トゥールポアティエの戦(読み)トゥールポアティエのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「トゥールポアティエの戦」の意味・わかりやすい解説

トゥール・ポアティエの戦 (トゥールポアティエのたたかい)

732年にフランク王国の宮宰カール・マルテルが,フランス西部,トゥールToursとポアティエPoitiersの間において,イスラム教徒の軍を撃退した戦闘。729年スペインの地方総督アブド・アッラフマーン‘Abd al-Raḥmān al-Ghāfiqī(?-732)に率いられたイスラム軍は,ロンスボー(ロンセスバリェス)の峠を通ってピレネー山脈を越え,ガスコーニュ地方を襲い,さらにボルドーを占領したうえ,ガロンヌ川右岸でアキテーヌ公ウードの軍を粉砕した。この余勢を駆ってアブド・アッラフマーンは,キリスト教世界最大の聖地の一つである,トゥールのサン・マルタン修道院を目指して北上した。一方,敗北したウードはやむなく宿敵カール・マルテルのもとに赴いて,その援軍を請うた。こうして732年10月25日,アウストラシア,ブルグントの連合軍を率いるカール・マルテルとイスラム軍が,ポアティエの北方,トゥールに通ずる旧ローマの軍道沿いに位置するムセ・ラ・バタイユで激突することになった。この戦闘でアブド・アッラフマーンは戦死して,イスラム軍は敗走した。

 この戦いについては,信頼のおける史料が非常に少ないこともあって,有名なわりには不明な点が意外と多い。戦闘が行われた日付や場所について異説があるほか,イスラム軍のガリア侵入の意図に関しても,略奪説と領土の征服説に見解が二つに分かれている。さらに歴史上の意義についても,〈西洋の運命を決した世界史上の最大事件の一つ〉といった誇張した見方は今日では姿をひそめているが,依然として〈西洋文明の優位〉を強調する意見もみられる。またアキテーヌの地方主義の立場から,この戦いよりはむしろ,西欧においてイスラム教徒が被った最初の大敗北である,721年のトゥールーズの戦におけるアキテーヌ公の勝利のほうを重視して,結局732年の戦いはフランク王国によるガリア支配の死活にかかわる問題であって,〈ウードを粉砕したアブド・アッラフマーンなくしてはカール大帝の存在は想像できない〉とする見解もある。
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百科事典マイペディア 「トゥールポアティエの戦」の意味・わかりやすい解説

トゥール・ポアティエの戦【トゥールポアティエのたたかい】

フランク王国の宮宰カール・マルテルが,イベリア半島から侵入したイスラム軍を西フランスのポアティエPoitiersとトゥールToursの間で732年に撃退した戦い。これによりイスラム勢力の西欧進出が阻止され,キリスト教世界が守られたとされる。

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世界大百科事典(旧版)内のトゥールポアティエの戦の言及

【ウマイヤ朝】より

…北アフリカ征服は,670年ウクバ・ブン・ナーフィーのカイラワーン建設により本格化し,711年ターリク・ブン・ジヤードが,712年ムーサーがイベリア半島に上陸し,その大部分を制圧した。のち,イスラム軍は732年トゥール・ポアティエの戦でフランク軍にその北進を阻止されたが,その後も734年にはローヌ渓谷に,743年にはリヨンに達した。他方,ビザンティン領の小アジア,東地中海島嶼へも定期的遠征が行われ,とくに677‐679,717,718年の3回,首都コンスタンティノープルの包囲攻撃が行われた。…

【カロリング朝】より

…アウストラシア宮宰ピピン1世とメッツ司教アルヌルフとの家系から生じ,しだいに全宮宰職を獲得した。特にカール・マルテルトゥール・ポアティエの戦での勝利(732)は,この家系の令名と実力とを高め,その子ピピン3世は王をしのぐ実権を握っていた。当時の西欧は,メロビング朝の衰退に伴い,ビザンティン帝国,イスラム教徒,スラブ族等にかこまれた崩壊寸前の小島のごとき状態にあり,これを統一させて救うために,教皇ザカリアスは,真に実力あるものが王権を握るべきであるとの意向を示し,聖ボニファティウスはフランク人をして,ピピン3世をフランク王に選ばせ,彼に塗油した(752年。…

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