アメリカの思想家。ボストンに牧師の子として生まれ,1826年にハーバード大学を卒業,やがてボストン第二教会の牧師になる。しかし過去の〈死んだ形式〉に身動きもできぬ聖職者の日常に,元来〈形式そのものを異常なほどに嫌悪する〉彼は,しだいに懐疑をつのらせていった。32年秋ついに辞表を提出し,年末には初めてのヨーロッパ旅行に出発。辞職にあたって書かれた最後の説教〈主の晩餐〉は,自分の全存在をかけて行えないようなことなら,たとえキリストの遺志でも拒むという強い自立の決意を表明していて,以後形成されていくエマソンの思想の原点ともなっている。渡欧後のエマソンは,カーライルと親交を結ぶなど貴重な経験を重ねるが,なかでも特筆すべきはパリ植物園で受けた啓示である。博物陳列館に多種多様な標本が整然と並べられているのを見て,彼は野蛮なものでも美しいものでも,すべて〈それを眺める人間に内在する何かの属性の表現でないものはない〉ことを悟り,いまや〈宇宙は驚くべき謎〉だと感動する。全存在として生きたいという悲願が,ここに初めて宇宙の多様さを目撃し,宇宙との一体性を感じて満たされる思いがしたのである。
帰国後34年にボストン近郊のコンコードに移り住んだエマソンは,36年に思想家として初めての著作《自然》を世に問い,巻頭でまず世界とのあいだに〈独自な関係〉を持とうと情熱的に呼びかけた。先人たちの足跡に盲従せず,いわばさら地としての世界の中に,自分の〈理性〉に見えるとおりの意味を正直に読みとろうというのだ。この〈自己信頼〉の思想はエマソン思想を支える基軸だが,近代国家に飛躍しようとしていた当時のアメリカ社会のダイナミックな精神風土の忠実な反映でもある。現に《自然》の語る世界像は無限の奥行きに恵まれ,不断にかなたへ向かって現在を超えつづけていく。エマソンの思想がトランセンデンタリズム(超越主義)と呼ばれるゆえんである。世界のこの自己〈超越〉は一瞬も停止することがなく,こうして限りない奥行きを得た広がりがそのまま〈人間精神の比喩〉だとされる。精神は世界を自分の影を映す鏡に変えてしまうことで,もはや自分の限りない拡充を阻むどんな壁も持たないことになる。世界の究極に宿る〈大霊〉とは,無限を願望する精神自身の投影である。
おなじ30年代になされた講演〈アメリカの学者〉(1837)と〈神学部講演〉(1838)でも,エマソンは精神の自立性と限りなさを情熱的に説きつづけた。その思想はやがて《エッセー第1集》(1841)と《エッセー第2集》(1844)にいたって,〈自己信頼〉〈友情〉〈芸術〉など,具体的なさまざまの題目をめぐってさらに展開されていく。しかしとくに《第2集》になると,それまでのロマンティシズムに変化のきざしが見え始める。たとえばこの中に収められている〈自然〉というエッセーでは,自然が〈産み出す自然〉と〈産み出された自然〉に二分され,後者が前者によって〈風に舞い散る雪のように〉駆りたてられていく。両者の関係は明らかに固定していて,36年の《自然》の場合のように,目に見える当面の自然が乗り超えられてしだいに高次の自然に変わっていくという動的な超越の軌跡は認められない。この変化は逆に言うと,精神の外に実体ある世界の存在を認めようとする姿勢の現れでもあり,この新しい傾向は以後《代表的人物》(1850)や《イギリスの特性》(1856)などでさらに強められる。エマソン思想がたどったこの道程には,南北戦争という試練を経て資本主義体制を固めていくアメリカ社会の歴史が色濃く投影している。日本では北村透谷の《ヱマルソン》(1894)以来エマソンはなじみ深い存在だが,いささか精神主義的な受容に傾きがちであり,いわゆる〈アメリカ・ルネサンス〉期を代表する思想家として,彼のダイナミックな精神のありかたに目を向けるべきだろう。
執筆者:酒本 雅之
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アメリカの思想家、詩人。5月25日、ボストンの牧師の家に生まれる。1817年ハーバード大学に入学、さらに神学部大学院に進む。当時の日記から、彼が聖職を自分の進路に選んだ真意がわかる。「聖なる問題に関する最高級の推論は、ロックやヒュームのような推論機械の所産というより、むしろ一種の道徳的想像力の成果だ。……わたしはキケロとともに〈無限にして広大なるもの〉を熱望する」。このように理知による推論の確実さよりも、想像力による超越を「熱望する」ことに、エマソン思想の原点はある。彼が1829年にボストン第二教会の牧師になりながら、早くも3年後に辞職を思い立つのも、日常の職務につきもののさまざまなしきたりの遵守が、「無限にして広大な」世界への参入の妨げと思えたからだろう。
1832年の暮れから翌1833年秋までの初めてのヨーロッパ旅行は、思想家としてのエマソンの旅立ちでもあった。とくにパリの植物園に立ち寄ったとき、標本室に整然と並ぶ多種多様な生物たちを一望して、「どんなに醜怪、野蛮、あるいは美しい形態でも、それを眺める人間に内在する何かの属性の表現でないものは一つもない」(日記)と悟る。人間内部の多様さがそこにそっくり具象的な形で「表現」されているというわけだが、内部と外界とのこの「神秘的な関係」は、「無限にして広大なるもの」を熱望する精神が、いささかも妨げられずに世界に参入することを可能にする。1836年に世に出た代表作『自然論』は、この「熱望」の最初の理論化だった。超絶主義(超越主義、トランセンデンタリズム)ともよばれるこの思想を、エマソンは講演『アメリカの学者』(1837)と『神学部講演』(1838)、さらに『エッセイ第一集』(1841)で雄弁に展開し続けた。それは、近代国家に向けて限りない展望が開け始めた当時のアメリカの、精神風土の正確な表現でもあった。彼の周りには、個人の魂の限りなさ、神聖さを信じる思想家や文人が集まり、1836年秋には「超絶主義の会(トランセンデンタル・クラブ)」をつくって、機関誌『ダイアル』(1840~1844)を発行し、あるいはエマソン自身は不参加だったが、理想主義農場「ブルック・ファーム」(1841~1847)をつくって、思想の普及と実践に努めた。しかしエマソンの思想は『エッセイ第二集』(1844)のころから徐々に現実主義への傾斜を強め、とくにエッセイ『運命』(1853)では、「かつては積極的な力こそすべてと思い込んでいた。いまでは消極的な力、つまり状況が、残りの半分だとわかっている」と、明らかに自己修正を試みている。エマソンは、このような後半生の、いわば均衡のとれた思想を『代表的人物』(1850)や『イギリス国民性』(1856)に結実させ、「コンコードの哲人」として世間の尊敬を集めつつ、79歳の誕生日を目前にした1882年4月27日に、その充実した生涯の幕を閉じた。
[酒本雅之 2015年10月20日]
『酒本雅之訳『エマソン論文集』全2冊(岩波文庫)』▽『斎藤光著『エマソン』(1957・研究社出版)』
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1803~82
アメリカの思想家,文筆家。ニューイングランドの教会の形式主義に不満を感じて牧師を辞し,人間の本性に神が宿るという考えから自己依存の必要を説き,アメリカのトランセンデンタリズムの代表的思想家となった。『自然論』(1836年),『随筆集』(41年,44年)などの著作により,多くの改革派知識人に影響を与えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…W.C.ブライアントは大自然をたたえ,〈アメリカ詩の父〉となった。
[アメリカ・ルネサンス(19世紀中葉)]
19世紀初頭のアメリカには,人間が生まれながらに有する善性を強調するユニテリアニズムが興ったが,そこから出発し,神秘主義とデモクラシー発展期の思潮とを融合させたところから,超越主義者(トランセンデンタリズム)と言われるエマソンが現れた。彼は形式に堕した教会を離れ,人間と宇宙の始源的・神秘的関係をもとめ,自然は霊界の象徴であり,言葉は自然の象徴であるとした。…
…アメリカの思想家R.W.エマソンとその周囲の文人,宗教家たちのロマン主義思想をいう。超越主義,超絶主義と訳す。…
…とくにアメリカでは会衆派教会のなかで,ハーバード大学神学部を中心として一教派になるまで発展した。エマソンはもとユニテリアン派の牧師であり,その合理主義にあきたらずやめたが,ユニテリアンはアメリカ思想界における合理主義と人道主義の代表的系譜を形成してきた。現在でも公民権運動などに積極的であるが,教会としては約10万の小教派である。…
※「エマソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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