改訂新版 世界大百科事典 「ビータウタス」の意味・わかりやすい解説
ビータウタス
Vytautas
生没年:1350-1430
リトアニア大公。在位1392-1430年。大公カストゥティスの子。父は大公アルギルダスとリトアニア大公国を東西に二分し,2大公両立時代の国の繁栄を築き,西方においてビータウタスとともにドイツ騎士修道会の東方進出を食い止めていた。しかしヨガイラ(のちのポーランド王ヤギエウォJagiełło。1350ころ-1434。在位1386-1434)が父アルギルダスの地位を継承するに及んで,大公国はしばらく内紛状態が続いた。1382年カストゥティスとビータウタスはヨガイラによって捕らわれの身となり,父は獄死し,ビータウタスは辛くもプロイセンに逃れ,それまでの仇敵ドイツ騎士修道会の庇護を得,ヨガイラと対決した。しかし86年ヨガイラがポーランド王ヤギエウォとなるに及んで,ヤギエウォとビータウタスは和解し,後者はリトアニア大公の称号を認められ,リトアニア大公国の全土を統治した。すでにリトアニアはキリスト教国となり,ドイツ騎士修道会はリトアニア侵攻の名目を失っているにもかかわらず,なおも大公国領内への侵入を重ねた。騎士修道会の絶えざる東方への勢力拡大に対し,ビータウタスとヤギエウォはリトアニア・ポーランド連合軍隊を結成し,1410年7月15日,世に名高いグリューンワルトGrünwald(現,ポーランドのマルボルク近郊)でドイツ騎士修道会の軍隊を破り,さらに修道会の本拠地マリエンブルク(マルボルク)を包囲した。この戦いにより修道会は弱体化し,200年続いたリトアニアへの侵攻はようやく終わった。1411年のトルニ条約を経て22年のメルノ条約の締結によって,リトアニアとドイツの恒久的な境界線(1919年まで続く)が定められたことは特に意義深い。その間にあってビータウタスはしばしば南ロシアに遠征し,クリミア半島を含む黒海沿岸地方まで領土を広げた。彼はカトリック,ロシア正教を公認したほか,ユダヤ商人,タタール人職人を国内に迎え,商工業・交易を盛んにし,巧みな外交によって大公国の最盛期を現出させた。第2次世界大戦前リトアニアの独立国時代,当時の首都カウナスの大学は,知謀にたけた大公の遺徳をしのび,〈大ビータウタス大学Vytauto Didžiojo Universitetas〉と呼ばれた。
執筆者:村田 郁夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報