翻訳|Nineveh
イラク北部,モースルからティグリス川を渡って約500mにあるアッシリアの首都。センナヘリブ王が前700年ころから建設してのち,前612年の滅亡まで存続した。旧約聖書によると,ヨナがヤハウェのことばを伝えるためにニネベに赴いたとき,12万以上の人が住んでおり,行きめぐるのに3日を要するほどの大きな町であったという。王城跡はクユンジュクQuyunjuqと呼ばれている。フランス領事ボッタP.E.Bottaが1842年に発掘を始め,イギリスのA.H.レヤードが加わって,ここがニネベの廃墟とわかると,イギリス,フランスの凄まじい発掘競争が展開された。その結果,イギリスが発掘を継続して,彫像品ばかりでなく大量の楔形文字の粘土板を発掘し,アッシリア学の基礎資料となった。
都市は5門をもつ周囲約12kmの城壁で囲まれ,西辺のやや北寄りに王城跡のテルが,南寄りにヨナの墓という伝説がある,ナビー・ユーヌスNabī Yūnus(〈預言者ヨナ〉の意)と呼ばれる第2の王城跡がある。王城跡では南端にセンナヘリブ宮殿,北寄りにアッシュールバニパル宮殿がある。この両宮殿に付属する文書館から多くの粘土板が発掘された。中央にこの都市の守護神であるイシュタル神の神殿とナブー神殿がある。イシュタル神殿の北西に接して27.5mの深い試掘坑を入れた結果,5層が識別され,ハッスナ文化期から前3千年紀まで続いたテルの上にアッシリアの王城がつくられていることがわかった。この層位のニネベⅤ期はアッシリア先史時代編年の標準になっている。またイシュタル神殿の発掘において堆積層から出土した青銅頭像は,アッカド時代の写実的傾向を示す絶品で,アッカド王朝の初代王サルゴンか,孫のナラムシンを表したものと考えられている。前612年に破壊された後は,パルティア時代にギリシア都市が近くにつくられ,のちモースルの郊外になった。ニネベの全貌はまだよくわからないが,イラク政府はすでに発掘した遺構の保存と復原に力を入れて,彫像類なども原位置で見学できるように努めている。
執筆者:小野山 節
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イラク北部、モスルのティグリス川を挟んだ対岸に位置する都市遺跡。古名はニヌア。聖書にその名を残すことから古来多くの旅行者がここを訪れているが、考古学的な調査は19世紀、イギリス、フランス両国間の「発掘競争」に始まる。このとき、イギリスのH・レヤードらは美麗な浮彫りで飾られたセンナケリブ(在位前705~前681)とアッシュール・バニパル(在位前668~前627?)の宮殿とともに、「大洪水伝説」を含む数多くの粘土板文書を発見した。当時の発掘は宝探し的性格の強いものであったが、出土した粘土板文書の研究と相まってアッシリア学の確立を促した点は重要である。層位学的方法などを取り入れた本格的な発掘調査は20世紀に入ってからで、イギリスのR・キャンベル・トンプソンらにより行われた。このときには、イシュタル神殿、ナブ神殿、アッシュール・ナシルパル2世(在位前884~前859)の宮殿などのアッシリア時代の遺構のみならず、紀元前六千年紀後半のサマッラー期にまでさかのぼる先史文化層も確認され、きわめて古い時期からの状況が明らかになるとともにニネベⅠ~Ⅴ式土器の標式遺跡としても位置づけられた。クユンジク、ネビ・ユヌスの二つのテルからなり、周囲約13キロメートルの強固な城壁に囲まれている。センナケリブによって再建されて以来、前612年メディアと新バビロニアの連合軍の攻撃により陥落するまでの間アッシリアの都として栄えた。
[山崎やよい]
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…前3千年紀の前サルゴン期には,膠着語を話す,均質的とはいえないがフルリ人と親縁関係にある定着原住民スバル人の上に東セム系遊牧民が支配的要素として加わり,今やメソポタミアの発展の先頭に立つシュメール文化の影響の下に,都市アッシュールが建設された。アッカド王国時代にはサルゴン王らによって征服され,マニシュトゥシュ王がニネベに神殿を造営している。アッカド美術の傑作である,サルゴン王を写したとされるブロンズ製頭部像もニネベ出土である。…
…大きな建物の出入口には人面獣身の石像が置かれ,宮殿の中庭にはサルゴンと従者朝貢者の列を表す巨大な浮彫が飾られた。サルゴンの後継者たちは主としてニネベに宮殿を営んだが,なかでもアッシュールバニパル(在位,前668‐前627)は宮殿にさまざまな題材を扱った多くの浮彫を残した。王の遠征のようすを扱った浮彫としては,《ウライ河畔の戦》が知られる。…
…メロダクバラダン2世の追放に始まった対バビロニア戦役は,バビロニア王となった王の息子がエラムに連れ去られたことから起こった第6回の戦役で頂点に達し,憤激した王はバビロンおよびその主神マルドゥクに対する伝統的穏和策を大きく逸脱して徹底的な破壊・略奪を行い,アラフトゥ運河の水を引いて廃墟の町にあふれさせ,中心部には8年間人が住めないありさまであった。 首都としては,王は即位直後にドゥル・シャッルキンを放棄,古都アッシュールに住んだが,やがてニネベを首都とし(前701),都市計画を行ってこの都を拡大・整備し,豪壮・華麗な大宮殿を造営したので,ニネベは帝国滅亡の日まで首都となった。王はまた新しい青銅鋳造法の発明を誇り,土木事業では,ニネベ周辺の耕地に灌漑用水を引くために大ザブ川の支流から80kmの水道を設置したりした。…
… 以下,図書館の歴史を外国と日本に大別して概観し,あわせて日本の現況にもふれることにしたい。
【外国】
[古代]
19世紀の半ばになって,アッシリアのニネベの王宮跡が発掘され,楔形文字が記された大量の粘土板文書が出土した。いわゆるアッシュールバニパル王(在位,前668‐前627)の図書館である。…
※「ニネベ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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