日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヒジャーズ王国」の意味・わかりやすい解説
ヒジャーズ王国
ひじゃーずおうこく
1916年10月、アラビア半島西部のヒジャーズ地方Al-ijāzに誕生したハーシム家の王国。ヒジャーズ地方はオスマン帝国支配下にあったが、預言者ムハンマド(マホメット)の後裔(こうえい)(シャリーフ)ハーシム家出身で、聖地メッカの知事であったフサイン・ブン・アリーusayn Bin ‘Alī(1856―1931)は、第一次世界大戦開始とともにオスマン帝国支配打破に動きだした。彼はイギリスから、大戦後アラブの独立を承認するとの約束を引き出し(フサイン‐マクマホン協定)、16年オスマン帝国に対するアラブ反乱を開始し、ヒジャーズ地方からオスマン軍を駆逐して、同地域にフサイン家の王制を樹立した。フサインは反乱に際して、「全アラブの首長」となる野望を抱いていたが、それは半島東部のナジュド地方のサウド家をはじめアラブ諸部族との間の対立をかきたて、イギリスの支援を後ろ盾にかろうじて「ヒジャーズの王」の地位に甘んじることを余儀なくされた。
24年、オスマン帝国崩壊に伴いスルタン・カリフ制が廃止されるや、フサインは自らカリフを宣言、そのことによりアラブのみかイスラム世界でも決定的に孤立した。26年ヒジャーズ王国はイブン・サウドによって滅ぼされ、フサインは亡命したが、ハーシム王制自体はイギリスの保護国として誕生したヨルダン、イラク両国において命脈をつないだ。ヒジャーズ地方は31年、サウジアラビア王国の一州として併合された。
[藤田 進]