アメリカのソウル・ミュージック・シンガー。情熱的な歌声で1960年代から1970年代初頭にかけて高い人気を得た。「ダンス天国」「ムスタング・サリー」などは、当時の日本でもヒットした。生まれは南部のアラバマ州プラットビルで、16歳のときにデトロイトへ転居した。
1950年代末にはプロとして歌いはじめ、1961~1963年、地元のソウル・グループ、ファルコンズに在籍した。このときリード・ボーカリストとして歌った「アイ・ファウンド・ラブ」(1962)が初期の代表曲である。ゴスペル・ソングをそのままラブ・ソングに移し替えたようなこの曲は、ソウル・ミュージック時代の幕開けを告げる1曲だといわれている。ファルコンズは、初期のソウル・ミュージックを飾る重要なグループの一つで、のちに「ノック・オン・ウッド」(1966)をヒットさせるエディ・フロイドEddie Floyd(1937― )が創設メンバーの一人だった。ファルコンズはピケットの脱退により解散してしまうが、フロイドとピケットはその後ソロ・アーティストとして、同じ南部系サウンドで人気を競うことになった。
1960年代のソウル・ミュージックは、南部の地方都市に拠点を置くレコード会社やスタジオを誕生させたことも特徴の一つだった。テネシー州メンフィスのスタックス・スタジオやアラバマ州西端の町マッスル・ショールズにあるフェイム・スタジオがそれである。どちらも優秀なバンドマンやプロデューサーらを集め、独自のサウンドを誇っていた。ニューヨークをベースとするアトランティック・レコードが、契約を結んだピケットをスタックスへ送りこんだのも、エネルギッシュな彼のボーカルにふさわしいサウンドを求めてのことだった。メンフィスにおけるピケットのバックは、スタックスのハウス・バンド、ブッカー・T&ザ・MGズのメンバーたちであり、作曲家陣にはフロイドの名前もあった。こうして生まれたのが「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」をはじめとする、熱気に満ちたピケットらしいナンバーだった。
その後、フェイム・スタジオにおいてボビー・ウーマックや、のちにオールマン・ブラザーズ・バンドを結成するデュアン・オールマンDuane Allman(1946―1971)らともみごとなセッションを行った。そのなかには「ムスタング・サリー」「ファンキー・ブロードウェー」といった名唱、ビートルズの「ヘイ・ジュード」をドラマティックにカバーしたポップ・ヒットもある。1970年、ピケットはフィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオで『イン・フィラデルフィア』を録音。「ゲット・ミー・バック・オン・タイム、エンジン・ナンバー・ナイン」などのヒットをつくっているが、徐々に以前の勢いを失っていった。
1991年、「ロックン・ロール・ホール・オブ・フェイム」(ロックの殿堂)の仲間入りを果たした。
[藤田 正]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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