サウジアラビア(読み)さうじあらびあ(英語表記)Kingdom of Saudi Arabia 英語

共同通信ニュース用語解説 「サウジアラビア」の解説

サウジアラビア

アラビア半島の8割を占める王国でイスラム教発祥の地。政教一致の絶対君主制。1932年の建国以来、サウド家による統治が続く。世界有数の原油・天然ガス産出国で日本の最大の原油輸入元。人口約3530万人。2015年に即位した高齢のサルマン第7代国王の息子ムハンマド皇太子が実権を握っており、今年9月に首相に任命された。サッカーのワールドカップ出場は2大会連続6回目。(ジッダ共同)

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精選版 日本国語大辞典 「サウジアラビア」の意味・読み・例文・類語

サウジ‐アラビア

  1. ( Saudi Arabia 「サウド家のアラビア」の意 ) アラビア半島の大部分を占める君主国。正式名はサウジアラビア王国。首都リヤド。一九二七年独立、三二年現国名に改称。国土の大部分は砂漠でおおわれ、住民の大部分はアラブ人で、イスラム教のワッハーブ派を信奉し、遊牧生活を営む者も多い。一九三〇年代に石油が発掘され、世界屈指の産油国となった。イスラム教の聖地メッカ、メジナがある。サウジ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サウジアラビア」の意味・わかりやすい解説

サウジアラビア
さうじあらびあ
Kingdom of Saudi Arabia 英語
Al-Mamlaka al-‘Arabīya as-Sa‘ūdīya アラビア語

アジア大陸の南西端に位置し、アラビア半島の5分の4を占める王国。正称はサウジアラビア王国Al-Mamlaka al-‘Arabīya as-Sa‘ūdīya。北はヨルダン、イラク、クウェートと、アラビア湾(ペルシア湾)に臨む東は海上のバーレーンをはじめカタール、アラブ首長国連邦と、南東はオマーンと接し、西は紅海に臨み、南でイエメンと接する。南方および東方のイエメンとの国境線は確定していない。推定面積は214万9690平方キロメートル、人口2367万9000(2006推計)。首都はリヤド。

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自然

国土は、ヒジャーズ、アシール、ネジド、ハサの四つの地域に区分される。ヒジャーズは紅海の海岸に沿った南北1400キロメートル、幅15~60キロメートルの細長い地域で、北はアカバ湾から南はアシールの辺境に至る。東部はヒジャーズ山脈の急峻(きゅうしゅん)で重畳とした山地が延々とそそり立っている。高いものは2500メートルに及び、多くは火成岩からなり、豊富に金属を埋蔵している。アシールはアラビア語で難路、危険地という意味の地名で、ヒジャーズ地方の南からイエメンの北境までの地域である。東側のヒジャーズ山脈の延長地帯は急峻であり、2500メートル前後の山地が続き、道路は少なく、ロバさえ登攀(とうはん)はむずかしいといわれる。しかし、冬季には流水のみられるワジ(涸(か)れ川)が多く刻まれ、降雨も所によっては年間300ミリメートルに及ぶ。この降雨があるためアブハのような山岳都市も発達している。またワジ沿いには南北320キロメートル、東西75キロメートルほどの平原地帯が広がっており、ティハーマとよばれている。山地は東方に向かって緩い傾斜で降下し、この傾斜の緩さが土地の侵食を阻んで農耕地を提供している。ネジドは高地という意味で、サウジアラビアの中央部にある高原地帯をさす。おもに石灰岩と砂岩とからなるが、西部縁辺には幅35キロメートルに及ぶ火成岩の地域も存在する。この地域はサウジアラビアの中枢で、同国の国家統一のイデオロギーとなった戒律の厳しいイスラム教の宗派、ワッハーブ派の発祥地でもある。現在の首都リヤドもここに位置する。リヤドの年平均気温は26℃、年降水量は135.7ミリメートルと高温乾燥気候である。7月の平均気温は35.8℃に達し、雨はほとんど降らない。ハサは、地表面近くに水の存在する砂地という意味の地名である。サウジアラビア東部の地域をさし、東はアラビア湾に臨み、西はネジド地方、北はクウェート、南はルブ・アル・ハーリー大砂漠に接する堆積岩(たいせきがん)地帯である。油田はこの地域に集中しており、同国の莫大(ばくだい)な石油収入の源となっている。

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歴史

アラビア半島は7世紀以後イスラム文明が興隆し、10~15世紀にかけてエジプト、16世紀以降はオスマン帝国の支配を受けた。1902年、この地に割拠していた部族の一つサウド家の王アブドゥル・アジズ(通称イブン・サウド)がリヤドを中心に近隣諸部族を平定、1926年「ヒジャーズおよびネジドの王」の位についた。1927年にはイギリスとの協定により独立を達成、1932年国名をサウジアラビア(サウド家のアラビア)と改めた。1938年の油田発見に始まる石油開発は、第二次世界大戦後アメリカ資本のアラムコによって本格的に着手され、生産量が急増し、サウジアラビアは世界有数の産油国となった(アラムコはサウジアラビア国有化後の1988年、サウジアラビア国営石油=サウジアラムコに改称)。

 しかし、1953年アブドゥル・アジズの死後王位を継いだ国王サウドは放漫支出などの失政を問われて、1964年に弟のファイサルに王位を譲った。ファイサルは閣僚会議の創設など官僚制による政治の近代化を図るとともに、国家基本法の制定、司法機関の整備などの新政策を打ち出し、近代国家としての基礎を築いた。1975年3月ファイサルは甥(おい)のムサエド王子に暗殺され、ハリド皇太子が後を継いだ。ハリドはファイサルの政策を踏襲したが、1982年6月病死し、ファハド皇太子が国王に指名された。この間、1979年11月、サウジアラビアの一部族を主体とするイスラム教徒過激派が聖地メッカのハラム大モスクを占拠する事件や、東部油田地帯でシーア派イスラム教徒の暴動が発生し、大きな衝撃を与えた。その後も多数の死者を出した1987年のメッカにおけるイラン人巡礼団の反米デモと警察との衝突事件や、1995、1996年の対アメリカ軍爆弾テロ事件、2001年のアメリカ同時多発テロ(サウジアラビア出身のビンラディンが黒幕としてかかわったとされる)などが起きている。2005年のファハドの死後は、1995年以来病身の国王にかわって国政の実務をとっていたアブドラが即位した。

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政治

国王は王であると同時にイマーム(宗教上の長)でもあり、18世紀にムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブが提唱した、厳格なイスラム教への復帰を目ざすワッハービズムを建国の基礎としている。すなわち一種の政教混合政体で、国王の権限は立法、司法、行政各方面にわたり絶対のものである。しかしイスラム法(シャリーア)と慣習法によって政治を行うことが義務づけられており、その権限は無制限ではない。イスラム法は、ウラマーとよばれるイスラム教の長老たちによって解釈、運用されるものである。成文の憲法は存在していなかったが、1992年に制定された統治基本法で、サウジアラビアはイスラム法を法体系とする王制であることが明記され、憲法はコーランとスンナ(預言者ムハンマドの言葉や行為を意味する)であるとされた。なお、統治基本法とともに、諮問評議会法、地方行政法が制定された。政党はいっさい認められていないが、勅命により設置された閣僚会議には、国防航空、都市村落、内務、外務、国務、司法、イスラム事項、水資源電力、人事、高等教育、教育、文化情報、商工業、石油鉱物資源、財政、巡礼、経済企画、労働社会問題、農業、運輸、通信情報技術、保健などの各大臣が置かれている。これらは行政面で国王を補佐するのみならず、立法においても法案を提出し、国王がこれを裁可すれば勅命となる。議会に類する機関として、前述の諮問評議会法に基づき1993年に設置された諮問評議会がある。諮問評議会の機能は限定されており、立法権はないが立法機能は有すると考えられる。評議員は国王の勅令によって選出され、任期は4年で150議席。立法権は内閣の閣僚で構成される閣僚評議会がもち、新法制定には国王(首相)の承認が必要である。民法関係はおもにイスラム法が適用され、土地、水利権などに関しては慣習法によっているが、急速に発展していく経済に対応するため、税法、商法、労働法、鉱業法、外国投資法、産業保護法などに類するものが制定されている。

 地方行政に関しては、行政区としての州、その構成単位としての県、郡、区が定められている。現在13州に分割されており、1992年に公布された地方行政法により、各州に地方行政の責任機関として州会議が設置された。知事と副知事の任免は、内務大臣の勧告に基づき勅令によって行われる。

 2005年2~4月、民主化への改革の一環として地方議会選挙が実施された。地方議会の定員の半数を選挙で選ぶもので(あとの半数は任命)、サウジアラビア建国以来、初の全国規模の選挙となった。選挙権が与えられたのは21歳以上の男性で、有権者は事前に選挙人登録を行う必要があるが、選挙人登録者数は有権者の15~30%程度であったとされる。なお、軍人・警察等の治安関係者は有権者資格を有しなかった。

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外交

外交政策は、アラビア半島の安定化とイスラム世界の連帯、反シオニズム、親欧米などを基本としている。また、巨額のオイル・ダラーを武器に、開発途上国への資金援助、西側先進国との協調外交を推進している。中東問題については一貫して穏健な姿勢を示してきたが、1979年のエジプトとイスラエルの平和条約締結には反対を表明したため、一時エジプトとの関係が悪化した。しかし、その後回復している。1990年8月の湾岸危機にあたっては、米軍主体の多国籍軍の国内展開を受け入れた。2002年2月アブドラは、イスラエルの占領地からの撤退を条件とするアラブ諸国との関係正常化という中東和平案「アブドラ提案」を提示。同年3月のアラブ首脳会議において、このアブドラ提案を盛り込んだ「ベイルート宣言」が採択された。また2007年にはパレスチナ挙国一致内閣樹立を目ざすメッカ合意を成立させた。

 軍隊は志願制で、総兵力12万4500人、そのうち陸軍が7万5000人、海軍が1万5500人、空軍が1万8000人、防空軍が1万6000人を占める(2003)。ほかに国内治安を担当する国家警備隊、国境・沿岸警備隊がある。

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経済・産業

第二次世界大戦前の国家収入は、少量のナツメヤシの輸出と、毎年1回行われるメッカ巡礼に集まる各国からの巡礼者が直接間接に落とす金に依存していた。1938年東部ハサ地区で石油が発見されると、戦後の急激な石油需要の増大に対応して石油生産が大幅に伸張し、同国の経済は一変した。石油生産は1980年には年産36億バレルに達し世界第1位となったが、1982年からの「逆オイル・ショック」で石油の価格、生産量とも激減し、1983年には前年比30%減の17億バレルでソ連、アメリカに次いで世界第3位となった。しかし、確認埋蔵量は2007年現在2643億バレルで世界第1位であり、石油輸出国機構(OPEC(オペック))内の割当量も日量900万バレル前後で世界一と回復し、2007年は日量1041.3万バレルの原油生産量となっている。石油関連収入は国家歳入の約80%を占め、残りは関税、ザカート(喜捨)などからなっている。

 この莫大(ばくだい)な石油収入を基礎として政府は産業の総合開発計画を強力に推進し、国民の生活水準の向上に努力している。また国土開発の基本条件である交通網の整備にも力を入れている。2005年現在、鉄道はリヤド―ダンマム間のみで、総延長は1394キロメートルであるが、リヤド―ジッダ間約950キロメートルの新鉄道路線建設や既存路線の改良計画などを含むサウジアラビア鉄道路線拡大プロジェクトが進行中である。主要都市を結ぶアスファルト道路は着々と整えられ、主要都市には国内線用の飛行場も建設されている。一方では、石油収入は無制限でないことが認識されて、開発五か年計画が1970年から実施されるなど、経済開発計画の総合調整、モノカルチュア(単一商品)経済からの脱皮が試みられている。1975年の第二次五か年計画に続き、1980年5月から始まった第三次五か年計画では、石油収入の減少に伴い計画の手直しを余儀なくされた。経済開発計画はその後も続けて実施され、1995年からの五か年計画では石油依存経済からの脱却、補助金の削減、2000年からの五か年計画では国家収入の多角化、財政赤字ゼロ、生産拡大、国民の雇用機会増大などが主要目標とされた。この長期開発計画によって、経済資源や社会基盤の開発が順調に進められている。

 サウジアラビアは国土の98%が砂漠または半砂漠で、耕地面積は1.6%にすぎず、農牧業の国内総生産(GDP)に占める割合は5.2%となっている(2002)。農業の振興と遊牧民の定着化が図られ、農作物の一部は近隣諸国に輸出するまでになっているが、穀物をはじめ大部分の食料は輸入に依存している。2008年の国内総生産(GDP)は4675億ドル、国民1人当りGDPは1万8855ドル、1人当りの国民総所得(GNI)は2004年には1万0462ドル、2007年には1万5440ドルになっている。

 輸入は、第二次五か年計画の前半に毎年50%を超す伸びを続けてきたが、1980年以後伸び率が減少し、1982年は15.7%増の404億7258万ドルとなり、1994年には302億7207万ドルに落ち着いた。その後はふたたび増加し、2004年には445億1700万ドル、2007年には901億ドルとなっている。一方ほぼ100%を原油、天然ガスで占める輸出は2000年には775億ドル、2004年には1257億2800万ドル、2007年には2340億ドルと、貿易収支は依然として黒字である。おもな輸出品目は原油76.8%、石油製品8.7%、液化石油ガス(LGP)3%、おもな輸入品目は機械類26%、自動車14.9%、鉄鋼8.2%、医薬品2.8%、金属製品2.7%、衣類2.4%など(2006)。おもな輸出相手国は日本、アメリカ、韓国、中国など、おもな輸入相手国はアメリカ、中国、ドイツ、日本など。

 2005年12月、サウジアラビアは世界貿易機関(WTO)の149番目の加盟国となった。サウジアラビアはWTOの前身であるガット(GATT=関税と貿易に関する一般協定)へ1993年より加盟申請をしており、加盟交渉は12年に及んだ。

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社会・文化

サウジアラビア人の多くはアラビア半島出身の純粋のアラブ人であり、エジプト人などのように本来は異民族であったのがアラブ化してアラブ人となったものとは異なる。イスラム教の聖典コーランのアラビア語は、アラブ世界およびイスラム圏に共通であるが、サウジアラビア人は、一部を除いてこの正統アラビア語に近い用法と発音を保持している。住民は生活様式の違いはあっても、フィリピンからの出稼ぎ労働者などを除いてはイスラム教を奉じている者がほとんどである。イスラム教のなかにもいろいろな流れがあるが、サウジアラビアはスンニー派のなかのハンバリー学派ワッハーブ派が支配的である。この宗派は18世紀のサウジアラビアにおこり、その戒律はイスラム世界を通じてもっとも厳しく、現在でも在住外国人も含めた全住民に飲酒を禁じている。偶像崇拝は厳しく否定され、預言者ムハンマド(マホメット)の肖像画を掲げることはおろか、輸入した玩具(がんぐ)の人形やマネキンでさえも、その首を切ったうえでなければ店頭に飾ることが許されなかった。イスラムの二大聖地を守らなければならないという意識は国王が自らを「二聖地の守護者」であると名のることにも表れているが、伝統や戒律を守るため、聖地メッカ、メディナには異教徒の立ち入りが禁止されている。在外公館の設置も紅海沿岸の玄関港ジッダのみに限られ、内陸に位置する首都リヤドには設立が禁じられていたが、近年は多少緩和され、1983年にはすべての在外公館がジッダからリヤドに移転した。テレビ局も設置されているが宗教番組が多い。

 教育には力が入れられ、小学校6年、中学校3年、高等学校3年の六・三・三制で、義務教育は15歳(中学校)までだが、ほとんどが高等学校に進学するので高等学校まで義務教育とすることも検討されている。公立の学校は小学校から大学まで授業料は無料、大学では国家から寄宿費、書籍代などが支給される。男女共学はなく、女子の学校は別にあり、女子教育は文部省の管轄下から独立して女子教育庁の下にある。ファイサル時代に教員養成学校、女子専門学校のほか各種技術の専門学校が設けられ、また国費による海外留学の奨励も活発である。大学はキング・サウド大学(リヤド、1957創立、1980年まではリヤド大学と呼称)、キング・ファハド石油鉱山大学(ダハラーン、1963創立)、イスラム大学(メディナ、1961創立)、キング・アブドゥル・アジズ国王大学(ジッダ、1967創立)、イマーム・ムハンマド・ビン・サウド・イスラム大学(リヤド、1978創立)、キング・ファイサル大学(ダンマム、1975創立)などがある。女子部が設置されている大学もあるが、校舎、講義をも含むすべてが分離されている。

 すべての新聞、雑誌が文化情報省の監督下にある。1930年代にはアル・ビラード紙(ジッダ、1934創刊)、アル・メディナ・アル・ムナッワラ紙(ジッダ、1937創刊)などのアラビア語紙が創刊された。現在アラビア語の日刊紙は、アル・リヤド紙、アル・ジャジーラ紙、アルワタン紙、アルヤウム紙、アッシャルク・アル・アウサト紙、オカズ紙などが発行されている。英字紙としては、1961年創刊のニュース・フロム・サウジアラビア紙、1975年創刊のアラブ・ニュース紙のほかサウジ・ガゼット紙などがある。国営通信社としてサウジ・プレス・エージェンシーがある。サウジアラビア国営放送局はアラビア語放送(第1チャンネル)、英語放送(第2チャンネル。ニュースはフランス語も放送)、青少年向け番組・スポーツ番組(第3チャンネル)、国際ニュース・時事問題(第4チャンネル)の4チャンネルの放送を行っている。以前は、放送はすべてアラビア語であったが、1965年から1日4時間ほど英語放送が始められた。

 祝祭日は、他のアラブ諸国とは違ってサウジアラビア独自のものは存在せず、イスラム教の祝祭日だけである。(1)新年 ムハッラム(イスラム暦1月)の1日で、ムハンマド(マホメット)の聖遷(ヒジュラ)記念日。(2)アーシューラー ムハッラムの10日で、スンニー派では神アッラーがアダムとイブ、天国と地獄、生と死を創造した日。シーア派ではイマーム・フセインの殉教記念日とされる。(3)ライラ・アル・ミュラージュ ラジャブ(イスラム暦7月)の27日で、預言者ムハンマドがメッカからエルサレムのアクサー・モスクへ夜旅をし、さらに昇天(ミュラージュ)して一夜のうちにメッカに戻ってきたという奇跡を記念した日。(4)イード・ル・フィトル(イードル・フィトル) シャッワール(イスラム暦10月)の1日から3日までで、断食明けの祭り。(5)イード・ル・アドハー(イードル・アドハー) ズー・ル・ヒッジャ(イスラム暦12月)の10日から13日までで、犠牲祭とよばれる年間最大の祭り。

 なお、アラブ諸国でイスラム教の祝祭日とされる預言者ムハンマドの誕生日(マウリド・アッ・ナビー)は、サウジアラビアでは祝祭日とはみなされていない。

 もっとも重要な年中行事は、断食と巡礼である。断食はラマダーン(イスラム暦9月)の30日間、日の出から日没までである。巡礼はズー・ル・ヒッジャの7日から10日まで、世界各地から集まってきたイスラム教徒によって、メッカとその近郊で行われる。なおイスラム暦は、ムハンマドがメッカからメディナに移った西暦622年7月16日にあたる日を1月1日とする。太陰暦であるため太陽暦よりも1年がほぼ11日短い。

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日本との関係

サウジアラビアは日本にとって第1位の原油供給国で、日本の石油総輸入量の31.1%(2008)を占めている。1958年(昭和33)8月、アラビア石油は日本の海外石油自主開発第一号として、サウジアラビアとクウェートの中立地帯沖合いで開発を開始した。利権協定に基づき、サウジアラビア、クウェート両政府は、当初より同社にそれぞれ10%の資本参加、1974年からはそれぞれ30%ずつ、合計60%の事業参加を行っていたが、アラビア石油は2000年2月を期限とするサウジアラビアとの石油利権更新交渉に失敗、同年2月28日にサウジアラビアに対する採掘権は失効した。サウジアラビアは日本にとってロシアに次ぐ第24番目(2005)の輸出相手国である。またサウジアラビア側からみて日本は、輸出相手国として第1位、輸入相手国としてアメリカ、中国、ドイツに次いで第4位(2006)となっている。2008年には日本への輸出は5兆2917億円、日本からの輸入は8140億円となっている。日本からの各種分野における開発プロジェクトは活発化し、1975年に締結された経済技術協力協定に基づいて閣僚レベルにおける日本・サウジアラビア合同委員会が設けられた。日本はこの委員会を通じて両国合弁の石油化学プロジェクト、海水淡水化技術の共同開発、リヤドの電気工業学校に対する機材提供、専門家の派遣などを推進している。また、1998年(平成10)10月、「人造り(教育・職業訓練)」「環境」「医療・科学技術」「文化・スポーツ」「投資・合弁」を両国間の協力関係の拡充分野とし、多岐にわたる協力項目を盛り込んだ「日本・サウジアラビア協力アジェンダ報告書」が、両国関係閣僚によって署名された。なお、2005年は日本とサウジアラビアの外交関係樹立(1955)から50周年にあたる記念の年として、両国政府により年間を通じてさまざまな記念行事が実施された。

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『日本貿易振興会編・刊『ジェトロ貿易市場シリーズ295 サウジアラビア』(1989)』『丸岡将晃著『現代アラビアンナイト』(1994・日本貿易振興会)』『ジョン・B・フィルビー著、岩永博・冨塚俊夫訳『サウジ・アラビア王朝史』(1997・法政大学出版局・りぶらりあ選書)』『キャサリン・ブロバーグ著、竹信悦夫訳『目で見る世界の国々65 サウジアラビア』(2004・国土社)』『世界経済情報サービス編・刊『サウジアラビア(ARCレポート)』各年版(J&Wインターナショナル発売)』『小山茂樹著『サウジアラビア――岐路に立つイスラームの盟主』(中公新書)』『岡倉徹志著『メッカとリヤド』(講談社現代新書)』『岡倉徹志著『サウジアラビア現代史』(文春新書)』『アントワーヌ・バスブース著、山本知子訳『サウジアラビア 中東の鍵を握る王国』(集英社新書)』『保坂修司著『サウジアラビア 変わりゆく石油王国』(岩波新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「サウジアラビア」の意味・わかりやすい解説

サウジアラビア
Saudi Arabia

基本情報
正式名称=サウジアラビア王国al-Mamlaka al-`Arabīya al-Sa`ūdīya/Kingdom of Saudi Arabia 
面積=214万9690km2 
人口(2010)=2714万人 
首都=リヤードRiyāḍ(日本との時差=-6時間) 
主要言語=アラビア語 
通貨=サウジ・リヤルSaudi Riyāl

アラビア半島の約80%を占める王国。ナジュド出身のサウード家のアブド・アルアジーズ・ブン・サウードが建国した。彼は1902年にリヤードを手中にして以後アラビア半島にワッハーブ派のサウード家の王国を再興し,24年にはイギリスの援助をうけていたヒジャーズのフサインを破り,〈ヒジャーズの王,ナジュドおよびその属領のスルタン〉を称し,27年イギリスとジェッダ条約を結び,国際的承認をえた。32年9月18日に勅令によって,ヒジャーズとナジュドの2王国およびその属領を〈サウジアラビア王国〉の名称で統合した。国名の意味は〈サウード家のアラビア王国〉である。北はヨルダンとイラク,北東はクウェート,東はペルシア湾(アラブではアラビア湾と呼ぶ),カタル,アラブ首長国連邦,南はオマーン,イエメン,西は紅海に接するが,イエメンやオマーンとの国境には不明確な部分がある。

国土は西から東に向けてゆるく傾斜し,西の紅海沿岸には険しい火山性のアシール山脈と狭いティハーマ平野がある。ヒジャーズ地方の東は変化に富むナジュド高原につながる。高原は乾燥し,北の大ナフード砂漠と南のルブー・アルハーリー砂漠を,東部のダフナーal-Dahnā’砂漠が連結している。ナジュド高原の中心には,首都リヤードなどの国家権力の中枢が位置している。東部のハサー地方ではオアシスが多く,沿岸には世界有数の油田地帯がある。最も高い山(2900m)はアシール地方にある。紅海には小島,サンゴ礁,暗礁が多いため自然の良港はないが,ジェッダとヤンボーはイスラムの聖地メッカ,メディナへの巡礼者の出入港として発展した。東部ペルシア湾岸には大規模な石油積出港がある。

 気候は一般に砂漠性,高温で,雨量は平均年100~200mm以下と少ない。内陸高原は大陸性気候で,夏は40℃を超えるが冬は冷えこむ。沿岸部の夏は40~50℃になり湿度も高く,ジェッダでは90%を超えることがある。

 住民はコーカソイド系の地中海型人種であるが,数世紀にわたってニグロイド系のアフリカ奴隷との混血が進み,複雑な人種が生まれている。一般的には,ティハーマ平野ではニグロイド系が多く,ナジュド高原ではより典型的な地中海型人種に属するベドウィンが多い。北方のカイバル地方およびシャンマル地方からダワシール渓谷にかけての一帯には〈バヌー・フダイル〉と呼ばれるベドウィンとニグロの混血が分布している。東部には〈シュルバ〉または〈スライブ〉と呼ばれ,工芸や狩りを得意とする集団がいるが,彼らはベドウィンとは異なり,おそらく同族結婚によって発生したものと考えられる。いわゆる人種偏見は弱く,王族などにみられる厳格な結婚のルールは,人種とは無関係で,階級または血統にかかわるものである。人口については,701万(1974国勢調査),1842万(1996年央国連推計)などの数字があるが,実情はよくわからない。国民が広範囲の砂漠に遊牧民として移動しているため,厳密な調査が困難であるうえ,政府が国土面積のわりに人口が少ないことを弱味と意識し,安全保障上から正確な人口を示したがらないという事情もあると思われる。住民の多くはスンナ派ムスリムで,なかでも厳格なワッハーブ派を信奉する。

建国の翌1933年にアブド・アルアジーズがアメリカのカリフォルニア・スタンダード石油会社(1944年からARAMCO(アラムコ)に吸収,合併)に石油利権を供与したとき,この国の近代史の主潮流の方向が決まった。当時の国民の生活は預言者ムハンマドの時代と大差なかったが,38年に東部ハサー地方で油田が発見され,第2次大戦後,アメリカによる石油開発が本格化するに伴い,生産量と石油収入が急増し,社会の発展を促した。

 第2次大戦前,アメリカは石油開発の主役ではあったが,サウジアラビアそのものはイギリスの勢力圏にあった。サウジアラビア経済はスターリング圏に属し,政府財政顧問もイギリス人であった。アメリカがサウジアラビアの石油の戦略的重要性を認識し,両国関係が政府レベルで強化されるのは,アメリカがヨーロッパ戦線に全面参戦してからである。1943年,アブド・アルアジーズは合衆国大統領F.D.ローズベルトからパレスティナ問題に関する好意的書簡を受け取り,44年にアメリカはダハラーンに領事館を開設,同じ年サウジアラビア経済はドル圏に移行した。45年2月にアブド・アルアジーズはヤルタ会談帰りのローズベルトとスエズ運河の米艦上で会談を行った。こうして終戦時には,イギリスの影響力はほぼ排除され,サウジアラビアにおけるアメリカとイギリスの立場は逆転していた。大戦中,サウジアラビアは中立を装いつつも連合国側に好意的で,40年にドイツからのジェッダ公使館設置申入れを事実上拒否し,45年にいたってドイツに宣戦布告した。これによって戦後,国連の原加盟国となった。

 中東の域内政治のレベルでは,東地中海沿岸におけるフランス,パレスティナにおけるユダヤ人,イラクおよびトランス・ヨルダンにおけるハーシム王制と敵対関係に立った。建国以来,周辺諸国との国境調整につとめたが,遊牧民を主体とする部族世界では国境概念が弱く,政府が画定した国境も住民の意識の上ではあまり意味がなかった。アブド・アルアジーズは部族社会とワッハーブ派の伝統の中で石油開発後の新時代に対応しなければならず,試行錯誤の統治を続けた後,53年に死去した。

 後継のサウード・ブン・アブド・アルアジーズSa`ūd b.`Abd al-`Azīz(1902-69。在位1953-64)の時代は,東西冷戦の深まりとアラブ民族主義の高まりに直面し,振幅の大きい政策が展開され,とくに52年のエジプト革命で王制から共和制になったエジプトとの関係が動揺した。55年に反共のバグダード条約機構が成立するとこれに反対し,エジプト,シリアに接近したうえ,56年のスエズ動乱でイギリス,フランスと断交した。しかし,スエズ運河閉鎖による石油収入激減に対応できず,サウードは57年訪米して,石油開発で協力関係にあるアメリカから財政援助を受けるにおよんで,しだいにナーセル主義主導のエジプトから離反した。財政悪化を含め,統治・管理能力の欠如を暴露したサウードは,王族集団の信を失い,58年ファイサル皇太子を首相として大幅な権限を委譲した。サウードが旧体制を代表したのに対し,改革推進派のファイサルは国際通貨基金(IMF)の勧告に基づいて財政改革を断行,対エジプト関係も修復したが,サウードとの関係が悪化したため,またもサウード親政が復活した。61年サウードが病気で倒れ,ファイサルが摂政となって施政権を行使,64年11月に正式に王位に就いた。世界はこの宮廷革命にあまり関心を示さなかったが,今日のサウジアラビアの基礎が固まるのは,ファイサル治下(在位1964-75)においてである。

 これに先立つ62年にイエメンで王制派と共和派の間で内戦が起こると,サウジアラビアは王制派,アラブ連合(エジプト)は共和派を支援して,両国関係は悪化し,66年のファイサルによるイスラム同盟結成の提唱はサウジアラビアの主導権拡大を策するものとして,さらにナーセルの反発を招いた。67年に第3次中東戦争が始まると,アラブ諸国は対立を解消して対イスラエル戦に大同団結した。ファイサルは69年9月に第1回イスラム諸国首脳会議をモロッコで開催,イスラム世界の盟主の立場を強化し,同12月にナーセルと和解,70年7月にイエメン・アラブ共和国(北イエメン)を承認した。同年9月に登場したサーダート体制下のエジプトとはより親密になった。イギリス軍のスエズ以東撤退(1971)以後のペルシア湾岸地域の安全保障のため,イランと協力体制を樹立,サウジアラビアとイランの二つの地域大国で責任を負うというアメリカの現地肩代り政策に同調した。

 73年に第4次中東戦争が勃発するや,ファイサルはアラブ産油国をリードして石油戦略を発動,生産削減と禁輸を実施,価格を引き上げて西側先進国に衝撃を与えた(石油危機)。アメリカとの関係も一時緊張したが,74年に両国間に合同経済協力委員会が発足,関係は修復された。75年3月25日,ファイサルは甥の凶弾で暗殺され,ハーリドKhālid b.`Abd al-`Azīz(1913-82。在位1975-82)王政が誕生した。ファイサル時代は外交的に穏健路線,内政的には政治,経済,教育,文化のあらゆる面でゆるやかな近代化路線を定着させた。反対勢力も存在したが,68,69年の大量逮捕などで一応の安定を保った。

 ハーリドはファイサルほどのカリスマ性を欠き,ファハドFahd b.`Abd al-`Azīz皇太子(1922-2005)が親米・開発路線の推進役を演じた。しかし,アラブ世界の総意尊重が王制護持を約束するとの立場から,エジプトの対イスラエル単独和平やアメリカ主導のキャンプ・デービッド合意を否認した。79年のイラン革命は東部油田地帯のシーア派ムスリムを動揺させ,同じ年のメッカのカーバ襲撃事件は王族独裁体制の脆弱な体質を暴露した。イラン・イラク戦争の勃発(1980)は湾岸地域の安全保障問題を緊急なものとし,サウジアラビアはアメリカから空中警戒管制機(AWACS)の急派を得るとともに,81年5月に湾岸協力会議(GCC)を発足させ,自国軍事力を増強した。82年6月13日,ハーリドが病死,ファハドが円満に王位を継いだ。

 王族独裁下で,国王は宗教最高指導者のイマームを兼ねる。王族内の最強派閥は,名門の母を同じくする〈スデイリー家の7人〉として結束する兄弟グループで,これにはファハド国王,スルターン第二副首相・国防相,ナーイフ内相らが含まれる。これに対抗するのが,アブドゥッラー第一副首相・皇太子のグループである。双方とも保守・反共だが,近代化について前者は促進派,後者は慎重派,また対外関係では前者は親米派,後者はナショナリスト的とほぼ区分される。軍隊も二つの流れがあり,正規軍はスルターン国防相の属するスデイリー派,国家警備軍はその司令官を兼ねるアブドゥッラー派として,牽制しあう。これらサウード家の政敵としては分家のジルウィ家があり,油田や多数のシーア派ムスリムをかかえる東部州の知事を歴代担当している。

 憲法,議会,政党,労組はいっさい存在せず,92年に設置された諮問評議会と地方評議会は民意くみ上げを名目とするが,国王に対する助言的な機能を持つにすぎない。司法はイスラム法(シャリーア)に基づく。社会的変動が進み,伝統的価値が揺れると,政治的摩擦が生ずるが,政治犯釈放の際に生活資金を与えるといったように体制保存のメカニズムとして財力による〈忠誠心買上げ〉が効力を発揮してきた。しかし,湾岸戦争がこの国の政治的空気を一変させた。停戦後も米軍がサウジアラビアに駐留したからで,イスラムの伝統的価値を尊重する勢力が,異教徒の米軍にテロで反発を示すようになった。その反発の標的は,米軍駐留を受容する王制という古い秩序にも向けられた。行政州はリヤード,メッカ,東部,アシール,メディナ,ハーイル,北部辺境など14州に分かれる。

 2005年8月ファハド国王が死去し,異母弟のアブドゥッラーが即位した。

国家財政を聖地巡礼者からの収益に頼り,国民は遊牧と小規模な農業で生活していた経済状況は,石油開発,とくに1970年代の石油収入急増によって,革命的変化をとげた。基本的な経済的特性は石油モノカルチャーであり,経済成長率,国内総生産や輸出における比重,外貨収入源など,いずれの観点からみても石油部門がずばぬけて上位を占める。これまでに石油の発見に成功したのは,アメリカのARAMCO,ゲッティ石油,日本のアラビア石油の3社だけである。石油の確認埋蔵量は諸説あるが,《オイル・アンド・ガス・ジャーナル》誌は2590億バーレル(1996)としている。

 石油関連産業を推進させるため,1962年に石油鉱物資源公団(ペトロミン)が設立された。石油収入を石油化学を中心とする工業開発に投資し,将来の石油枯渇に備えて石油依存経済から脱皮し,石油化学製品などの輸出で経済自立できる基盤をつくるという発想である。70-71年度から五ヵ年計画を開始,81-82年度から第3次五ヵ年計画に入った。第1次,第2次の10年間に年平均成長率11.4%を維持し,国内総生産は3倍にふえた。第1次では石油輸出が,第2次では石油収入がさらに民間の建設,サービス事業を促して,高度成長を可能にし,海外投資も急増した。東部沿岸のジュバイルと西部沿岸のヤンボーを二大工業地帯とする計画が着手された。第3次計画の重点は人的資源開発,地域振興,民間工業振興などである。83年3月に石油輸出国機構(OPEC)が石油価格を大幅に値下げした結果,かなりの収入減となり,開発計画に初の緊縮気運をもたらした。

 83-84年度以来,財政赤字を計上し,湾岸戦争で戦費の支出を強いられた90-91年度に赤字はピークに達した。この間,予算を編成できないほど財政が混乱した年度もあった。しかし,財政緊縮の努力と石油価格の上昇によって,90年代半ばにようやく財政健全化の見通しが開けた。五ヵ年計画の重点は,引き続き教育など人的資源開発に置かれている。

 耕作地は国土の0.3%以下にすぎない。必要食糧の約90%を輸入している状況を打開するため,ベドウィンを定着させ,農業に従事させる試みがなされているが,成功していない。伝統的な遊牧を発展させることにより畜産部門は着実に成長している。

開発に伴う急激な社会変動をイスラムや遊牧社会の伝統的価値観とどう調和させるかが前例のない大課題である。労働力の面にそれが象徴的に表れている。自国労働力が絶対的に足りないのに,女性の社会活動は極端に制限され,車の運転さえ禁じられている。男女共学・共働も認められていない。遊牧民ベドウィンは定着労働を蔑視するために,開発労働力として期待しにくく,外国人労働者の導入で補われる。イエメン人,エジプト人,パレスティナ人など中東域内からだけではまにあわず,70年代半ばからはインド,パキスタン,インドネシア,フィリピン,韓国,台湾からも導入された。非アラブ系・非ムスリムの者は異なる価値観や生活様式を持ち込み,アラブ系ムスリムも土着のワッハーブ派ムスリムと違って,より柔軟な信仰生活や異なるイデオロギーをもって地元民と共通の言語で対話するので,ともに社会的動揺をもたらす。外人労働者を地元民から隔離する措置も試みられた。彼らが〈二級市民〉扱いで差別されていることも不満を醸成する。根本的解決は,彼らを国家社会にできるだけ平等に組み入れることだが,そうすると社会の本来的性格が変わってしまう。

 留学帰国者がもたらす社会的影響もある。アブド・アルアジーズが1927年に最初の留学生14人をカイロに送って以来,その数は増え続け,現在ではアメリカを中心に常に1万人にのぼっている。彼らは自国で禁じられている飲酒や自由な男女交遊の経験をもって帰国するので,イスラムの規律・道徳の動揺は避けられない。留学帰国者は非王族テクノクラートとして,支配階級の内部にも新しい勢力をもちつつある。

 第2次大戦後,電話やラジオを導入しようとしたとき,宗教界が強く反対したが,現在ではテレビも導入された。すべて国営であり,宗教番組が多い。言論・集会の自由はなく,王政内部の動きが国民に組織的に報道されることもなく,口づての情報がひそかに広がってゆく。

 司法においては,見せしめのための公開の場所での処刑も行われる。1977年,王女のひとりが姦通罪で処刑された事件は,王族内部でもイスラムの規律・道徳が揺らいでいることを示している。ファハド国王は83年6月,イスラム法を現実に適応させるため〈イジュティハード〉,つまり類推(キヤース)による新解釈の必要性を呼びかけたが,イラン革命によりイスラムの規律引締めへの圧力もあるため,内外の反応をみながら一進一退の形で社会変革を目ざしている。1996年に執行された公開斬首刑は71件であった。それが増加傾向にある事実は,公開斬首の対象である殺人,強姦,麻薬売買,武装強盗などの犯罪が増加していることを示している。
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百科事典マイペディア 「サウジアラビア」の意味・わかりやすい解説

サウジアラビア

◎正式名称−サウジアラビア王国Kingdom of Saudi Arabia。◎面積−214万9690km2。◎人口−2714万人(2010)。◎首都−リヤド(519万人,郊外を含む,2010)。◎住民−大部分がアラブ。◎宗教−イスラム(国教,大部分はワッハーブ派)。◎言語−アラビア語(公用語)。◎通貨−サウジ・リヤールSaudi Riyal。◎元首−国王,サルマンKing Salman bin Abdulaziz Al-Saud(2015年1月即位)。国王が首相を兼務。◎憲法−なし。◎国会−なし。1993年12月諮問評議会(定員150,任期4年,国王が任命)が発足。政党なし。◎GDP−4676億ドル(2008)。◎1人当りGDP−1万4581ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−7.9%(2003)。◎平均寿命−男73.9歳,女77.6歳(2013)。◎乳児死亡率−15‰(2010)。◎識字率−86.1%(2009)。    *    *アラビア半島の大半を占める王国。首都リヤド。宗教上の首都はメッカ。国土の大部分が砂漠の高原で西部は標高2000mにも達するが,中部は標高700m前後で,ペルシア湾に向かって傾斜している。気候は亜熱帯性。ARAMCOが独占的に採掘しているペルシア湾岸の石油の利権料が国の主要財源で,メッカ巡礼者からの収入も重要な財源である。住民の過半は,灌漑(かんがい)農業(デーツ,小麦,コーヒー),牧畜に従事する。 ワッハーブ派の運動を背景に,サウード家のアブド・アルアジーズ・ブン・サウードがヒジャーズナジュドを合わせて1927年独立,1932年現国名に改めた。国王による専制国家で,議会,政党はない。1964年即位したファイサル国王は,アラブ産油国の主導権をにぎり,石油の禁輸と値上げを断行して第4次中東戦争のアラブ側勝利を導き,サウジアラビアの石油収入を飛躍的に増大させたが,1975年暗殺された。続いて即位した異母弟ハーリドは病弱で,1982年に死去,皇太子のファハドが後を継いだ。2004年11月以降,建国以来初の全国選挙(地方評議会)が実施された。外交方針は親西欧だが,女性の権利や信教の自由などへの厳しい制限によって,しばしば人権問題が浮上する。2011年3月,中東,マグレブ諸国で続いた民主化要求デモに呼応して,少数派のシーア派住民による政治犯の釈放などを求めるデモが起こったが,警官隊が武力で押さえ込んだ。政府は,抗議行動やデモ行進の全面的禁止を発表している。2011年9月国王は女性参政権の拡大を発表,2013年諮問評議会(定員150名)に30名の女性議員が初めて任命された。2015年の地方議会選挙における参政権付与を発表した。外交的には,米国との同盟関係を軸に西欧諸国との協力を基本とし,湾岸諸国会議(GCC)諸国の団結及びアラブ・イスラム諸国との結束強化に取り組んできた。中東和平問題については,2002年,イスラエルのパレスティナ占領地よりの撤退と引き換えに関係正常化するという〈アラブ和平イニシアティブ〉を提唱した。イランの核開発については反対の立場を表明,中東地域全体を非核地域とすることを主張している。2014年8月,米国を中心とする対IS有志連合による空爆に参加した。2015年3月には,隣国イエメンで勢力を広げるイスラム教シーア派の武装組織フーシ派に対して,自らが中心となって有志連合を結成し空爆を開始した。これに対してフーシ派を支援してきたイランは同日,攻撃の即時中止を要求している。経済問題では,若年層の雇用増大が課題となっている。
→関連項目ウサマ・ビン・ラディンファハド

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サウジアラビア」の意味・わかりやすい解説

サウジアラビア
Saudi Arabia

正式名称 サウジアラビア王国 Al-Mamlakah al-`Arabiyyah al-Sa`ūdiyyah。
面積 214万9690km2
人口 3584万1000(2021推計)。
首都 リヤード

アラビア半島の大部分を占める国。宗教上の首都はメッカ。西部の紅海沿岸にはヒジャーズ山地(→ヒジャーズ地方),アシール山地が連なり,東部ペルシア湾岸はゆるやかに傾斜して高原台地を形成。国土の大部分は砂漠ステップであるが,大地の下には地下水が層をなして全体に行き渡り,伏流がオアシスとなって,リヤードなどの内陸都市や耕地を形成。16世紀にオスマン帝国の支配下に入り,遊牧民(→ベドウィン族)とオアシス農民の居住地であったが,1926年イブン・サウードがヒジャーズ王国およびナジド王国(→ナジド地方)を建国,1927年イギリスから独立を認められ,1932年「サウード家のアラビア」を意味する現国名のもとに両王国を統合した。住民の大部分はアラブ人で,アラビア語を話し,イスラム教スンニー派のなかでも戒律の最も厳しいワッハーブ派のイスラム教徒(→ワッハーブ派運動)。イスラム暦を使用し,司法も『コーラン』による。比較的雨量の多いアシール山地やオアシスでは,コムギ,キビ,トウモロコシ,アルファルファ,アラビアゴムノキ,コーヒーなどを栽培する。第2次世界大戦後,石油が開発され,世界でも有数の産出国で,最大の石油輸出国となっている。1980年代に外国資本の石油会社アラムコを国有化し(→サウジアラムコ),その収入により,経済,社会の近代化が推進されている。経済成長にあわせておびただしい数の外国人労働者が流入し,21世紀初めには総人口の 20~25%を占めるにいたった。憲法,議会,政党をもたない祭政一致君主制であるが,1991年の湾岸戦争後,民主化要求が高まり,21世紀初め,ゆるやかな改革が始まった。

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知恵蔵 「サウジアラビア」の解説

サウジアラビア

アラビア半島の中北部を占めるイスラム王国。面積は215万平方キロメートルで、日本の6倍近く。人口は約2600万人(2009年現在)で、海外からの労働者が4分の1を占める。首都は内陸北東部のリヤド。半島西部のメッカとメディナはイスラム教の聖地として、多くの巡礼者を集める。石油の生産量・埋蔵量は世界有数で、輸出量は世界一。国家財政の大半を石油関連収入に依存している。
建国の歴史は浅い。二大聖地のある半島西部は長らくオスマン=トルコの領土であったが、内陸部では多くの部族が群雄割拠していた。その中から頭角を現したのが、サウード家である。サウード家は周辺部族を次々と従え、19世紀初頭にはメッカとメディナも支配下に入れた。その後、一時ラシード家に追われるが、1902年にイブン・サウード(アジーズ2世)がリヤドを奪回し、再びアラビア半島のほぼ全域を版図に収めた。
32年、サウードはサウジアラビアを建国、初代国王の座についた。以来、現在の元首であるアブドラ国王まで、サウード家による祭政一致の王族支配が続いている。サウジアラビアの国名は、「サウード家のアラビア王国」という意味である。
サウード家は聖典コーラン(クルアーン)の戒律に忠実なワッハーブ派(スンニ派)を支持する。ワッハーブ派は初期イスラムの原理とムハンマドのスンニ(行動規範)を重んじる復古主義の一派で、シーア派に見られる偶像崇拝や神秘主義的傾向などは一切否定する。建国以来、サウード家はワッハーブ派のイスラム解釈を国政に適用しており、国民にも日常生活の全般においてイスラム法(シャリーア)に則った宗教的実践を要求する。政党・議会及び憲法も存在しない。
内政ではこうした原理主義的支配を貫く一方、外交ではアラブ世界の穏健派として、欧米の信頼も取り付けている。90年の湾岸戦争の時には米軍主体の多国籍軍の駐留を認め、国内外の敬虔(けいけん)なムスリム(イスラム教徒)を失望させた。また、パレスチナ問題でも、アラブ世界の連帯強化を提唱しながら、反イスラエル強硬派とは一線を画するなど、自国の王制維持と地域の安定を優先した全方位外交を進めている。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2011年)

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旺文社世界史事典 三訂版 「サウジアラビア」の解説

サウジアラビア
Saudi Arabia

アラビア半島の大部分を占める王国。首都リヤド
7世紀に,ムハンマドによりイスラームが創始されて,以後イスラーム勢力による支配が続き,16世紀にはオスマン帝国領となった。19世紀にはいると,ネジドの豪族サウード家のイブン=サウード(1880〜1953)がイスラームのワッハーブ派による運動を背景に,リヤドを中心として勢力を拡張し,1926年ヒジャーズ王国を征服,32年サウジアラビア(サウード家のアラビアの意)を建国した。1937年ペルシア湾沿岸地方で石油が発見され,アラビア−アメリカ石油会社による開発で,中近東で最も富裕な国の1つになった。メッカは宗教上の首都。

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