バヒド・ハリルホジッチ(読み)ばひど・はりるほじっち

知恵蔵 「バヒド・ハリルホジッチ」の解説

バヒド・ハリルホジッチ

2015年3月に就任したサッカー日本代表監督。前アルジェリア代表監督。ハビエルアギーレ前日本代表監督の後に就任した。1952年10月15日ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)生まれ。現在はフランス国籍。
プロサッカー選手としての現役時代は、旧ユーゴスラビアのFKベレジュ・モスタル(71~81年シーズン)、フランスのFCナント(81~86年シーズン)、パリサンジェルマン(86~87年シーズン)で主にフォワードとして活躍。FCナント時代の82~83年シーズン、84~85年シーズンの2度、フランスリーグ得点王に輝いた。また、76年から85年にわたりユーゴスラビア代表に選出され、82年には第12回ワールドカップスペイン大会に出場。代表通算8ゴールを挙げた。87年に現役を引退。その後は、旧ユーゴスラビアに戻るも、92年に始まったボスニア紛争により自宅を手放してフランスへと逃れることを余儀なくされる。97年、モロッコリーグ、ラジャ・カサブランカの監督に就任。国内リーグを2連覇し、更にアフリカチャンピオンズカップを制した。
98年、フランスのリールオリンピック・スポルティング・クラブの監督となり、99~2000年シーズンに2部リーグ優勝。翌00~01年シーズンには、1部リーグで3位に入り、フランス最優秀監督に選出された。以降、スタッド・レンヌFC(フランス)、パリ・サンジェルマン(フランス)、トラブゾンスポル(トルコ)の監督を歴任した。
08年、コートジボワール代表監督就任。10年ワールドカップ南アフリカ大会出場を勝ち取ったが、大会直前にアフリカ選手権準々決勝でアルジェリアに敗戦したことを契機に代表監督を解任された。
10年に監督として就任したディナモ・ザグレブ(クロアチア)では、クロアチアリーグで優勝するなどの実績を残し、11年アルジェリア代表監督に就任。14年、第20回ワールドカップブラジル大会に出場し、対戦国ごとに複数の布陣を駆使するなど柔軟で幅広い戦術で、アルジェリアを初の1次リーグ突破に導いた。決勝リーグ初戦では、ドイツと対戦して延長戦までもつれ込み、最後は1対2で敗れたものの、優勝国ドイツを最も苦しめたチームとして賞賛された。大会後にはトラブゾンスポル(トルコ)の監督に就任したが、14年11月にクラブ幹部との意見の違いから退任している。
日本は、ワールドカップブラジル大会で1勝もできず、大会後に就任したハビエル・アギーレがスペイン1部リーグ監督時代の八百長疑惑に関連して15年2月に契約解除。18年ワールドカップロシア大会アジア予選開始が迫る中、日本サッカー協会は、早期契約が可能で、二つの異なる国の代表監督としてワールドカップ大会で出場権を獲得した経験があるハリルホジッチとの交渉を進めていた。選手に規律を求める一方自らにも厳しいと言われる。

(葛西奈津子 フリーランスライター/2015年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

知恵蔵mini 「バヒド・ハリルホジッチ」の解説

バヒド・ハリルホジッチ

元サッカー選手、サッカー指導者。1952年10月15日、ボスニア・ヘルツェゴビナ(旧ユーゴスラビア)生まれ。現役時代のポジションはフォワードで「パリ サンジェルマン FC」などで活躍。82年には、旧ユーゴスラビア代表としてFIFAワールドカップ・スペイン大会に出場した。87年に引退し、90年には母国の「ベレシュ・モスタル」の監督に就任。以降、モロッコの「ラジャ・カサブランカ」に移り97年には同クラブをアフリカ王者に導き、2000〜01年シーズンにはフランスの「LOSCリール・メトロポール」をリーグ3位に引き上げた。08〜10年にコートジボワール代表監督、11〜14年にアルジェリア代表監督を務める。14年のFIFAワールドカップ・ブラジル大会では「アルジェリア」をベスト16に導いた。その後、トルコの「トラブゾンスポル」へと移ったが、14年11月に退団した。15年2月23日、サッカー日本代表の後任として最有力候補となったと報じられた。

(2015-2-27)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

今日のキーワード

大臣政務官

各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...

大臣政務官の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android