ニムルド(英語表記)Nimrud

改訂新版 世界大百科事典 「ニムルド」の意味・わかりやすい解説

ニムルド
Nimrud

イラク北部,モースルの南約35kmのティグリス川東岸に位置し,アッシュールナシルパル2世が前879年から建設したアッシリアの首都の王城跡。首都の遺跡名としても使われる。アッシリア時代の都市名はカルフKalhu,《創世記》にはニムロデの建てたカラとある。イギリスのA.H.レヤードらが19世紀半ばに王城の宮殿跡を発掘し,宮殿装飾に用いられた浮彫や人面有翼獅子像などを大英博物館で展示して,ヨーロッパ世界に大センセーションを巻き起こした。長い中断ののち1944年から63年までイギリスのM.E.L.マローワンやD.オーツらが精密な発掘を行って重要な事実を明らかにしたが,その後イラク政府とポーランドが,遺跡の保存工事を行い,展示施設をつくりながら発掘を進めている。

 都市はやや東西に長い不整形な長方形で,南西隅に王城,南東隅にシャルマネセル城砦とよばれる第2王城区があり,ここに2門,東辺中央と北辺北寄りに各門を設ける。発掘は王城に集中していて,北にジッグラトとこの都市の守護神ニヌルタの神殿があり,ほかに1神殿と大きな北西宮殿など6宮殿が明らかにされた。北西宮殿の深い井戸から出土した大量の遺物中に,エジプト,パレスティナ,フェニキア,シリア,トルコなどで製作された優れた象牙細工が含まれていて注目をひいた。試掘坑の探索によると,先史時代以来の遺跡で,ニネベⅤ期の土器が確認され,前2千年期半ばの箱式棺があり,前1250年ころアッシリアのシャルマネセル1世Shalmaneser Ⅰがこの町の基礎をつくった。首都がドゥル・シャッルキンニネベに移ったのちも,アッシリアの主要都市として栄えたが,前614-前612年にアッシリアを滅ぼした新バビロニアとメディアの連合軍によって破壊された。その後,王城跡に小村落が見られたが,これも前150年ころには消滅し,完全な廃墟になった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のニムルドの言及

【アッシリア】より

…この王の遠征に次ぐ遠征,串刺し・皮はぎなど反乱住民に対する徹底した残虐行為,住民根こそぎの大量強制移住政策は,この国を〈アッシリアの狼〉の名で恐れさせるにいたった。しかしこの王には,あえてバビロニアに大規模な攻撃を加えて蹂躙(じゆうりん)せず,同根の文化と宗教を持つこの隣接先進地域との相互交易と文化交流に努めたり,カルフ(ニムルド)を再建してこれを首都とし,広大な宮殿を造営して,その治世中に早くも帝国の文化センターとする,という側面もあった。次王シャルマネセル3世Shalmaneser III(在位,前858‐前824)は領土をさらに拡大した。…

【アッシリア美術】より

… 前1千年紀に入ると,歴代諸王が版図を逐次拡大し,美術も突如として華やかな様相を呈するようになる(後期アッシリア時代)。前9世紀の征服王アッシュールナシルパル2世Assurnasirpal II(在位,前883‐前859)は,カルフKalhu(現,ニムルド)に新都を造営し,大規模な北西宮殿を建設した。宮殿の主要な入口には,アラバスター製の人面獣身の守護像が置かれ,また玉座室を中心とする一画と中心の中庭とは,薄肉浮彫を施した多数のアラバスター製オルトスタトorthostat(画像石板)で飾られた。…

※「ニムルド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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