インド中西部,マハーラーシュトラ州中央部アウランガーバード市西北西約13kmの旧都。いまは小村であるが,比高180mの急峻な孤立岩丘があり,デカン高原上の交通路の結節点を扼する戦略的要衝を占める。12世紀末にデカン高原西部に覇を唱えたヤーダバ朝の首都となり,デーバギリDevagiri,デーオギリDeogiriとよばれた。1327年にはトゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルク王が,デカン高原征服の意図のもとにデリーからここに遷都し,〈富の都〉を意味する現名に改名した。このとき彼はデリーの市民を強制移住させたが,帰還希望者が続出し,1334年にはデリーに再遷都した。現存する岩丘上の城塞と麓の廃都はほぼ当時のものである。以後,諸王国の争奪の地となった。廃都に立つチャーンド・ミーナール(〈銀の塔〉の意)は,15世紀半ばにここを攻略したバフマニー朝のアラー・ウッディーン・アフマド2世により建設された征服記念塔である。
執筆者:応地 利明
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…彼の時代のデリーや,インドの他の情勢については,大旅行家のイブン・バットゥータがその旅行記で詳しく記している。ムハンマドはデカン,南インド経営のため,現在の西デカンのアウランガーバード付近に,ダウラターバードDaulatābād(〈富の町〉の意)の大城塞を築いたことでも知られている。 トゥグルク朝が弱体化した時,1398年,ティムールの軍がデリーにまで侵入し,北インドは政治的混乱に陥った。…
…彼は帝国支配のためさまざまな改革を行い,とくにデカン,半島南端支配のため,デカンのデーバギリDevagiriの地に,新都城を建築した。このダウラターバードDaulatābād(〈富の町〉の意)に,デリーから住民を強制的に移住させたといわれるが,彼の目的は,新首都建設とデリーの放棄というよりも,デリーとは別の第二の首都をつくることにあったともいわれている。14世紀半ばに,デリー・サルタナットは,短期間ながらも大帝国にふさわしい体制を整えるにいたった。…
…彼の時代のデリーや,インドの他の情勢については,大旅行家のイブン・バットゥータがその旅行記で詳しく記している。ムハンマドはデカン,南インド経営のため,現在の西デカンのアウランガーバード付近に,ダウラターバードDaulatābād(〈富の町〉の意)の大城塞を築いたことでも知られている。 トゥグルク朝が弱体化した時,1398年,ティムールの軍がデリーにまで侵入し,北インドは政治的混乱に陥った。…
…彼は帝国支配のためさまざまな改革を行い,とくにデカン,半島南端支配のため,デカンのデーバギリDevagiriの地に,新都城を建築した。このダウラターバードDaulatābād(〈富の町〉の意)に,デリーから住民を強制的に移住させたといわれるが,彼の目的は,新首都建設とデリーの放棄というよりも,デリーとは別の第二の首都をつくることにあったともいわれている。14世紀半ばに,デリー・サルタナットは,短期間ながらも大帝国にふさわしい体制を整えるにいたった。…
※「ダウラターバード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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