日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス民主連合」の意味・わかりやすい解説
フランス民主連合
ふらんすみんしゅれんごう
Union pour la démocratie française
1978年2月1日に、同年3月に行われた総選挙に向けて当時の大統領V・ジスカール・デスタンのイニシアティブのもとに結成された、ドゴール派の共和国連合(RPR)を除く当時の与党=右翼・中道派6党〔共和党Parti républicain、社会民主主義センターCentre des démocrates sociaux(略称、CDS)、急進共和・急進社会党Parti républicain radical et radical-socialiste、社会民主党Parti social-démocrate、展望・現実クラブClub perspectives et réalité、直接加盟Adhérants directs〕の連合組織。略称、UDF。
結成された当時のフランス民主連合の中核的部分を占めた政党は、1977年5月に全国独立共和派連盟Fédération nationale des républicains indépendants(1966年創立。議長フランソワ・レオタールFrançois Léotard(1942―2023))を改組したジスカール・デスタンの共和党(書記長ジャン・ピエール・ソワッソンJean-Pierre Soisson(1934―2024))であり、これにジャン・ルカニュエJean Adrien François Lecanuet(1920―1993)議長が率いる社会民主主義センターおよびセルバン・シュレベール議長が指導する急進共和・急進社会党と社会民主党、展望・現実クラブ、直接加盟党員が加わってこの選挙共闘組織はつくられた。同年3月の総選挙では、UDFは123名の議員を当選させ(うち共和党71名、CDS35名、急進党7名)、ドゴール派のRPRとともに二大与党を形成した。社会党のミッテランが大統領に当選した1981年5月の翌月の6月の総選挙では社会党に敗れてフランス民主連合は61議席に落ち込み野に下ったが、5年後の1986年3月の比例代表制で行われた総選挙では129議席を獲得して与党の座に返り咲き、シラク内閣に20名の閣僚を送った。ミッテランの再選から2か月後の1988年6月の総選挙ではふたたび社会党を中心とする左翼勢力に敗れて下野し、同月末にジスカール・デスタンが議長に選ばれた。1991年11月、デファンスのグランド・アルシュでの全国協議会でジスカール・デスタンは議長に再選され、フランソワ・バイルーFrançois Bayrou(1951― )が書記長に選ばれた。1993年の総選挙で同党は215議席を獲得し、バラデュール内閣に16人の閣僚を入閣させた。1996年3月にはフランソワ・レオタールが新議長に選ばれ新体制が発足したが、翌年の総選挙でジョスパンLionel Robert Jospin(1937― )の社会党に敗れ、野党第二党に甘んじた。
UDFを構成する政治組織は、1995年に民主勢力Force démocrate(議長フランソワ・バイルー)は前身のCDSを引き継ぎ社会民主党を合流させ、共和党は1997年総選挙後に自由民主Démocratie liberale(議長アラン・マドランAlain Madelin(1946― ))に改編され、展望・現実クラブは1995年10月にフランス民主人民党Parti populaire pour la démocratie française(略称PPDF。議長ジスカール・デスタン元大統領、委員長エルベ・ド・シャレットHervé de Charette(1938― )元外相)という名の政党として再発足した。
[横山謙一]