は北京および境界地域で行われ、1728年にキャフタで批准交換をした。代表はロシアのブラディスラビチ・ラグージンスキーと清の査弼納(チャビナ)ら。11か条からなる。要点は、次のとおりである。
(1)東はアルグン川、西はシャビナイ嶺(れい)にわたる境界(概略現在のロシア連邦とモンゴル国境)を画定し、ウディ川付近の境界は未画定のままとした。
(2)逃亡者の引き渡しと処罰。
(3)ロシアの北京貿易は4年に1回、人員は200名に限り、新たに国境のキャフタと満州国境のツルハイトゥに交易場を開く。
(4)北京にある会同館を専用の俄羅斯(オロス)館とし、ギリシア正教教会の設置と、聖職者および語学研究の留学生の滞在を認める。
(5)外交と通商を区別し、外交交渉はロシアの元老院(セナート)と清の理藩院の間で行う。
この条約の締結後、北京貿易は衰退し、キャフタ貿易が隆盛になった。1768年には逃亡者の処罰を規定した第10条が改定され、1860年の北京条約によってキャフタ条約は廃棄された。
[吉田金一]
『吉田金一著『近代露清関係史』(1974・近藤出版社)』
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1727年,バイカル湖南の街キャフタで締結された露清間の条約。11カ条からなる。ロシアとモンゴルとの国境の画定,3年を周期とするロシア隊商の北京への通商往来の許可,両国国境における交易場の新設,越境逃亡者問題などを規定した。以後19世紀中葉まで両国の関係は表面的に安定したが,実際には紛争が少なくなく,交易の支障をしばしば招来した。
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