フランク王国(読み)ふらんくおうこく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランク王国」の意味・わかりやすい解説

フランク王国
ふらんくおうこく

古ゲルマン人のうち、西ゲルマン系のフランクFrank人の建てた王国(486~987)。部族国家から発展し、しだいに他のゲルマン諸部族を征服・統合し、ピレネー山脈からエルベ川に至る西ヨーロッパの大部分を含む大帝国となり、民族大移動後の混乱を収拾して、ヨーロッパの政治的・文化的統一を実現した。フランク王国は、西ヨーロッパ最初のキリスト教的ゲルマン統一国家として、キリスト教文化および中世の諸制度の母体となるとともに、ドイツ、フランス、イタリアなどの諸国家が、その分裂・崩壊の過程のなかで誕生した。

[平城照介]

王国の成立と推移

フランクという名称が史料に最初に現れるのは3世紀中ごろで、フランクは、おそらくカマビー、ブルクテール、カッティーなど、ライン川中・下流東岸の諸部族を中核とし、多くの小部族の混成によってできあがったと考えられる。4世紀初頭以来、サリ支族、リブアリ支族、上フランク支族の三大グループが形成されたが、そのうちサリ支族は、5世紀初頭西進して、シェルデ川流域にまで広がった。そのころパーグス(郡)の小王として台頭してきたのがメロビング家である。この家から出たクロービス王は、サリ支族を統一し、さらにリブアリ、上フランク両支族を併合して、5世紀末にフランク王国を樹立した。

 クロービスの統一によって成立したメロビング朝フランク王国は、その後他のゲルマン系諸部族を次々と征服、統合して発展したが、7世紀後半、王国の実権は、宮宰職を務めるカロリング家によって握られ、751年同家のピピン(小)はカロリング朝を開始する。その子カール大帝(シャルルマーニュ)の治下に王国は最盛期を迎えるが、843年その広大な版図は3人の孫たちの間に分割され、事実上三王国に分裂するに至る。両朝支配による王国の政治史的変遷は、別項「メロビング朝」「カロリング朝」に譲り、以下には、王国の社会構成、行政組織、経済について述べる。

[平城照介]

王国の社会構成

フランク王国はフランク人のみでなく、征服・拡大の結果、旧ローマ系住民をはじめ、他のゲルマン系民族をも含んでおり、社会構成も地域によって大きな相違を示す。王国南部(南ガリア)では、大土地所有者であるセナトール(元老院議員)貴族層、ポセッソレスとよばれる中・小土地所有者、前者の隷属的小作人であるコロヌスという、三階層からなる古代末期の社会構造が存続した。中心都市と周辺農村が一体となり、貴族層の指導の下に市民の自治により運営されるローマ末期の行政単位=キーウィタース制度も維持された。またライン川以東の地域に関しては、基本的には貴族、自由人、非自由人の三階層からなっていた。王国北部(北ガリア)では、フランク人の定住、セナトール貴族層の南方への撤収により、社会構成は大きく変わった。フランク人の部族法典=サリカ法典は、フランク人の自由人とリトゥス(非自由人)、ローマ系のポセッソレスの三つを主要階層としてあげており、後二者について自由人の半額の人命金を規定している。このことから、メロビング朝時代のフランク王国には貴族は存在しなかったとする説もあるが、新説は、ゲルマン時代から中世初期へかけての貴族制的政治体制を強調する一環として、フランク王国にも貴族の存在したことを立証しようとする。貴族層の概念を豪族層ととらえるなら、かかる社会階層がフランク王国においても存在したことは種々の証拠から推定できる。

[平城照介]

王国の統治組織

フランク王国の行政組織の根幹は、伯=グラーフ制度である。王国南部ではキーウィタース制度が存続していたので、フランク国王は、彼の代官としての伯(コメスとよばれた)をそれぞれのキーウィタースに置き、行政、司法、軍事の大幅な権限をゆだねた。7世紀末以降コメス制度は崩れ、コメスの王権に対する独立性は強まった。これに対し、北部ではフランク人の進出に伴い、キーウィタース制度は崩壊し、より小さなパーグスが統治単位となった。初期メロビング朝時代では、国王の代官としてパーグスの軍事・行政をつかさどるグラフィオと並んで、パーグスの裁判集会を主宰するチュンギヌスが存在した。6世紀に、グラフィオもチュンギヌスも史料から姿を消し、これにかわってコメスの呼称が一般化するが、これは、かつてのグラフィオがチュンギヌスの権限をも吸収し、南部のコメスとほとんど同じ権限を獲得した反映とみなされる。他方、7世紀初頭より在地の豪族層から伯が任命されるようになり、南部と同様、北部でも王権に対する伯の自立性が強まり、メロビング朝末期にはこの傾向がいっそう著しくなった。

 カロリング朝時代には、地方行政組織の再建が試みられた。全国を一率に伯=グラーフ制度のもとに組織し、おもにカロリング家の地盤であるアウストラシアの出身者が、伯として全国に派遣された。さらに伯の任務遂行を監督するため国王巡察使制度も恒常化されたが、王権の弱体化した後期カロリング朝時代には、伯の在地豪族化の傾向を抑えることはできなかった。

[平城照介]

王国の経済

フランク王国の経済的基礎は農業であった。だが、メロビング朝時代の農業は、カロリング朝時代に比べかなり粗放であり、穀物耕作よりも牧畜の占める比重が高かった。またとくに王国南部を中心に、古代以来の商品・貨幣経済がある程度残存していたことも否定できない。カロリング朝時代には、フランク王国の経済的重心が地中海沿岸から、ロアール川、ライン川に挟まれた北ガリア地方に移るに伴い、農業の比重が決定的に大きくなった。同時にこの地域で、農業技術のうえで多くの改良も行われた。鉄製農具の普及、犂(すき)と役畜とを連結する新しい繋駕(けいが)法の導入による重量有輪犂の一般化などにより、開放耕地制度と三圃(さんぽ)農法を伴う集村が出現した。この結果、穀物耕作の比重が圧倒的に高まり、農業生産力の飛躍的上昇が実現された。最近の研究はこれを中世初期農業革命と名づけている。古典荘園(しょうえん)という大土地所有の経営様式が確立するのも、このような背景に支えられたからである。また、ゲルマン系の自由人の階層の多くの部分が、従来の戦士的性格を払拭(ふっしょく)して農民化し、軍事力の重心が、自由民の動員から、専業的戦士の封建的軍役へ移行(封建制の成立)するのも、このような事態の反映である。

[平城照介]

王国の歴史的意義

フランク王国の後世に対する最大の貢献として、ゲルマン系諸民族を統合し、民族大移動後の西ヨーロッパの混乱を収拾して、彼らに共通の政治的秩序、共通の信仰=カトリック信仰、共通の文化的基盤を与えたことがあげられる。それらはかならずしもフランク王国が独自に生み出したものではない。カトリック信仰や、カロリング朝ルネサンスに象徴されるこの時代の文化が、古典古代の遺産の継承であるのはもとより、法や制度においても従来考えられた以上に古代の影響の強かったことを、最近の研究は明らかにしつつある。だが他方、この共通の政治秩序、共通の信仰、共通の文化的基盤から、中世以降の西ヨーロッパの諸国家、諸民族の文化が生まれたことも動かない事実である。その意味でフランク王国は、古典古代と中世以降の西ヨーロッパとの結節点をなしたといえるであろう。

[平城照介]

『ジョゼフ・カルメット著、川俣晃自訳『シャルルマーニュ』(白水社・文庫クセジュ)』『増田四郎著『西洋中世社会史研究』(1974・岩波書店)』『山中謙二著『西欧世界の形成』(1968・東海大学出版部)』『ジャック・ブウサール著、井上泰男訳『シャルルマーニュの時代』(1973・平凡社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランク王国」の意味・わかりやすい解説

フランク王国
フランクおうこく
Regnum Francorum; Frankenreich

フランク族の王権のもとに5世紀末に旧ローマ属州ガリア北部に興り,9世紀にかけてのちのフランス,ドイツ西部,イタリア北部にまたがる西ヨーロッパの中核地域を統一した最初のキリスト教的なゲルマン国家。西ヨーロッパのキリスト教的文化と中世諸国制度の母体となった。5世紀末クロービス1世がガリア全域を支配し,ピピン (小ピピン) が王に即位するまでのメロビング朝とその即位から 10世紀末までのカロリング朝の2期に分けられる。また 843年のベルダン条約,870年のメルセン条約によって,王国は東フランク (ドイツ) ,西フランク (フランス) ,中部フランク (イタリア) と3分され,中部フランクはまもなく衰えたが,東フランク王国は 911年,西フランク王国は 987年までカロリング家の血統が続いた。

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