知恵蔵 「バヒド・ハリルホジッチ」の解説
バヒド・ハリルホジッチ
プロサッカー選手としての現役時代は、旧ユーゴスラビアのFKベレジュ・モスタル(71~81年シーズン)、フランスのFCナント(81~86年シーズン)、パリ・サンジェルマン(86~87年シーズン)で主にフォワードとして活躍。FCナント時代の82~83年シーズン、84~85年シーズンの2度、フランスリーグ得点王に輝いた。また、76年から85年にわたりユーゴスラビア代表に選出され、82年には第12回ワールドカップスペイン大会に出場。代表通算8ゴールを挙げた。87年に現役を引退。その後は、旧ユーゴスラビアに戻るも、92年に始まったボスニア紛争により自宅を手放してフランスへと逃れることを余儀なくされる。97年、モロッコリーグ、ラジャ・カサブランカの監督に就任。国内リーグを2連覇し、更にアフリカチャンピオンズカップを制した。
98年、フランスのリール・オリンピック・スポルティング・クラブの監督となり、99~2000年シーズンに2部リーグ優勝。翌00~01年シーズンには、1部リーグで3位に入り、フランス最優秀監督に選出された。以降、スタッド・レンヌFC(フランス)、パリ・サンジェルマン(フランス)、トラブゾンスポル(トルコ)の監督を歴任した。
08年、コートジボワール代表監督就任。10年ワールドカップ南アフリカ大会出場を勝ち取ったが、大会直前にアフリカ選手権準々決勝でアルジェリアに敗戦したことを契機に代表監督を解任された。
10年に監督として就任したディナモ・ザグレブ(クロアチア)では、クロアチアリーグで優勝するなどの実績を残し、11年アルジェリア代表監督に就任。14年、第20回ワールドカップブラジル大会に出場し、対戦国ごとに複数の布陣を駆使するなど柔軟で幅広い戦術で、アルジェリアを初の1次リーグ突破に導いた。決勝リーグ初戦では、ドイツと対戦して延長戦までもつれ込み、最後は1対2で敗れたものの、優勝国ドイツを最も苦しめたチームとして賞賛された。大会後にはトラブゾンスポル(トルコ)の監督に就任したが、14年11月にクラブ幹部との意見の違いから退任している。
日本は、ワールドカップブラジル大会で1勝もできず、大会後に就任したハビエル・アギーレがスペイン1部リーグ監督時代の八百長疑惑に関連して15年2月に契約解除。18年ワールドカップロシア大会アジア予選開始が迫る中、日本サッカー協会は、早期契約が可能で、二つの異なる国の代表監督としてワールドカップ大会で出場権を獲得した経験があるハリルホジッチとの交渉を進めていた。選手に規律を求める一方、自らにも厳しいと言われる。
(葛西奈津子 フリーランスライター/2015年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報