古代中央アジアに活躍した民族名。中国の春秋時代の末から戦国時代の末にかけてモンゴル高原の西半を支配し、東方の東胡(とうこ)民族と内モンゴル方面で境を接していた。秦(しん)末、月氏の人質となっていた匈奴(きょうど)の冒頓単于(ぼくとつぜんう)は月氏から逃れて帰り、匈奴民族を率いて月氏を討ち、これを西方に圧迫し、さらに漢の文帝の4年(前176)ごろ月氏を大征伐してその支配下にあった楼蘭(ろうらん)、烏孫(うそん)、呼掲(こけい)など、タリム盆地、天山山脈以北およびその周辺の諸国・諸民族を征服した。月氏の主力(大月氏)が天山山脈の北方イリ方面に移動したのは、おそらくこのときのことであろう。このとき、月氏の一部は甘粛(かんしゅく)、青海両省の中間山脈地帯から黄河の上流域に残存して小月氏とよばれ、羌(きょう)民族と混住同化した。その後月氏の主力(大月氏)はふたたび匈奴に攻撃され、今日のアフガニスタンの北部に移動してバクトリア王国を倒したと考えられる。ストラボンにバクトリア王国を滅ぼした民族として伝えられているアシイ(AsiiまたはAsiani)、パシアニPasiani、トカリTochari、サカラウリSakarauliまたはSacaraucaeのうち、アシイあるいはトカリが月氏であろうともいわれているが、明らかでない。紀元前129年ごろ、張騫(ちょうけん)はバクトリアに赴いて月氏に接触しているので、月氏のバクトリア移動はそれ以前のことである。その後唐代に至るまで、いにしえのバクトリアの地域およびそこを根拠とした民族は中国人から月氏とよばれた。紀元前後、月氏はクシャン(貴霜)民族にかわられた。
[榎 一雄]
中国古代の春秋戦国時代ころから現在の甘粛省地域に勢力を拡張していたイラン系遊牧民族。シルクロード交流の先駆的役割を担っていた。ところがモンゴル高原において匈奴が勢力を拡大し,月氏と西域貿易の利を争うようになり,匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)は月氏に壊滅的打撃を与えた(前176ころ)。月氏の主勢力は西方に逃れ,パミール高原を越えてアム・ダリヤ流域に移動し,アフガニスタン北部のバクトリア王国(大夏)を征服した。中国史料は中国辺境に残留したものを小月氏,西方に移動した勢力を大月氏と呼ぶ。漢の武帝の使者張騫(ちようけん)はこの大月氏を訪れ(前139ころ),西方世界の珍しい情報を持ち帰った。なお後1世紀中ごろ,大月氏の地からクシャーナ(貴霜)朝が勃興し,中央アジアからインドにかけて雄飛し,中国史料,漢訳仏典はそれをも大月氏の名で呼んでいる。しかしクシャーナ,大月氏が同一民族であるかどうかは不明である。
執筆者:小谷 仲男
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古代中央アジアのイラン系とみられる騎馬遊牧民。前4世紀頃,西域をへて中国の西北辺境に進出し,胡服,騎射などの西方の文物を中国に伝えた。モンゴル高原に遊牧民族匈奴(きょうど)が台頭すると,それと敵対し,匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう),ついで老上単于(ろうじょうぜんう)との激しい戦争に敗れ(前160年頃),主勢力はパミール西方に逃れた。それを大月氏と呼び,河西地方に残存した小月氏と区別する。大月氏はシル川を越え,アム川流域に存在したギリシア人のバクトリア王国を滅亡させた(前145年頃)。漢の武帝は張騫(ちょうけん)を派遣し,匈奴に対する軍事同盟を結ぼうとしたが,月氏はすでにその地に安住して同意せず,彼らの関心はむしろヒンドゥークシュ南のインドにあった。
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