日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヘブロン合意」の意味・わかりやすい解説
ヘブロン合意
へぶろんごうい
Protocol Concerning the Redeployment in Hebron
イスラエル占領地のヨルダン川西岸にあるヘブロンからイスラエル軍を撤収させることなどを約束した、イスラエル政府とパレスチナ自治政府との1997年1月の合意。
エルサレムの南32キロメートルに位置するヘブロンは、ユダヤ教徒とイスラム教徒の双方が崇(あが)める預言者アブラハム(イブラヒム)の墓(マクペラの洞窟(どうくつ))があり、両教徒にとっての聖地である。市内には約12万人のアラブ・イスラム教徒のなかに約500人のユダヤ人入植者が入り組んで居住しているほか、周辺に大きなユダヤ人入植地が存在する。このため、1995年の「自治拡大協定」(第二オスロ合意)によってヨルダン川西岸6都市からイスラエル軍が撤退した際にもヘブロンは別扱いとされた。イスラエルが、労働党のペレス政権からリクードのネタニヤフ政権に交代したことや、エルサレム旧市街のユダヤ教の聖地「嘆きの壁」からパレスチナ人地区へつながるトンネルの出口を開いたことによる流血事件などで交渉は大幅に遅れていた。
ヘブロンからの撤退が、イスラエルのネタニヤフ首相とパレスチナのアラファト議長の間で合意に達したのは1997年1月15日、議定書は1月17日に調印された。イスラエル閣議では強硬派が合意に反対して10時間に及ぶ激論となったが、国会承認後は異例の早さで、3日後にはヘブロンの約80%の地域からイスラエル軍が撤退した。なお、マクペラの洞窟やユダヤ人入植地、イスラエル軍施設など約20%がイスラエル側の支配地域に組み入れられた。
ヘブロン合意では、調印に際してアメリカのクリストファー国務長官(当時)からネタニヤフ首相に送られた書簡によって、ヘブロン以外の占領地での三段階方式による軍撤退に関する合意も取り交わされた。第一段階の撤退が1997年3月初めに実施されること、1996年5月に第1回会議が開かれたまま中断しているガザ・ヨルダン川西岸地区の最終地位交渉も2か月以内に再開されることがその内容であった。しかし、イスラエル軍撤退の規模をめぐってその後の交渉が難航し、進展はなかった。労働党のバラク政権で和平交渉が再開したが、いったんはイスラエル軍が撤退した地域も、2001年からのシャロン政権下でイスラエルが自治区への侵攻を繰り返す事態となった。
[勝又郁子]