トゥグルク朝(読み)トゥグルクちょう(英語表記)Tughluq

精選版 日本国語大辞典 「トゥグルク朝」の意味・読み・例文・類語

トゥグルク‐ちょう‥テウ【トゥグルク朝】

  1. ( トゥグルクはTughluq )[ 異表記 ] ツグルク朝 インドのイスラム王朝一つ。一三二〇年ハルジー朝に代わってトゥグルクが建てデリーに都した。一三九八年チムールの侵略を受け、一四一三年サイイード朝に代わられた。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「トゥグルク朝」の意味・わかりやすい解説

トゥグルク朝 (トゥグルクちょう)
Tughluq

北インドのムスリム王朝。1320-1413年。いわゆるデリー・サルタナット第3番目のトルコ系王朝で,ハルジー朝に代わって,ギヤースッディーン・トゥグルクGhiyāth al-Dīn Tughluq(在位1320-25)によりデリーを都として建てられた。第2代王ムハンマド・ブン・トゥグルクMuḥammad b.Tughluq(在位1325-51)と次王フィーローズ・シャー・トゥグルク(在位1351-88)のときが最盛期。ムハンマドのときその領域は最大となり,一時的ながらヒマラヤからコモリン岬までを支配した。彼は帝国支配のためさまざまな改革を行ったが,とくにデカン,半島南端支配のため,デカンのデーバギリDevagiriの地に,新都城を建築した。

 このダウラターバードDaulatābād(〈富の町〉の意)に,デリーから住民を強制的に移住させたといわれるが,彼の目的は,新首都建設とデリーの放棄というよりも,デリーとは別の第二の首都をつくることにあったともいわれている。14世紀半ばに,デリー・サルタナットは,短期間ながらも大帝国にふさわしい体制を整えるにいたった。1398年のティムールの軍の侵入によって,事実上,王朝は崩壊していった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トゥグルク朝」の意味・わかりやすい解説

トゥグルク朝
トゥグルクちょう
Tughluq

インド,デリー・サルタナット 3代目の王朝 (1320~1413) 。ハルジー朝武将であったギヤース・ウッディーン・トゥグルクが創始した。彼は現在のニューデリー市南郊に王都を建設し,トゥグルカーバードと名づけた。2代の王ムハンマド・ビン・トゥグルク (在位 1325~51) の時代に最盛期に達した。有名な旅行記を書いたイブン・バットゥータはムハンマドの王宮に長く滞在し,その旅行記にムハンマドの治世について数多く書き残している。ムハンマドは 1327年デカン北部の古都デオギリに遷都し,ダウラターバードと改称したが,混乱が続き,7年後にまたデリーに遷都した。しかしデリーには再び昔日の繁栄は戻らなかったという。第3代王フィーローズ・シャーの時代には,先王の治世末期の混乱を治めて,公共事業,土木事業を起したが,特に彼の築いた王城フィーローザーバードや水道は有名である。また彼の時代にはアフィーフとバルニーによって同名の2種の歴史書『ターリーヘ・フィーローズシャーヒー (フィーローズ・シャーの歴史) 』 Ta'rikh-i Firūz Shāhiが書かれたが,これらはトゥグルク朝に関する基本史料となっている。彼の死後トゥグルク朝は急速に衰え,1413年に滅亡した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「トゥグルク朝」の意味・わかりやすい解説

トゥグルク朝
とぅぐるくちょう
Tughluq

インドのデリー・サルタナット五王朝の三番目のトルコ系王朝(1320~1413)。ハルジー朝の老将ギヤースッディーンによって創設され、壮大な都市トゥグルカーバードが造営されたが、その子ムハンマド・シャーMuhammad Shāh(在位1325~51)の治世にこの王朝は最盛期を実現した。彼は新たにデカン高原の一角にドーラターバード(富の都の意)と称する第二の首都を造営し、彼の支配権力を帝国体制にまで高めようとした。このスルタンの治世の状況の一端はイブン・バットゥータの記録からもうかがえる。ムハンマド・シャーの政策は強権に基づいたために無理が多く、とくに強引な経済政策と相まって地方権力の反乱を招いた。次のフィーローズ・シャー(在位1351~88)の治世には一時小康を保ったが、その死後には王朝権力は弱体化し、とくに14世紀末葉のティームールの北インド侵略後、急速に衰退していった。

[荒 松雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「トゥグルク朝」の解説

トゥグルク朝(トゥグルクちょう)
Tughluq

1320~1413

デリー・サルタナットの第3の王朝。トルコ系の地方総督ギヤースッディーン・トゥグルクが,ハルジー朝を倒して樹立。第2代の王ムハンマド・ビン・トゥグルク(在位1324/25~51)は,一時デカンを征服し,デリー・サルタナット期の最大版図を実現したが,その後諸反乱に悩まされた。次の王フィーローズ・シャー・トゥグルクはよく繁栄を回復したが,その後衰退が進み,1398年のティムール軍の侵入により,同朝は事実上滅亡した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「トゥグルク朝」の解説

トゥグルク朝
トゥグルクちょう
Tughlug

1320〜1413
デリー−スルタン王朝の3番目の王朝
ギヤース=ウッディーン=トゥグルク(在位1320〜25)が創立。彼はトルコ人とインド人の間に生まれ,ハルジー朝末期の将軍となり,王を暗殺してみずから王位についた。9代続いたが,ティムールの攻撃で無力化し,サイイド朝にとって代わられた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のトゥグルク朝の言及

【デリー・サルタナット】より

…デリーに都を置き,ムスリムの君主(スルタン)が支配したため,この名称で呼ばれ,デリー・スルタン朝,デリー諸王朝とも総称される。普通,歴史的には奴隷王朝(1206‐90)に始まり,ハルジー朝(1290‐1320),トゥグルク朝(1320‐1413),サイイド朝(1414‐51),ローディー朝(1451‐1526)までの5王朝,320年間を指していうが,その語の意義上からは,スール朝(1538‐55),ムガル帝国(1526‐38,1555‐1858)までも含んでよい。 前述の5王朝についていえば,最後のローディー朝のみがアフガン系の君主で,他の4王朝の君主はすべてトルコ系である。…

※「トゥグルク朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android