パティスミス(英語表記)Patti Smith

現代外国人名録2016 「パティスミス」の解説

パティ スミス
Patti Smith

職業・肩書
詩人,ロック歌手

国籍
米国

生年月日
1946年12月30日

出生地
イリノイ州シカゴ

本名
Smith,Patricia Lee

経歴
ニュージャージーで青春時代を過ごす。ボブディランやフランスの詩人アルチュール・ランボーといったアーティストに憧れ、自身も芸術家を志望するが、家が貧しく、美術教師養成のための学校に通った。しかし在学中に教授と恋に落ちて未婚の母となり、やむなく出産した子供は里子に出した。1967年ニューヨークに移住し、後に彼女のアルバムにジャケット写真を手がける写真家のロバート・メープルソープと出会う。’69年パリ旅行からの帰国後、メープルソープとともに数多くのアーティストが居住していたチェルシー・ホテルに転居。ここでウィリアム・バローズ、ジャニス・ジョプリン、サム・シェパードといった芸術家たちと知り合い、さらに彼らとの交流から詩の朗読会にも参加するようになり、詩人としての道を開いた。’71年初詩集「セブンズ・ヘブン」を刊行。やがてギタリストのレニー・ケイとともに自作の詩にメロディーをつけて歌い始め、’73年パティスミス・グループを結成。以来、ニューヨークの官能的な夜の世界、愛、ストリート・ピープル、性倒錯者たち、戦いなどを文学的な言葉で力強く歌い、ニューヨークの一流芸術家たちから女王の如く崇拝された。’75年デビューアルバム「ホーセス」を発表、エキセントリックな歌唱法や演奏はニューヨークにおけるパンクムーブメント先駆ともいわれ、ソニック・ユースらに多大な影響を与えた。’77年フロリダ州で公演中にステージから転落し首の骨を折り、その後1年はリハビリ専念。’78年再起後初のアルバム「イースター」がヒットしたが、事故の後遺症やステージの疲れ、そして何よりも元MC5のフレッド・スミスとの結婚を決めたことから、’79年4枚目のアルバム「ウエイブ」を最後に音楽活動を停止した。’80年結婚。その後、2児の母として家庭に入るが、’88年突如9年ぶりのアルバム「ドリーム・オブ・ライフ」を発表した。その後、再び沈黙したが、’89年に友人メープルソープ、’94年に夫と理解者を相次いで亡くしたことから音楽界への復帰を決意し、’96年「ゴーン・アゲイン」をリリース。’98年全アルバムの歌詞、曲やアルバムに関するエッセイや写真をまとめた「パティ・スミス完全版」を出版。その後もコンスタントにアルバム制作やツアーを続け、2003年には来日公演も行った。2007年ロックの殿堂入り。ソロアルバムは他に「ラジオ・エチオピア」「ピース・アンド・ノイズ」「ガンホー」「トランピン」「トゥウェルブ」などがあり、詩集に「コダック」「ウィット」「バベル」「メイプルソープの花」「無垢の予兆」などがある。2009年、11年間パティ・スミスを追い続けたドキュメンタリー映画「パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ」(スティーブン・セブリング監督)が公開される。

出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報

20世紀西洋人名事典 「パティスミス」の解説

パティ スミス
Patti Smith


1946 -
米国のミュージシャン。
シカゴ生まれ。
1969年ニューヨークで詩人となる。’74年レニー・ケイらとバンド活動を始め、’75年「牝馬」でデビュー、ニューヨーク・パンクの始まりとなる。’79年「ウェイヴ」発表後、MC5のフレッド・スミスと結婚、引退。’88年「ドリーメ・オヴ・ライフ」で復帰。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パティスミス」の意味・わかりやすい解説

パティ・スミス
ぱてぃすみす

スミス

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「パティスミス」の解説

パティ スミス

生年月日:1946年12月31日
アメリカの詩人;ロック歌手

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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