改訂新版 世界大百科事典 「ビレルコトレの王令」の意味・わかりやすい解説
ビレル・コトレの王令 (ビレルコトレのおうれい)
Ordonnance de Villers-Cotterêts
フランス国王フランソア1世が,1539年8月30日,パリの北東約75kmの小都市ビレル・コトレで発布した王令。絶対王権の樹立へと向かうにつれ王権の立法活動が活発になるが,この王令はその端緒となった重要なものである。大法官ポアイエGuillaume Poyerにより起草され,国政全般にわたり全192条に及ぶ詳細な規定を設けている。改正点としてとくに注目されるのは,王権による言語の統一と戸籍制度の法制化であり,いずれも王権による支配の貫徹をはかったものである。言語については,全王国の国王裁判所において,判決その他訴訟文書はすべて〈母語なるフランス語langage maternel françois〉にて記さるべし,と定めた(第111条)。これはラテン語に対するフランス語の優位を宣明すると同時に,南フランスで広く用いられていたオック語や,ブルトン語,バスク語,その他諸方言の使用を禁じ,王権の基盤である北フランスのオイル語を国家語として強制するものであって,王権による中央集権の重要なてことなった。他方,戸籍制度の法制化は,全教区の司祭に教区民の洗礼の記録を作成し,出生の日時を明確にするよう義務づけ(第51条),さらにその記録を年1回所管の国王裁判所書記部に提出するよう求めている(第53条)。この規定は,やがて79年のブロアの王令で婚姻と埋葬にまで拡大され,67年のサン・ジェルマンの民事王令で補足確認されて,〈教区簿冊registre paroissial〉の形で整備されることとなった。これがフランス革命に始まる近代的戸籍簿の前身であり,王権による国民把握の重要な手がかりとなった。ビレル・コトレの王令は,このほかにも裁判制度改革の多くの規定を設けており,萌芽的な形ながら王権による社会的規律化推進の重要な画期をなしている。
執筆者:二宮 宏之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報