日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビースティ・ボーイズ」の意味・わかりやすい解説
ビースティ・ボーイズ
びーすてぃぼーいず
Beastie Boys
アメリカのパンク、ラップの3人組グループ。ニューヨークで結成された。貧しい黒人やカリブ系移民の音楽だったラップ・ミュージックを、白人として前面に打ち出し、最初に大成功したグループとして知られる。
メンバーはマイク・DMike D(1966― )、MCA(1965― )、Ad・ロックAd-Rock(1967― )で、みな中流のユダヤ人家庭の出身である。グループは最初、マイク・DとMCA、のちに女性だけのパンク、ヒップ・ホップ・バンド、ルシャス・ジャクソンを結成するケイト・シェレンバックKate Schellenbach(1966― 、ドラム)らによるハードコア・パンクのバンドだった。その後、メンバー変更を経て、エキセントリックなパンク的センスを残しつつラップへと接近していった。
1985年、ビースティ・ボーイズはデフ・ジャム・レコードと契約する。デフ・ジャムはリック・ルービンRick Rubin(1963― )とラッセル・シモンズRussell Simmons(1957― )により設立され、パブリック・エナミーやビースティ・ボーイズら新しい才能と契約したことで大きな成功を手にした。
デフ・ジャムやビースティ・ボーイズにとって成功へ結びつく契機となったのが、ラップ、ヒップ・ホップ文化を描いた映画『クラッシュ・グルーブ』Krush Groove(1985、マイケル・シュルツMichael Schultz(1938― )監督)だった。ビースティ・ボーイズは映画のサントラに「シーズ・オン・イット」を提供したが、この曲はハード・ロック・バンド、AC/DCの「ブラック・イン・ブラック」をサンプリングして使っており、やり方はランDMCのスタイルと同じで、ラップとハードなロック・サウンドはなじむことを示した。
86年、ファースト・アルバム『ライセンス・トゥ・イル』が発売され、全米ポップ・チャートで7週間連続1位となる。パンク的ともいうべき攻撃的な音楽性や発言は、若いロック・ファンに熱狂的に受け入れられた反面、多くの公演会場で暴力的な混乱が発生。87年のイギリス・ツアーではファンの傷害事件に関連してAd・ロックが裁判所に呼び出されたこともあった。
人気グループとして一気にスターダムへ駆け上がったビースティ・ボーイズだが、所属会社とのもめごとが発生、結局はレコード会社を移籍することになる。ようやく2枚目のアルバム『ポールズ・ブティック』を発売するのは89年だが、その間、彼らはメジャーによる音楽ビジネスとミュージシャンの理念には深い溝が横たわっていることを理解し、独自の活動を行うようになっていった。デビュー・アルバムの制作を任せたデフ・ジャムのルービンと手を切ったのもその一例で、2枚目のアルバムをダスト・ブラザーズ(後のケミカル・ブラザーズ)というプロダクション・チームと一緒に完成させている。また92年には拠点となるスタジオをつくったほか、自分たちが経営するレーベル、グランド・ロイヤルを設立し、3枚目のアルバム『チェック・ユア・ヘッド』を発売した。これ以降グランド・ロイヤルからは、ルシャス・ジャクソンやジョン・レノンの息子であるショーン・レノンSean Lennon(1975― )、日本人3人組のバンド、バッファロー・ドーターら多様なアーティストの作品が発表されている(同レーベルは2002年に閉鎖を発表)。
ビースティ・ボーイズは、こういった音楽活動だけにとどまらず同名のカルチャー誌(1994~2002)も創刊し、第14世ダライ・ラマのインタビューを載せ話題となった。また同年には、メンバーのアダム・ヤウクAdam Yauch(MCAの本名)の呼びかけにより、チベットの独立を支援する非営利団体「ミラレパ基金」が設立された。彼らは欧米の人気ロック・アーティストの協力のもと、チベットの解放を訴え、96年、97年、99年と大がかりな「チベタン・フリーダム・コンサート」も開催している。
[藤田 正]