ハドソン・リバー派 (ハドソンリバーは)
Hudson River School
ニューヨークからカナダへ向けて北上するハドソン川を舞台に風景画を描いた19世紀アメリカ画家の一群。一般にT.コールがその開拓者とされる。彼は1825年ころから友人のインマンHenry Inmanなどとキャッツキル山脈,ホワイト山脈などの雄大な景観を細密な手法で描いた。自然の風光こそ聖なる神の姿そのものだという立場から,自然を精細に描くことによって,神に近づこうとしたのがコールの方法であった。48年のコールの没後,デュランドAsher Brown Durand,チャーチFrederic Edwin Church(1826-1900),ケンゼットJohn Frederick Kensettなどの後継者が活動したが,彼らはコールの芸術観を乗りこえて,リアリズムによる風景画を展開した。とくにチャーチはアンデスや北極圏にまで足をのばして,大自然の驚異を追っている。南北戦争後は,時代の思潮の変化とフランス印象派系の風景画の流行によってしだいに衰退し,80年代には歴史的役割を終えたとされる。アメリカ人の自然観を反映させたこの派は,アメリカ文明史において大きな意義をもつ。
執筆者:桑原 住雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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ハドソン・リバー派
はどそんりばーは
Hudson River School
ニューヨークから北上するハドソン川を中心として、その周辺の風景を描いた19世紀アメリカの風景画家群。始祖はトマス・コールで、1825年ごろからキャッツキル山脈やホワイト山脈など人跡未踏の壮大な景観を描いている。エマソンの超越主義に共鳴する詩人ブライアントとの交遊によって、コールは崇高な自然を精細にとらえようと努めたが、高貴な自然の姿を忠実に描けば描くほど絵も高貴になるという考え方が背景にあった。友人A・B・デュランド、J・F・ケンゼットや弟子のF・E・チャーチなどがコールの後を継いだが、コールの文学性と寓意(ぐうい)性はしだいに消滅し、自然主義的な描写へと変わっていった。それと同時に舞台も拡大され、チャーチは南米から北極近くまでも足を伸ばして大自然の驚異をとらえた。クロプシー、ギフォードなども同派の画家として知られている。西部開拓の波に同調した美術現象といえるが、1880年代にはその歴史的役割を終えた。
[桑原住雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内のハドソンリバー派の言及
【アメリカ美術】より
…19世紀初頭に,アメリカ最初の美術学校ペンシルベニア美術アカデミー(1805),ついでナショナル・アカデミー・オブ・デザイン(1826)がようやく創設されるが,ヨーロッパに学ぶ者も少なくなかった。1820年代に,[ハドソン・リバー派]と呼ばれる一群の風景画家が現れる。同派の活動は,絵画によるアメリカの大自然の発見ともいえるものである。…
【コール】より
…ペンシルベニア美術アカデミーで学ぶ。1825年ニューヨークで発表した風景画が認められ,コールを中心とする[ハドソン・リバー派]が形成されてゆく。コールの画業にはアレゴリカルな作品系列と自然描写の系列,それに壮大な幻想の系列があり,そのいずれも克明な写実手法で描かれている。…
※「ハドソンリバー派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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