ニネベ(その他表記)Nineveh

翻訳|Nineveh

デジタル大辞泉 「ニネベ」の意味・読み・例文・類語

ニネベ(Nineveh)

古代アッシリア都市。現在のイラク北部チグリス川を挟んでモスル市の対岸に位置する。前8~7世紀ごろ首都となり栄えたが、前612年、メディア・バビロニア連合軍に破壊された。19世紀以来発掘され、宮殿跡や粘土板などが発見されている。古名ニヌア。

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精選版 日本国語大辞典 「ニネベ」の意味・読み・例文・類語

ニネベ

  1. ( Nineveh ) 紀元前、アジア西南部に成立したアッシリア帝国の首都。前七世紀アッシュールバニパルの頃最も栄え、前六一二年メディアと新バビロニアの連合軍に破壊された。一九世紀中期から、イラク北部のチグリス川上流にあるモスルの対岸で遺跡の一部が発掘されている。古名ニヌア。

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改訂新版 世界大百科事典 「ニネベ」の意味・わかりやすい解説

ニネベ
Nineveh

イラク北部,モースルからティグリス川を渡って約500mにあるアッシリアの首都。センナヘリブ王が前700年ころから建設してのち,前612年の滅亡まで存続した。旧約聖書によると,ヨナヤハウェのことばを伝えるためにニネベに赴いたとき,12万以上の人が住んでおり,行きめぐるのに3日を要するほどの大きな町であったという。王城跡はクユンジュクQuyunjuqと呼ばれている。フランス領事ボッタP.E.Bottaが1842年に発掘を始め,イギリスのA.H.レヤードが加わって,ここがニネベの廃墟とわかると,イギリス,フランスの凄まじい発掘競争が展開された。その結果,イギリスが発掘を継続して,彫像品ばかりでなく大量の楔形文字の粘土板を発掘し,アッシリア学の基礎資料となった。

 都市は5門をもつ周囲約12kmの城壁で囲まれ,西辺のやや北寄りに王城跡のテルが,南寄りにヨナの墓という伝説がある,ナビー・ユーヌスNabī Yūnus(〈預言者ヨナ〉の意)と呼ばれる第2の王城跡がある。王城跡では南端にセンナヘリブ宮殿,北寄りにアッシュールバニパル宮殿がある。この両宮殿に付属する文書館から多くの粘土板が発掘された。中央にこの都市の守護神であるイシュタル神の神殿とナブー神殿がある。イシュタル神殿の北西に接して27.5mの深い試掘坑を入れた結果,5層が識別され,ハッスナ文化期から前3千年紀まで続いたテルの上にアッシリアの王城がつくられていることがわかった。この層位のニネベⅤ期はアッシリア先史時代編年の標準になっている。またイシュタル神殿の発掘において堆積層から出土した青銅頭像は,アッカド時代の写実的傾向を示す絶品で,アッカド王朝の初代王サルゴンか,孫のナラムシンを表したものと考えられている。前612年に破壊された後は,パルティア時代にギリシア都市が近くにつくられ,のちモースルの郊外になった。ニネベの全貌はまだよくわからないが,イラク政府はすでに発掘した遺構の保存と復原に力を入れて,彫像類なども原位置で見学できるように努めている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニネベ」の意味・わかりやすい解説

ニネベ
にねべ
Nineveh

イラク北部、モスルのティグリス川を挟んだ対岸に位置する都市遺跡。古名はニヌア。聖書にその名を残すことから古来多くの旅行者がここを訪れているが、考古学的な調査は19世紀、イギリス、フランス両国間の「発掘競争」に始まる。このとき、イギリスのH・レヤードらは美麗な浮彫りで飾られたセンナケリブ(在位前705~前681)とアッシュール・バニパル(在位前668~前627?)の宮殿とともに、「大洪水伝説」を含む数多くの粘土板文書を発見した。当時の発掘は宝探し的性格の強いものであったが、出土した粘土板文書の研究と相まってアッシリア学の確立を促した点は重要である。層位学的方法などを取り入れた本格的な発掘調査は20世紀に入ってからで、イギリスのR・キャンベル・トンプソンらにより行われた。このときには、イシュタル神殿、ナブ神殿、アッシュール・ナシルパル2世(在位前884~前859)の宮殿などのアッシリア時代の遺構のみならず、紀元前六千年紀後半のサマッラー期にまでさかのぼる先史文化層も確認され、きわめて古い時期からの状況が明らかになるとともにニネベⅠ~Ⅴ式土器の標式遺跡としても位置づけられた。クユンジク、ネビ・ユヌスの二つのテルからなり、周囲約13キロメートルの強固な城壁に囲まれている。センナケリブによって再建されて以来、前612年メディアと新バビロニアの連合軍の攻撃により陥落するまでの間アッシリアの都として栄えた。

[山崎やよい]

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百科事典マイペディア 「ニネベ」の意味・わかりやすい解説

ニネベ

古代アッシリアの首都。古名ニヌア。ティグリス川左岸にあって前12世紀ごろから繁栄したが,前7世紀アッシュールバニパルの治下に,2重城壁に囲まれた巨大都市となり,各国の朝貢と賦役による大宮殿は彫刻と壁画に飾られ,大神殿や図書館がそびえ立った。前612年の帝国滅亡とともに廃墟となった。遺跡は,イラク北部のクユンジュクQuyunjuqにあり,19世紀中ごろレヤードが発掘。膨大な古文書を発見し,アッシリア学の基礎を築いた。
→関連項目図書館モースル

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニネベ」の意味・わかりやすい解説

ニネベ
Nineveh

アッシリア最古の古代都市。チグリス川東岸に位置する。現イラクのクユンジク。前7千年紀以前にすでに新石器時代人の小集落があり,前3千年紀のアッカド朝のサルゴン王時代にはエ・マシュマシュの神殿が建立された。前2千年紀にはアッシリアの諸王が建築を競い,新アッシリア帝国時代にも多くの神殿や宮殿が建造された。前 700年頃センナケリブ王治下で最盛期を迎え,市域は 700haに及んだ。それ以後諸王の居住地となったが,アッシュールバニパル (在位前 669~630) の死後,バビロニア,スキタイ,メディアの連合軍の攻撃を受け,前 612年町は略奪を受け,徹底的に破壊された。以後急速に衰え,重要性を失った。 13世紀セルジューク朝の下でわずかに力を回復し,16世紀まで住民の定住がみられた。 (→ニネベ遺跡 )  

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世界大百科事典(旧版)内のニネベの言及

【アッシリア】より

…前3千年紀の前サルゴン期には,膠着語を話す,均質的とはいえないがフルリ人と親縁関係にある定着原住民スバル人の上に東セム系遊牧民が支配的要素として加わり,今やメソポタミアの発展の先頭に立つシュメール文化の影響の下に,都市アッシュールが建設された。アッカド王国時代にはサルゴン王らによって征服され,マニシュトゥシュ王がニネベに神殿を造営している。アッカド美術の傑作である,サルゴン王を写したとされるブロンズ製頭部像もニネベ出土である。…

【アッシリア美術】より

…大きな建物の出入口には人面獣身の石像が置かれ,宮殿の中庭にはサルゴンと従者朝貢者の列を表す巨大な浮彫が飾られた。サルゴンの後継者たちは主としてニネベに宮殿を営んだが,なかでもアッシュールバニパル(在位,前668‐前627)は宮殿にさまざまな題材を扱った多くの浮彫を残した。王の遠征のようすを扱った浮彫としては,《ウライ河畔の戦》が知られる。…

【センナヘリブ】より

メロダクバラダン2世の追放に始まった対バビロニア戦役は,バビロニア王となった王の息子がエラムに連れ去られたことから起こった第6回の戦役で頂点に達し,憤激した王はバビロンおよびその主神マルドゥクに対する伝統的穏和策を大きく逸脱して徹底的な破壊・略奪を行い,アラフトゥ運河の水を引いて廃墟の町にあふれさせ,中心部には8年間人が住めないありさまであった。 首都としては,王は即位直後にドゥル・シャッルキンを放棄,古都アッシュールに住んだが,やがてニネベを首都とし(前701),都市計画を行ってこの都を拡大・整備し,豪壮・華麗な大宮殿を造営したので,ニネベは帝国滅亡の日まで首都となった。王はまた新しい青銅鋳造法の発明を誇り,土木事業では,ニネベ周辺の耕地に灌漑用水を引くために大ザブ川の支流から80kmの水道を設置したりした。…

【図書館】より

… 以下,図書館の歴史を外国と日本に大別して概観し,あわせて日本の現況にもふれることにしたい。
【外国】

[古代]
 19世紀の半ばになって,アッシリアのニネベの王宮跡が発掘され,楔形文字が記された大量の粘土板文書が出土した。いわゆるアッシュールバニパル王(在位,前668‐前627)の図書館である。…

※「ニネベ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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