明治時代には「場」を訓読みするコウバも併用されているが、今日のスーパーマーケットのような「勧工場(かんこうば)」との混同を避けるためもあったか、コウジョウと呼ぶことの方が一般的であった。現代では、コウバはコウジョウに比べて小規模で、あまり機械化が進んでいないというニュアンスがある。
道具と手の熟練に基礎をおいた家内工業が機械と蒸気力に基礎をおいた工場制度へ移行することは,イギリス産業革命の最もドラマティックな変化であったが,この変化を代表するのは綿工業,とりわけ紡績業であった。昔ながらの紡車に取って代わった最初の紡績機はハーグリーブスのジェニー機(1770特許)であるが,手で操作でき,小型で安価であったから,旧来の家内工業に広く取り入れられた。紡績業を家内工業から工場制度に変えたのは,アークライトの水力紡績機(1769特許)であった。彼の初めの工場では動力源は馬力であったが,1771年ダーウェント川のほとりに設立されたクロムフォード工場では水力が利用された。この工場は成功して数年後には9000錘を設備し,300人の労働者を雇用して工場のモデルとなった。このため水車小屋を意味した〈ミルmill〉が工場(ファクトリーfactory)の意味に用いられて,初期の綿工場は〈コットン・ミル〉と呼ばれ,発明家アークライトはまた世界最初の工場の完成者として知られるようになった。
しかし工場の原動力が水力に依存する限り,強力な馬力は得られないし,冬の凍結期や夏の渇水期には利用できないこともあった。さらに,水力の得やすい山間僻地にしか工場が設けられないという不便さがあった。工場をこれらの自然的制約から解放し,その能力を十分に発揮させたのはワットの複動式蒸気機関である。綿工業界において最初にこれを備え付けたのはアークライトの紡績工場で,1790年であった。しかし綿工場の原動力が水力から蒸気力に移るのは意外に遅く,蒸気力が綿工場の動力源として全馬力数の4分の3を占めたのは1830年代半ばであった。
工場では,(1)多数の労働者が一つの屋根の下に集められ職工長の監督をうける。(2)建物や機械設備など多額の固定資本を能率よく利用し,コスト(間接費)の節減を図るためには,必然的に一定規模以上の生産を継続しなければならない。(3)生産工程は機械のペースで進行し,量産化と生産物の標準化が推進される。このような基本的特徴のゆえに,工場制度の出現は,生産力の飛躍的発展とともに,大きな社会変化をもたらした。たとえば,(1)自宅で家族と共に働き,余暇には農作業にいそしんだ農工結合の生活様式は,工場規律の下の集団生活に変わり,他人に監視され時計に規制されるようになった。まさに一つの生活革命である。(2)生産の機械化・標準化によって熟練職人の地位は崩れ,職人はほとんどの生産手段から切り離されて賃金労働者に転落し,他方に工業企業家の台頭をみた。(3)滅びゆく手工業技術の運命を嘆き,失業の不安にさらされた人びとは工場制度に敵対してラッダイト運動をおこし,政府は工場法を制定して工場主の虐待から児童労働を保護しなければならなかった。
執筆者:荒井 政治
日本において機械(作業機,動力機)を備えた工場は,江戸時代末期に外圧が強まるなかで幕府および雄藩によって初めて設立された。幕府の浦賀造船所(1853),長崎製鉄所(1861),関口製造所(1863),横須賀製鉄所(1864),水戸藩の石川島造船所(1854),薩摩藩の鹿児島集成館(1857),鹿児島紡績所(1867)などがその代表的なものである。鹿児島紡績所以外は,いずれも兵器・軍艦製造を目的とした軍事工場であり,オランダまたはフランスから機械・設備を輸入し,外国人技師および職人を雇って創設された。綿製品の輸入を防ぎ国産化を目ざし,イギリス製機械とイギリス人労働者を入れて設立された鹿児島紡績所は,日本の機械制紡績工場の嚆矢(こうし)となった。これらの幕藩営工場はほとんど実績をあげないまま明治維新を迎えるが,維新後新政府はこれらを接収し,その遺産をもとに富国強兵政策を進めていった。とくに幕藩営軍事工場は,後に東京・大阪両砲兵工厰と横須賀海軍工厰・海軍造兵厰となる官営軍事工場(軍工厰)の基礎となった。そのほか新政府は殖産興業のため工場生産の移植をはかり,富岡製糸場(1872,フランス式機械導入),堺紡績所(鹿児島紡績所支所,1872官収)などの官営模範工場を設立し,また1878-79年にはイギリスから二千錘紡績機を12基購入して紡績工場の設立を助成した(官営工業)。しかし概して官営工場の経営業績は芳しくなく,集中的に拡充された軍事工場を除き,やがて民間に払い下げられていった(官業払下げ)。
こうしたなかで,1870年代後半から民間にさまざまな分野で工場がつくられてくる。《第四次帝国統計年鑑》に収録された日本で最初の工場数・労働者数の全国統計(1882年12月末現在)では,民間の工場数2033,労働者数6万1050人に達した。しかし,この統計は各地で〈工場〉と呼ばれているものを調査したもので,そのうち原動機(蒸気機関,水車)所有工場は84にすぎず,手工制工場や少数の労働者をもつ作業場が多く含まれていた。製糸・紡績・織物などの繊維工業が工場数・労働者数・生産価額とも総数の60~75%を占め,とくに製糸は工場数1071,労働者数3万7677人の多数に上っていた。これらの工場は当時の外国貿易の拡大に刺激されて,各地の豪農・豪商によって設立されたもので,やがて80年代後半以降の産業革命の展開を支えていった。また前記統計の実施年(1882)の前後には農商務省工務局が工場法の調査・立案に着手している(1911成立)。
→産業革命
執筆者:大石 嘉一郎
工場建築は,産業革命以前は工場というより仕事場と呼ぶのがふさわしい建築で,業種により採光換気のため窓が多い以外あまり特色はない。
イギリス産業革命期の工場も,初期は煉瓦造4階建てほどで規模は大きいが,構造・材料から見た場合,それ以前の仕事場と基本的に変りはない。しかし,機械と蒸気機関の導入による工場生産の比重が増すにつれ,人と物のより能率的な配置や動きを考え,柱間の広く明るい自由な空間が求められるようになる。このためまず鉄柱が導入されるが,世界最初の鋳鉄造の柱・梁を用いたのはシュルーズベリーの亜麻紡績工場(1796,設計ベージCharles Bage。現存)である。ただし外壁は煉瓦造で,鉄材はまだ部分的にしか用いられていない。
19世紀に入ると,木造小屋組みを鉄骨トラスに替え,鋳鉄の大梁・小梁を組み合わせ,より広く明るい内部空間をもった工場が現れる。しかし,このころはまだ建築家は工場建築に興味を示さず,ほとんどの工場は無名の技術者の手になるものであった。
外壁まで全鉄骨造の工場建築は,19世紀後半から各地に現れる。イギリスでは1820年代より鉄骨プレハブ建築の開発が始まるが,50年代には工場・倉庫を含む各種プレハブ建築が植民地に輸出されている。ヨーロッパ大陸ではフランスが特に技術が進んでおり,たとえばパリ東郊に建つムーニエのチョコレート工場(1872,設計ソルニエJules Saulnier)が現存する。アメリカでも同じころ急速に広まったが,なかでもニューヨークの鉄工場主ボガーダスJames Bogardusは,自分の工場を外壁まで全鋳鉄造として構法を工夫したほか,1840~60年代に高層の鉄骨造工場を多数建てた。
鉄骨がまだ鋳鉄を主とするとき耐火性に難点があり,これを補強する形でコンクリートが登場し,やがてこれを主とした鉄筋コンクリート構造が工場建築でも主流となってゆく。フランスではエンヌビクFrançois Hennebique(1842-1921)が先駆的研究をなし,トゥールコアンの紡績工場(1895)などで柱・梁・床とも鉄筋コンクリート造で窓の大きい近代工場建築の原型をすでに造り上げた。アメリカでエンヌビク構法を最初に用いた鉄筋コンクリート造工場は,ランサムErnest Leslie Ransomeにより1898年に建てられた。しかし最も有名で影響力の大きかったのはフォードの自動車工場のほとんどを設計したカーンAlbert Kahn(1869-1942)で,短い工期で大規模な工場を建築するシステムを開発し,革命後のソ連に招かれ工場建設を指導した。近代建築史で工場建築が高い評価を得るのは,ベーレンスのAEG社タービン工場(1907)とされるが,弟子グロピウスのファグス靴工場(1911)にいたって近代産業にふさわしい工場建築の典型が定まった。他方,フランスのA.ペレは,パリの衣服工場(1919)のようにアーチやシェルなどコンクリート構法の特性を巧みに生かした工場を設計し広く影響を与えた。
日本の近代工場建築は,幕末に幕府が建てた長崎製鉄所(1861),薩摩藩が建設した集成館と呼ぶ工場群に始まる。どれも石造または煉瓦造で,木造洋風の小屋組みをもっている。日本最初の鉄骨造工場は,元海軍技師若山鉉吉(げんきち)(1856-99)が設計し,フランスより骨材を輸入して建てた秀英舎印刷工場(東京,1894)である。しかし,まもなく1901年創業の八幡製鉄所が自社の鉄材で15棟2万6800m2に及ぶ工場を建てている。鉄筋コンクリート構造は明治20年代から紹介され始めたが,最初の鉄筋コンクリート造工場は海軍技師真島健三郎(1873-1941)設計により佐世保鎮守府構内に建てられた潜水器具庫,第一烹炊(ほうすい)所(ともに1905)である。このように,日本の工場建築は国と軍が先導し開発されていった。
執筆者:山口 廣
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
一定の固定資本と流動資本が投入され、機械体系を基礎とする労働者の分業と協業に基づいて、商品生産が継続的に行われる場所をいう。固定資本とは、工場用地、生産・事務用建造物、機械、原料・製品倉庫等に投入された資本をいい、流動資本とは、原材料確保と労働者の雇用に投入される資本をいう。
工場での商品生産(工場制工業)は、機械設備を主要な労働手段として組織されるため、機械制工業とよばれる。ここでは、多額の固定資本の能率的利用および回収のため、一定規模以上の生産が継続的に拡大されねばならない。そのためスタッフ部門による新製品の開発やマーケティングを含む生産計画、資材および運搬管理、品質ならびに原価管理等の徹底が図られるほか、可変資本(労賃)の最大限利用による利潤拡大のため、労働時間の延長と労働強化が労務管理の中心課題となり、工場長・職工長を中軸とする監督・命令ラインの強化が、スタッフ部門の拡充強化を伴いつつ実現されている。工場内では、生産現場(直接部門)と事務部門(間接部門)ともども最大限の合理化が図られるが、工場規模が拡大すればするほど、むしろ間接部門が肥大化する傾向があり、大企業では人員面の直・間比率が1:2あるいは1:3に達するのが普通である。図面・見積り図面の作成、開発作業、技術サービス、エンジニアリング等技術部内の間接部門担当者の増加のほか、管理部における作業伝票、作業手順書、作業指示書の作成、経理部門における伝票処理などの業務の増加などがその原因である。
[殿村晋一]
大小の工場は、その製品の性質によって、それぞれ、素材、部品、組立て部門のいずれかに属している。しかし、単一の機械あるいは1人の人間で仕上げられるような商品は例外的で、大多数のものは、数段階にわたる工程を経て製作される。工場生産を支配している原理は、マニュファクチュア(工場制手工業)を出発点とする分業に基づく協業であり、それぞれの作業は一定の工程に従う。この場合、工程は、製品加工の手順であると同時に製品移動の経路であり、工場内の地理的配置、機械の配置や人員の配置を示すものである。1人1人の労働者が持ち場で行う単純な反復工程によって、一つの全体作業としての「工場生産」が生まれる(したがって工場は、生産の基本単位であると同時に、労働のなかの人間関係をも規定するのである)。
[殿村晋一]
一般に、イギリス産業革命は、紡織を中心とする作業機の発明と普及に始まり、蒸気機関という原動機と伝動機構の登場が多数の作業機の同時並列的運転を可能にし、マニュファクチュア時代の労働者の協業と分業が、同種作業機の何百台にも及ぶ並列的協業と異種作業機間の分業に置き換えられ、そこでの人間労働は機械の単なる補助労働に転化したといわれている。確かに、ここでは1台の作業機が一つのマニュファクチュア工場のほぼ全工程を遂行しており、女性や児童が生産の前面に進出し、成人男子は仕上げ工、監督工、ないしは運搬・艀(はしけ)運送・石炭荷揚げなど筋力を要する二次的領域に後退している。
しかし、この大量生産型の紡織工場や縫製工場は現代の工場の主流ではない。工場生産の主流は、電力という新動力の登場と関連して、20世紀初頭前後から、むしろ特殊的諸工程を独立させる方向に向かった。そして機械もまた、部分工程が要求する特殊機能を有する高度な専門機械を体系的に発展させる方向(大型溶鉱炉、化学合成・重合塔、超硬工具を備えた高速切断機、精密研削盤など)に向かった。近代的な機械化量産工場の諸工程は、特殊化され、高能率化され、大能力を有する単能機械の作業を単位として構成された。作業機と違って単能機械は、たとえば旋盤に代表されるように、作業具の延長として生まれたものである。旋盤は熟練労働者の「道具」であり、彼はなお機械の主人である。この意味では、製鉄用高炉も、電気炉も、鍛造ハンマー装置も、熟練工の存在があって初めて本来の機能を発揮する。ただしその熟練とは、手工業者の全人的熟練とは別の、特殊化された部分的熟練である。個々の熟練労働者の単能機械・装置、つまり部分工程への生涯的従属は、機械の進歩によって従来よりも強固に固定化された。イギリスを先頭とする近代製鉄業においても、製鉄・錬鉄・圧延、とくにその加工諸工程において、熟練工の指揮のもと補助労働者の利用が一般的に行われている。ここでは人間の腕と勘がなお機械を駆使している。わが国の町工場の発展を支えたのも、この種の誇り高き職人的技能工の大量の存在である。
[殿村晋一]
現代の大量生産工場には、(1)自動車工業を典型とするコンベヤー・システムによる組立て機械工業と、(2)鉄鋼業・化学工業を典型とする装置工業の2系統が存在する。20世紀初頭のテーラーによる科学的管理法とフォード・システムが出発点となり、オートメーション化は各組立て産業において世界的に普及した。20世紀中葉からは、電子工業をはじめとする科学・工学の発展を基礎に、自動制御装置の発展がみられ、まず機械(とくに工作機械)の自動化が多軸自動盤や多軸ボール盤を生み、ついでトランスファーマシン(加工工程順に配置された自動機械をコンベヤーその他の方法でつなぎ、製品が次々と自動的に加工されるシステム)が、一つの素材から完成品までを自動的に加工することを可能にした。しかもこの動きは、一部品の生産にとどまらず、全工場にトランスファーマシンを設備し、工場全体が自動的に動く自動工場を誕生させている。組立て工業の多くでは産業用ロボットの導入によって自動化率を高めている。化学工業は、加工工程の主要部分が蒸留塔や反応缶などの装置で占められ、原材料が流体であるため、装置相互間をパイプで連絡した工程の連続化が可能で、オートメーションの導入が容易である。また、工程中の諸中間生産物をパイプラインで諸工場に分配することによって相互に関連しあう工場群が成立し、化学コンビナートが形成される。事務部門でも電算機利用によるビジネスオートメーションの進展が著しい。
オートメーションの進展に伴い、新しい型の高度な技能を有する技術者が必要となり、設計者、生産計画者、整備の熟練工、組織者、経営者が生産の中心部分を握る過程が進行(知的労働の拡大)する一方で、計測器の監視やカードパンチングなどにみられる精神的・肉体的苦痛を伴う単純労働が増加する。オートメーション化によって人々が機械的反復労働から解放され、労働者人格の全面的な発達が可能になるというよりは、逆に、多くの現場で、労働過程からの直接労働者の遊離が引き起こす社会的病理現象の拡大の可能性が増大している。コンベヤー・システムのもとでの労働の非人間性は周知の事実であるが、近代的オートメーション工場での交替制による24時間操業(夜間は男子労働者)でも、単純労働における精度と低賃金の対象として女子労働の大量採用がみられ、そこでの労働密度の強化は超近代工場における現代版女工哀史を生み出している。このほか、コンビナートにおける大気汚染、大量排水による河川・沿岸の水質汚濁など、工場は高度に発展した物的生産の場でありながら、同時にまた、多様な社会問題の原点として、従来にもまして深刻な影響を社会に与える存在となっている。
[殿村晋一]
『中岡哲郎著『工場の哲学――組織と人間』(1971・平凡社)』▽『中岡哲郎著『人間と労働の未来』(中公新書)』▽『中岡哲郎著『コンビナートの労働と社会』(1974・平凡社)』▽『司馬正次著『オートメーションと労働』(1961・東洋経済新報社)』▽『森清著『町工場からの発想』(講談社文庫)』
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…またアメリカでの管理の研究はきわめて実践的な性格をもって登場し,展開されてきたので,その側面にも光をあてながらその動きをみてみよう。
[内部請負制]
まず工場レベルに焦点をおくと,広義の機械工業では産業革命以降かなり長期にわたって内部請負制subcontract systemが採用されていた。それは,かつて熟練労働者であった者のなかで,それなりに能力があって内部請負人となった者が資本家との間で契約を結び,一定種類の作業を一定量,一定期間,一定価格で請け負って完成させるものである。…
…工場抵当法(1905公布)により認められた抵当制度で,狭義の工場抵当と工場財団抵当とがある。工場は,土地・建物などのほかに各種の機械器具等から成り立ち,これらが互いに有機的に結びつき一体的に工場経営の用に供されているのであるが,これを担保にして融資を受けようとする場合,民法の原則によれば,各土地・建物ごとあるいは各動産ごとを個別に抵当権あるいは質権の目的とすることを要することになる。…
※「工場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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